見ると、若様は手にした盃を膝頭の上で弄んでいる。それを見て、私はようやく彼の意図するものが見えてきた。 「はっ、はい!!」 慌ててとっくりを手にして、そこではたと止まる。傾けかけた手元を一度そっと戻し、ちらっと注ぎ口の奥を確認した。途端に傍らで笑い声が上がる。 「ああ、良い心がけだ。あとから腹を立てて客人に当たるよりもずっといいぞ」 そう仰ったあとに、傍らの肘置きに身を預けて盃をこちらに差し出してくる。ひらりと気の中を泳ぐ袂が燭台の灯りに照らされてたいそう美しい。 ―― これって、あの夜まで時間を全て戻したみたいだわ。 置かれた燭台の数は少ないものの、その他の小道具はそう変わらない。そして何より、あの夜に増してお美しく見える彼が目の前にいた。 「そうだな、始める前に今回の設定を決めよう。君は今夜本館のご隠居殿が主催した宴席でとある客人の目に留まった。それでお開きになったあとに彼が今宵あてがわれた部屋へと呼ばれたんだ。遠方からの招待客に宿泊する部屋を用意することは良くあるしね、結構頻繁に起こっていることなんだよ」 へえ、そうなんだ。侍女の方から積極的に夜這いに行くなんて、噂には聞いていたけど本当のことだったのね。なんかとても生々しいわ、どきどきしちゃう。 「どうぞ」 改めて身体を少し前に出し、ゆっくりととっくりを傾ける。燭台に照らし出された空間が、この上なく優雅なひとときを美しく演出していた。そして舞台の真ん中にいるのは夢の世界から抜け出てきたような御方。 いくら私自身が御領主様の御館に侍女として上がりたいと申し出ても、実家の皆が承知してくれなかったらそこまでだ。ここまで縁談の話が進んでしまっている今、私の意が通ることは期待できないと思う。でも、いい。それでも構わない。時を遡ることは出来なくても、ここに確かに存在する「今」がある。 「うまいな」 薄い口元に一口含んで、それからこぼれ落ちた言葉。お酒のことを「美味いな」と仰ったのだろうか、それとも私の酌を「上手いな」……と? 「これは間に合わせで用意した安酒であるが、それでも酌の具合によっては味に深みが出ると言うことか」 妖しげな微笑みで問いかけられたら、どうしていいか分からなくて固まってしまうじゃないの。何度も瞬きをしたら、それをご覧になった若様がお行儀悪く吹き出す。 「おいおい、男が口説いてるのに呆けてる奴がいるか。そんな色ない反応じゃ興ざめだぞ、全く何を考えているんだ。もっとしっかりやれ―― ほら」 いつも通りに盃はひとつしかご用意しなかった。たった今お口を付けたばかりのそれを、どういうわけか若様はこちらへと差し出してくる。「もう一杯」というよりは、「受け取れ」って感じ取れた。 「お前も一杯どうだ。ほろ酔いくらいの方がいい演技が出来ると言うぞ」 慌てて受け取ると、そこになみなみと酒を注がれる。へえ、小さいように見えて結構な量が入るのね。こうして手にしていると重みでそれがよく分かる。 「ち、頂戴いたします」 こんなにたくさん大丈夫かな? と一瞬頭をかすめたけど、まあ勧められてしまったものは仕方ない。すでに召し上がった若様がこんなに平然としていらっしゃるのだもの、きっと大したことはないんだわ。うーん、本当のところ甘い白酒とかの方が好きなのよね。 最初のひとしずくが唇に触れて、ちりっと微かなしびれを感じた。えー、これってかなり強めじゃない? そう思ったものの、必死で飲み干した。ああ、喉が熱い。 「ふふ、いい飲みっぷりじゃないか。そうだな、勧められるものは断らない方が可愛らしいぞ。やはり酒の席には共に酌み交わす相手がいた方がいい」 彼は私から取り上げた盃を「もう一杯」と差し出してくる。ハッとして再びとっくりを持ち上げたものの、今度は何だか目の焦点が上手く合わない。えー、あれくらいのお酒で? そんなこと、ないよなあ……。 「おい、何やってるんだ。……大丈夫か?」 うわ、やばいっ! 全然見当外れの場所につぎかけていたじゃない。口からこぼれる前に若様が制してくれたからいいようなものの、もう少しで大切な御衣装を汚してしまうところだった。 「どうした、もう酔いが回ったのか? 顔が赤くなってるぞ」 そ、そんなはずはないと思うんだけど。私、結構お酒には強い方なのよ? それなのに、頬にすっと触れた若様の指先が氷のように冷たく感じられた。 「だ、大丈夫ですっ! その……」 自分ではしっかりと姿勢を正してるつもりなのに、そういている間にも視界がどんどん傾いていく。どうしたんだろう、この頃忙しかったから疲れが溜まっていたのかしら。床に手をついて身体を支えようとしても、一体どこにそれがあるのか分からない。 「きっ、きゃあっ……!」 座した場所ごとがくんと落ちる感覚がして、思わず叫んでいた。その瞬間、きらめく袖が私を大きく包み込む。 「馬鹿。ほら、しっかりしろ」 両腕で支えられたことで、どうにか正気が戻ってきた。先ほどまでのぐらぐらした視界もなくなり、元通りの部屋が現れる。……だけど。その一方で私はかなり危険な状態に置かれていた。 「ふふ、こう言うのも嬉しい誤算という奴かな。まさか君の方から胸に飛び込んできてくれるとはね」 え? と思ったときにはもう、身動きが取れないくらい強く強く抱きすくめられていた。 若様は上背もある逞しいお身体の持ち主で、身につける衣なども大きめに作られている。剣や弓などの本格的な武術にも長けていると言うから、普段より鍛えられているのだろう。 「……そ、そのっ……」 あまりの衝撃に一気に酔いは醒めたけど、今度は全身が違う意味で震え始めた。 若様のお召し物からはいつも花の香りがしていた。でもここまで近くなるとその奥にあるしっとりとした殿方の香りもはっきり感じ取れる。このままでいたら、若様に酔わされてしまいそう。それに稽古って言ったって、これ以上一体何をしたらいいのか分からない……っ! そのあと、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。ほんの一瞬のようにも気の遠くなるほど長い間合いのようにも思えた。耳に届くのは高鳴る鼓動ばかり、これって私ひとりのものなのかしら。頭の隅々まで反響して、訳が分からない。―― そして。 「……っ!」 尖った耳元に何かが触れた気がして、身体がびくっと大きく跳ね上がった。刹那、束縛が解け強い力で振り落とされる。一体何が起こったのか全く分からないままに、次の瞬間には頬がひんやりとした板間に押しつけられていた。 「まったく、やってられないね。一体何を考えているんだ、お前は。せっかく言い寄られているのに、そんなでくの坊じゃやる気も失せるってもんだ。玉の輿だか何だか知らないけど、そんなの絶対に無理だから。僕もやる気のない弟子にこれ以上教えることはない」 頭上から氷水をたっぷりと浴びせかけられたような、身体がちぎれるほど冷たいお声だった。呆然と顔を上げると、心の消えた瞳が私を見据えている。 「帰れ、もう二度と僕の前に現れるな」 それだけ吐き捨てると、若様は荒々しい足取りで奥の間へと進み、そのまま襖を閉ざしてお籠もりになってしまった。
◆◆◆ 「お嬢様、お加減は如何ですか。その……もうお出掛けになりませんと」 夜半に舞い戻った私を、小絹は驚きの表情を隠せずに迎えた。幼心にも今宵自分の女主人が戻らないと言信じ切っていたのだろう。先方が急用で留守であったという言葉を真実として受け取ってくれたのかどうかは分からないが、それ以上を訊ねられることはなく安堵した。 「……分かったわ」 再び少女が口を開きそうになるのを察して、私は先に応える。若様に絶縁状を突きつけられた自分ではあるが、任されたお務めはきちんと全うするべきだと思う。お顔を拝見することなくご挨拶だけして戻ればそれでいいではないか。 「すぐに用意して出掛けましょう。あなたの兄上に、表庭の様子を確認してもらって」 障子戸の向こうの光が眩しくて、そっと目を伏せる。瞼の奥がじんと痛み、昨夜の全てがまた鮮明に蘇って来た。
あのあと。 しばらくはめまぐるしい状況の変化について行けず、ただ呆然と冷え切った板間に取り残されていた。燭台の灯りもいつの間にか消え、時折外の荒れの様子が木戸を通して聞こえる他は物音ひとつしない。混乱した頭の中をひとつひとつ紐解いて最後に辿り着いた結論は、私が若様をひどく失望させてしまったという事実であった。 「華やかな噂ばかりが聞こえてくるけど、実際の若様はとても真面目で仕事熱心な方だよ。しかもご自分の手柄のためではない、跡目となった兄上様のためにと身を粉にして働き続けておられるのだ」 いつか暁高兄上から聞いたことがある。身軽な立場で好き放題なさっているともっぱらの評判の主様であったから、お仕えするのも大変だろうと興味本位に訊ねてみたのだ。そして今では、あのときの兄上のお言葉が実感を持って受け止められる。自らの生まれや名声に惑わされることもなく、ただひたすらにご自分の信念を貫き通していらっしゃった。
日に日に明るさを増していく細道に落ちる足取りは重く、それを上回るように心も重い。もう目的地はすぐそこという分かれ道まで来ても、まだとって引き返す理由ばかりを考えている。そのとき、視線の端にきらりと光る何かが横切り心を奪われた。 ―― いいえ、もしかしたら。この度のことは私が思っているほど大事ではないのかも知れないわ。 一瞬だけ感じたきらめきは、すぐにどこかに消えてしまった。少しだけ浮かびかけた心を取り逃がさないように必死でたぐり寄せる。そうよ、ここしばらくは信じられないほどたくさんの出来事が起こったけど、それでもどうにかやり過ごしてきたじゃない。 前向きの思考に切り替えた途端に、足取りは驚くほど軽やかになった。庵に入る道では、もう少しで周囲を確認するのを忘れてしまうところだったくらい。小走りで縁の先まで辿り着く頃には、慌てすぎたせいでまとめ髪がひどく乱れていた。 「あの―― 」 遅れて申し訳ございません、朝餉の膳を持って参りました―― とあとに続く言葉を発しようとした唇が凍り付く。刹那、目にも鮮やかな朱色の薄衣が視界に広がり、少し遅れて艶やかな銅色の髪が流れてきた。 「あなた、誰。この庵に何か御用?」 美しく澄んだ声が頭上から降ってくる。聞き覚えのないその響きは確かに女人のもの。そう思って顔を上げれば、凛とした見知らぬ面差しの女子(おなご)様がそこに立っていた。
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