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…14…

「玻璃の花籠・新章〜鴻羽」

 

「え……ええと」

 きりりと引き締まった口元には、今咲ほころんだばかりの花びらのような瑞々しい紅が引かれている。透き通った肌、整った目鼻立ち。弓形にかたち取られた眉は一寸の乱れもない輪郭を鮮やかに際立たせていた。

 もしや再び姉上様のご登場? ……いいえ、それは違う。ちらと確認した袴帯の結びが私にそれを教えてくれた。
  いつか若様が仰ったのよ、素性の分からない女人のご身分を素早く知るためにはその部分を見ればいいって。自らの手で結んだ場合と他人に結ばせたものとでは向きが逆になる。だから使用人を抱える身分のある御方はたとえご自分で結ぶときにもわざわざ逆向きにするのだと。

 ……ということは?

 呆然と立ちつくすばかりの私を、壇上の女人は冷ややかな眼差しで見下ろしている。そのうちにこちらの手元にあるものに気付いたのだろう、彼女はほんの一瞬だけぴくりと頬を動かした。

「ああ、あなたが若様の身の回りのお世話を言いつけられていたとか言う下女? そうならさっさと名乗りなさいよ、やはり田舎者は気が利かないわね……情けないこと」

 大袈裟に溜息を落としたあと、彼女はさらさらと流れ落ちた髪を指先で緩やかに整える。そして今一度姿勢を正すと、縁の上から見下ろす女子は一目でそれと分かる勝利者の微笑みを浮かべた。

「今までお役目ご苦労様、でももうあなたの助けなどいらないわ。この先の若様のお世話は全てわたくしが行います、そのつもりでこちらに参りましたの。もっと早く到着するつもりだったのだけど、思いがけず暇が掛かってしまったわ」

 驚いて見上げた私の顔を見て、彼女はますます嬉しそうな表情になる。得意気に自慢気に、己の存在をこれでもかと知らしめているみたいだ。頬に冷たいものがひやりと落ちた気がする。それでも視線を彼女からそらすことがどうしても出来なかった。

「で、ではあなた様が……」

 そうか、最初にそのような話を聞いたような気がする。この度の内密な調査が決まったのがあまりに急なことであったので、すぐには身の回りのお世話をする方が呼び寄せられないとか。そのために当座のこととして私が代役を申し使ったのだわ。何だかあの頃のあれこれが、途方もなく昔のことのように思われる。
 でもまさか、それがこんなにお美しい方だったなんて。しかもこの堂々とした立ち振る舞い、見たところ私とはそう歳が変わらないように思えるけど御館務めに関しては相当な経験を積んでいる感じ。

「そうよ、分かったならさっさとお戻りなさい。ああ、その膳は置いていっていいわ。まだ到着したばかりで食材の手配も間に合わないの。若様は夜までお戻りにならないそうだから、それはわたくしが頂きましょう」

 はっきりと言い切られてしまい、返す言葉も浮かばない。それにこの女子様は私のことをただの下女だと思っている。日頃から若様にお仕えしている身の上ならば、暁高兄上のこともご存じのはずよね。でも、何となく今は名乗る気持ちにもなれなかった。

「し、承知いたしました」

 心をどこかに置き忘れたままでも、身体は機械のように勝手に動いていく。俯いたまま膳を縁に上げて一礼する。そのあと、くるりと向き直ったところで再び頭の上から声が聞こえた。

「あ、……そうだわ。ちょっと待って、あなた」

 のろのろと振り返ると、壇上の女子様は輝く笑顔でご自分の思いつきを披露した。

「わたくし、長旅でとても疲れているの。あまり大袈裟にしないようにと言われたから誰も連れずに来たけれど、ひとりで何もかもを片付けるのはさすがに骨が折れるわ。悪いけど上がって手伝って下さらない、どうせ暇なんでしょうから」

 

◆◆◆


 確かに「手伝ってよ」と仰ったわよね。

  それなのに私を庵に招き入れた女子様は敷物の上に座り込んだまま、やれ戸を立てろ、やれ几帳を裏手に出して気を当てろと口出しばかりをする。

「ほら、ご覧なさい。高い場所まで取り残しなくきちんとはたきを掛けないと、障子戸はすぐに埃が溜まってしまうの。今までは仕方ないわ、ここは無人の状態であったのだから。でもこの先はわたくしがきちんと手はずを整えて借り受けましたからね、人目を憚る必要もないし存分に綺麗にして頂戴」

 まあ、その指図の細かいことうるさいことと言ったら、かの若様も裸足で逃げ出すほどだ。すごいなあ、名家にお仕えする侍女様ってこれほどなのか。奥の寝所を隅々まで片付けた頃には全身大汗をかいていた。昨夜は飾られていたはずのあの衣が跡形もなく片付けられていたことには少なからずの落胆を覚えたが、取り立ててその行方を訊ねるのもどうかと思うし、忙しさの中に気を紛らわせていた。
  普段は積み重ねられたままになっていた行李まで全部どかして掃き清めるのよ、隅に積もった埃なんて肉眼では確認できないほどちょっとなのに彼女はそれを決して見逃そうとはしない。

「御館仕事は同じことの繰り返しで単調だという者もいるわ。でもそれは心がけ次第でどうにでも変わっていくの、きちんとした目をお持ちの方ならすぐにお気づきになるのよ」

 確かに言われた通りに念入りに清めると、すっきりと気持ちのいい仕上がりになるのが不思議。板間も艶やかに輝いて自分の顔が映るほどになってびっくりよ。それもごしごしとただ力任せに拭いても駄目なのね、女子の腕力には限界があるからそれを補うためには長年培われ受け継がれてきたコツがあるのだ。

 

「わたくし、八重(やえ)というの。若様とは乳兄弟と言ってもいいほどの間柄よ、今の御領主様が都より戻られたそのときからずっとお仕えしているわ」

 一息ついた私が茶の支度をととのえると、彼女はしどけなく肘置きにもたれかかりながらご自分の身の上を話し始めた。
  もともとは彼女―― 八重様のお母上が若様のお世話を申し使っていたとか。ご実家は里では指折りの家柄でお父上も官人。はっきりした後ろ盾があることはとても心強く、御館にあまたといる侍女の中でも一目置かれる存在であるという。
  もしも悲願叶って御領主様の御館に出仕できることとなったら、このような方々に揉まれてお務めすることになるのだ。立派な御館には教養の高い優れた侍女が揃っていると話には聞いていたが、こうして実際に目の当たりにすると気後れするどころの騒ぎじゃない。

「だから、この度のことは大変光栄に思っているの。若様は侍女仲間の中でも特に人気の高い主様よ、お若い上に文武に優れその上あのお美しさと立ち振る舞いでしょう。今まで決まった女子様がいなかったのが不思議なくらい、今のうちに寵を受けたいという者はそれこそ行列を作って順番待ちしている状況よ。決まった御方がいらしてはそれも難しくなるでしょうからね、もうみんな必死」

 ご自分もそのひとりに違いないのに、まるで他人事のように楽しそうにお話になる。私にとっては何もかもが初めて耳にする事柄ばかり。もちろん若様の人となりは実際にお目に掛かる前から暁高兄上にいろいろ聞かせてもらっていた。だけど、……これほどだとは。

「このたびのお話がわたくしに決まったときの誇らしかったことと言ったら。悔し涙に暮れる皆様のお顔を是非あなたにも見せてあげたかったわ。何しろ、この狭い庵に一日中ふたりきり。人目を憚ることなく濃密なお世話が出来るでしょう……?」

 ふっと甘い吐息が漏れ出でて、彼女の眼差しに色めいた感情が宿る。そこまではっきりと知らしめられては、もう疑う余地はない。

「その……八重様は夜もこちらにいらっしゃるのですか?」

 ああ、この期に及んで何て間抜けな言いぐさ。自分で自分が嫌になるってこういうことを言うのね。駄目よ、あらぬ事を想像しては。だけど……つまりそういうことなんだろうな。確信を持って頬が熱くなる。

「あら、当然でしょう? 他にどこに行くことがあるというの、ここはわたくしが借り受けた庵なのよ。若様だってそのくらいご承知下さっているわ、何しろ元から知らない仲ではないのですし。それにこのように寂れた場所で、他に何の楽しみがあるというの」

 うわ、聞いているこっちが恥ずかしくなっちゃう。すでに真っ赤に染まっているであろう顔を少しでも隠したくてさり気なく手のひらで覆ってみたけれど……これってバレバレだよなあ。ああ、殿方の艶話も上手くあしらうことが侍女としての最低条件なのに、同性の方の控えめな問いかけでここまでうろたえてしまうとは情けない。

「さ、左様で……」

 嫌だわ、考えるのをやめなくちゃと思えば思うほどに、艶めかしい妄想が次から次へと浮かんでしまう。私の心の友である絵巻物の中には、かなりきわどいものもあったのよ。それにおしゃべりな使用人たちが昼夜を問わずに言いたい放題でいたから、知識だけはあったりするのね。
  でも生半可な情報ってかえって邪魔になるんだな。ああ、もう身動きが取れない。こういう場合も気のきいた受け答えが必要なはずだ。女子同士の親密な付き合いも不可欠な侍女務め、気後れしているようじゃすぐに会話に乗り遅れちゃうわ。

「ふふ、でもね。いろいろ手間取ってしまったのが残念でならないわ。若様は程なくここを引き上げると仰ってるし、後片付けのために来たようなものかも。それにね、わたくし自身もそうのんびりはしていられないのよ」

 八重様の良いところは私の反応などお構いなしにご自分の話を続けられることかも。美しく手入れされた指先をふわりと軽やかに翻して見せる。

「ねえ、あなたはご存じ? 若様のお祖父様に当たられる先の御領主様は、ことのほか人寄せがお好きなの。お住まいになる本館の大広間の戸を全て取り払って行われる季節ごとの宴はそれはそれは華やかなものよ。
  わたくし、近々催される春花の宴で舞姫のひとりに決まっているの。あまたといらっしゃる名だたるお客様の前で披露できるのだから、とても栄誉なことなのよ。そのための手合わせなどもあるから、急ぎ舞い戻らなくてはならないわ。それに若様がお戻りになるなら、わたくしがここに留まる理由もないしね」

 彼女はそこまで話し終えると、音もなく立ち上がる。そして二歩三歩と前に出ると、胸元の袷から扇を取り出した。

「せっかくだから、さわりだけご披露しましょうか? 過去には一度竜王様の御前で舞ったこともあるのよ、とても上手だとお褒めにあずかり柘植の櫛を賜ったのだから素晴らしいでしょう」

 

 扇を前にひらりとかざしたその刹那、それまでの気高い女人様の姿が消えた。そして現れたのは、たおやかな花の精……そう、これは私が若様に稽古をつけてもらった「梅香の舞」だわ。

「……」

 その息づかいまでが伝わってくるほど間近で繰り広げられる儚い物語に心を奪われるのはあっという間であった。お手本として幾度となく拝見させていただいた若様の舞も息を呑むほど素晴らしかった。だけど、もともと「女舞」である題目であるから、やはり女人様が舞われると格段に違って見える。
  しかも八重様はご自分がお話になったところによれば、かなりの腕前の持ち主。幼い頃からお母上と共に御領主様の御館に上がっていたのなら、その道の達人から本格的な手ほどきを受けていたのだろう。

 ひらひらと舞い落ちる花びら、それを追って袂が揺れる。きらめく流れが帯になって広がり、辺りを妖艶に包み込んだ。すごい、これってまさに神業って奴? ここまで間近で拝見していると魂まで抜き取られてしまいそうだわ。

「―― ちょっと」

 はっとして我に返ると、目の前に立っていたのは元通りの八重様であった。頭の切り替えが上手に出来なくて何度も瞬きをする私をきつい眼差しで見守っている。

「いい? ここからが大切なところなの。そんな風にぼんやりとしていないで、ちゃんと見てくれなくちゃ困るわ。何より大切なのは呼吸、そこに気持ちを上手に乗せないと全てが台無しになるの。だからまず先に自分に戻らなくてはね、土台がしっかりしていないままでは美しい花は咲かないわ」

 そうは言われても、一体どこをどのように拝見したら良いのやら。必死に見守っているつもりでも、知らずに踊りの世界に吸い込まれてしまう。

 ……やっぱり、このような素晴らしい御方こそが若様に相応しいのだわ。

 夜のお相手をなさるのだとはっきりと告げられても、いくらかの驚きはあったものの当然のこととして受け入れることが出来た。だって、あまりにもお似合いなのだもの。おふたりが寄り添っていらっしゃるところを思い浮かべただけで、気が遠くなりそうだ。
  もしかして、若様は私にそれを伝えたくて八重様をここまで呼び寄せたのではないだろうか。お忙しい身の上の方をわざわざ呼び寄せることで、言葉では言い尽くせない真実を思い知らせようと。そう、何もかもが違いすぎる。軽い気持ちで御領主様の御館で侍女としてお仕えしたいなんて言うべきじゃなかった。とんだ赤っ恥をかくところだったのよ、何も知らないままだったら。

 

「ああ……肩が凝ったこと。ちょっと揉みほぐしていただこうかしら、それに髪の手入れなどもお願いしたいわ。道具はそちらにあるの、そう……小さな方の行李よ」

 見覚えのないひとつを見つけて蓋を取ると、中には見たこともないお道具がずらりと並んでいた。御髪の手入れって、ただ香油を染みこませれば良いと思っていたのに違うのね。小さな小瓶に入っているのは乳白色のものや琥珀色のものと様々だ。一体どのように使えば良いものなのだろう、全く見当が付かない。

「まずは青い蓋をした透明な瓶があるでしょう、そう他より少し大振りなものね。中の液を湿るくらい手にとって、髪全体に伸ばしていくの。汚れ落としのようなものだから、幾らか時間を置いてから端布で丁寧にぬぐい取るのよ。私たちのような身分ではおいそれと髪を洗う訳にもいかないし、これはとても重宝するわ」

 頼まれてしまったのなら、文句を言わずに従うしかないわね。初めて手にする液体を手のひらにとってみる。思ってたよりもさらさらしていて香りもないから、ただの水とどこが違うのかしらと思ってしまう。
  半信半疑のまま、八重様の御髪にまんべんなく含ませていく。うっとりするほど豊かな髪だからお手入れにも相当な時間が掛かるのだろうな。でも、日々の努力を怠っていては変わらぬ美しさを手に入れることは出来ない。だからこそ長い道中であっても一通りのお道具をお持ちになったのだ。

 一通り行き渡ったところで、今度は八重様の方から思いがけない申し出があった。

「それでは乾くのを待つ間、あなたの髪も手入れしてあげましょう。色艶も申し分ないし、真っ直ぐに素直に伸びて気持ちがいいわ。素材はいいのにこのままではもったいないわよ、きちんとするに越したことはないわ」

 とんでもないことと首を横に振ったのに、全く聞き入れて下さらない。そんな、ここ数日は満足に櫛も入れてなかったわ。あまりにも慌ただしく過ごしていたので、我が身を省みることもなかったし。きっと八重様ならば、私のそんな手抜きにもすぐにお気づきになるだろう。

「いいのよ、もっと長く滞在するつもりで少し多めに持ってきてしまったの。戻りにまた荷物になるのも嫌だし、だからといって捨てるにはもったいないものだし。ほら、きちんと姿勢を正して。背中を丸くしていては全てが台無しになるわ」

 

 交互に作業を繰り返し全てが終わる頃には、もう昼餉の時間を遙かに越えていた。お道具を片付けるために立ち上がってみて驚く。髪の量は全く変わらないはずなのに、どうしてこんなにも軽やかなのだろう。

「ふふ、驚いた? 初めての人はみんな信じられないって言うのよ」

 八重様はご自分の仕事にとても満足したご様子でそう仰る。ああ、本当に。こうして姿見に映してみてもとても自分の髪とは思えない。

「女子にとって髪は自分の価値を決める大切なものよ。その手入れを怠っていてはどんなに美しい衣をまとっても台無しになるの。それにここ西南の集落の民は皆似たような姿をしているでしょう? その中で抜きんでるためには相当の努力が必要と言うことになるのよ」

 

 そろそろお暇をと申し出ると、八重様は身支度を手伝って下さった上に縁の先まで出て見送ってくれた。歯に衣着せぬ物言いをなさる方ではあるが、その一方でとてもお優しい親切な方であるらしい。

「明日もまたいらっしゃい。あなた、何も知らないのだもの。いろいろ教えて差し上げるわ」

 深々と頭を下げて礼を言ったあとに向き直ると、お美しい面差しが確かに微笑んでいらっしゃった。

 

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