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…15…

「玻璃の花籠・新章〜鴻羽」

 

 二度三度と顔を合わせるうちに、不思議なことに私は八重様のことがどんどん好きになっていった。
  もちろん相変わらずお言葉はきついし指摘は細かいし、情け容赦のないことと言ったらこの上ない。だけど的確に自分の足りない箇所を教えてもらえることで、その後が見違えるようになるのだ。ご本人はどこをとっても非の打ち所がない御方だから、彼女のお言葉にはこの上ない説得力がある。

「そちらの行李を開けてご覧なさい。色あわせの基本はもうご存じよね、今日はもう一歩踏み込んだことをお教えしましょう」

 ある昼下がり、八重様は急に思いつかれたようにそう仰った。普段は申しつけられた仕事をただ黙々と片付けていくだけなのだが、時折こんな風に気まぐれを起こされることがある。
  蓋を開けて中を見ると、そこには色とりどりの薄物がぎっしり詰まっていた。赤、橙、黄……と大まかな色に分けられ、同じ色ばかりが揃っているように見えるひとかたまりもよく見ると一枚一枚が少しずつ微妙に違っている。不思議な光景に目を奪われていると、彼女はすぐに分かりやすい言葉で説明をしてくれた。

「これは新しい御衣装を仕立てる前に、どのようなお色や文様がお似合いになるかを決めるためのお道具なの。ひとことに『赤』と言っても驚くほど様々な種類があるわ、大まかに分けて青みの強いものと黄の強いものね」

 そう仰って、私が運んだ一山をゆっくりと広げ始める。微かに衣擦れの音、すらりと伸びた美しい指先が布の上を辿っていく。日々お手入れを欠かさないのだろう、かたちの良い爪が桜色に輝いていた。元々持ち合わせている気質をさらにたゆまぬ努力で磨き上げてゆく。だからそのお姿にも立ち振る舞いにも、凛とした厳しさがある。

「ご本人のお好みもあるでしょうけど、それにも増して重要なのはどれが一番身につける方の肌色を引き立てるかよ。手に取ったときは華やかで良いお色と思っても、実際に来てみると顔色が青ざめて見えることなど良くあることなの。逆に落ち着きすぎていて気乗りしないお色で、ことのほか華やいで素敵に見えることもあるわ」

 八重様は私を軽く手招きして、姿見の前まで呼び寄せた。立ち姿でもゆったりと全身が映る大振りなもので幅もあるので、こうして座しているとふたりの姿をあちら側に見ることが出来る。

「ご覧なさい、わたくしたちは同じ西南の民であるけれど、髪の色も肌の色もかなり違っているわね。わたくしの里は南峰に近い場所にあるから、髪にも金の色が混じっているわ。そしてあなたの方は西に近いから髪色にも肌色にも透明感があるでしょう。これならいろいろな色が馴染むから、とても羨ましいわ」

 そうは言われても、双方にそれほど大きな違いがあるとは思えない。そもそも色選びなんて、そう気を遣ったことなんてなかった気がする。西南の民は似合う色目も限定されていると聞いていたし、あれこれ工夫したり悩んだりするのも面倒なのでつい適当に流行の色を選んでいた。
  別に誰に見せるものでもない、そう思って自室に籠もって過ごしていた日々は確かに気楽ではあったけど、その一方でたくさんの大切なものを見失っていた気がする。絵巻物の中にしかないと思っていた夢物語が幻想のものでしかないと思っていた雅やかな住人たちが次々に目の前に現れて、初めて自分の愚かさに気付いた。だけど、……もう全てが遅すぎる。

 ぼんやりと霞んでいく視界、だけど次の瞬間にはっきりとした声が私を再び現実に引き戻す。

「たとえばこの赤。わたくしが合わせると髪の色と喧嘩をしてしまうけれど、あなたなら大丈夫ね。ほら顔色も明るくなったでしょう、とても初々しく華やいで見えるわ」

 きっぱりと言い切られて、思わず前に向き直っていた。
  本当だ、鏡の向こうから驚いてこちらを見ている私の頬が艶やかに色づいている。優しい花色、肩に掛けられたそれを指先で辿ると、ふわりと蘇ってくる記憶があった。

 ―― ああ、そう。確かにこのお色だわ。初めて若様に誉めていただいたお気に入りの一枚と同じ。かなり値の張った一枚と聞いていたからそのぶん美しく品良く見えるのかなと簡単に考えていたけど、やはりちゃんと理由があったのね。
  若様も一目でそれがお分かりになったからこそ、お言葉を掛けてくださったのだ。あのときの私はそれどころじゃなかったから、有り難いお心遣いにも全く気付くことが出来なかったけれど。きちんと心得のある方とそうじゃない者とでは、目の前に広がる同じ風景も全く別物に見えているに違いない。そう気付くとさらに口惜しい、取りこぼしてきた時間をどうにかして引き戻せないものかと思ってしまう。

 その後。様々なお色を一枚一枚当てていく作業は気が遠くなるほど延々と続くものであったけれど、あまりにいろいろな発見があって疲れを感じる暇もなかった。今まで大好きで良く身につけていたお色が実は全く似合ってなかったり、本当に驚くことばかり。

「好きな色を無理に我慢することはないのよ。差し色に使ったり、お道具に用いたりすればいいの。あまり窮屈になるのも良くないわ」

 実はわたくしもね、と打ち明け話をして下さるその眼差しは、初めてお会いした頃とは比べものにならないほど温かい。八重様は本当に不思議な御方だと思う。ただの下働きに過ぎないと思っている私にここまでいろいろとして下さるなんて。

 その上また、ある時はとても信じられない話を切り出して来たりする。

「あなた、なかなか筋がいいわ。是非わたくしの元にいらっしゃい、じっくり仕込んであげるから。見た目も悪くないし、徹底的に磨き込めばなかなかのところまで行けそうよ? こんな田舎で埋もれたまま終えるのではもったいないわ」

 思いがけない申し出には、しばらく頭の中が真っ白になってしまった。ようやく我に返ったあとに慌てて首を横に振るとその動作があまりに可笑しく見えたのだろう、八重様は声を立ててお笑いになる。

「そんな遠慮することはないわよ、もしも自分で家の方に言い出しにくかったらわたくしが口添えしてあげましょうか。大丈夫、何の後ろ盾もない身の上で御館務めが出来るなんて、そうそうあることじゃないのよ。きっと手放しでお喜びになるわ」

 真っ直ぐにこちらを見つめる瞳。私はにわかにこみあげてくるものを必死で抑え込みながら、もう一度ゆっくり首を横に振った。
  八重様は今までの若様と私のやりとりを全くご存じないのだろう。だからこのような大それたことをただの思いつきのように気軽に仰る。まあ実際、彼女にはひとりふたりの見習いなら自身の判断で雇えるほどの権限があるのだ。きっと方々で目に付いた者にお声を掛けているに違いない。

「まあ嫌だ、何も取って食おうって訳じゃないわ。そんな風に逃げ腰になることないじゃない」

 彼女は首をすくめると、小さく溜息をつく。だが、それ以上話を続けることもないと判断したのだろう、花のように微笑んで次の話題に移られた。

 

◆◆◆


 この夜の全てが凍り付いてしまったかのような静寂に包まれた夜だった。

 どうにか眠りの淵に落ちようと幾度となく試みたが未だ願いは叶えられず、重く沈みゆく身体とは裏腹に冴え渡る心を持て余している。この苦しみを一体なんと表現したらいいのだろう、自分自身の感情すら掴みきれないまま鈍い痛みだけが広がってゆく。

 表向きは師事する御方が代わっただけ。御領主様の御館にあっても新人の侍女たちを監督する立場にあるという八重様は、教えを受ける相手としてはこの上なく素晴らしい方だと思う。仰った言葉の意味が良くくみ取れず困っていると、すぐに言葉を変えて分かりやすく説明をし直してくれる優しさもお持ちだ。ほのかに色味を感じるお声も真っ直ぐな話しぶりも、そのお姿に相応しい。

 だけど、そろそろ限界かなと思い始めていた。

 

「あの、ちょっといいかしら?」

 いつものように奥の間を片付け終わったあと。ひとつひとつ厳しく点検していた八重様がおもむろに口を開いた。

「細かいことかも知れないけれど、おしとねの周りの几帳はもう少し離した方がいいわ。確かにここは狭い部屋、他に荷物もあるしどうしてもせせこましくなってしまうことは仕方ないことよ。でも、どういう理由があるにせよ、主様がお休みになる場所は他のどこにも増してくつろぎやすいしつらえにしなくてはね。それに……」

 八重様はそこで一度言葉を切って、何とも意味ありげな眼差しを向けてくる。

「毎日新しい花に取り替えてくれるのはとても良いことね、それならば花器は枕元ではなくて右手の方に置いてもらえるかしら? わたくし、いつも右側で休むから一晩中良い香りを楽しみたいの」

 何を言われているのか気付くまでに、しばしの時間を要した。身体じゅうの血の気が引いていくのが分かる、目の前にある自分の指もみるみる白くなる。でもそんなこと、目の前の八重様に気付かれる訳にはいかない。必死で唇を噛みしめると、口の奥で生々しい血の香りが広がった。

「はい、以後気をつけます」

 ややあって顔を上げると、すぐそこに華やいだ笑顔があった。見目美しく整っているだけではない、この方は教養にも優れすべてにおいて抜きんでている。だからこそ、……若様のお側に上がることを許されるのだ。そう、このような方だからこそ。

 どうにか自分を納得させようとするのに、こみ上げてくる新たな痛みをやり過ごすことが出来ない。

 兄嫁が不在のままの今、私は全く自由な身の上であった。その気になれば八重様の有り難いお申し出を受けて御領主様の御館に上がることもそう難しくない気がする。本館でも相当の地位にある方の元で修行が出来るのであれば、どんなにか心強いだろう。将来私の努力が実れば、夢見た生活を送ることが送れるかも知れない。あちらに上がれば、大好きな暁高兄上もいらっしゃる。

 ……だけど、とてもそんな気持ちにはなれない。たった一度の失態で、全ては塗り替えられてしまったのだ。

 私は、すでに若様から見捨てられてしまった身の上。あんなに良くしていただいたのに、最後は恩を仇で返すような振る舞いをしてしまった。以前と変わらずに庵を訪れても、再びあの麗しいお姿を拝見することはない。本当にどうしてなのか、いつお邪魔してもお出でにならないのだ。
  これはやはり、見限ったかつての弟子の顔など見たくないという無言の訴えであるのだろうか。あるいは私がそのようなことを気に病むことすら、疎ましく思われているのかも知れない。毎晩庵にお戻りになっているのは分かっている、わざわざ八重様に確認などしなくても普段通りにお部屋を片付ければ昨日整えたときとは確かに違う若様の気配を感じることが出来るのだから。
こんなに近くにいてもお目に掛かることが叶わない。そしてそれが辛くてならない。いくら口汚く罵られようとも、お側に居られればそれで良かった。たとえかりそめの夢だったとしても、私はあのとき本当に幸せだったと思う。ひと目でもお会いしたくて、危険を承知で館を抜け出した。そう若様に、ただ若様にお会いしたくて。

 今、おふたりの大切な蜜月を邪魔しているのは他でもない私自身だ。八重様はご自分で何もかもが出来る御方だ、私の助けなど本当は全く必要ではない。それなのに、私だけが未練がましく若様の後ろ姿に追いすがっている。

 御領主様の御館に上がること、それはつまり二度とお顔を見ることも叶わない若様の気配を始終感じて過ごす苦しみの日々が始まることとなる。そんな状況に私は果たして耐えられるのだろうか。ううん、きっと無理。ましてや近い将来に若様が正式に奥方様を迎えて仲睦まじく過ごされるのを見せつけられるなんて、絶対に嫌。
  八重様は師匠としてはこの上なく素晴らしい御方だ、お言葉通りに仕込んでもらえるならどんなに光栄だろう。だけど、もうそんな風に自分を高めていく必要なんてないんだ。だって、私は誰からも愛される侍女になりたかった訳じゃない。そりゃ最初は、稽古を始めた頃はそれが目標だったかも知れないけど、途中からそんなこと忘れていた。

 ―― ただ、若様に誉めていただきたくて。それだけのために、必死に努力した。少しでも上達すれば、若様が喜んでくださるから。それだけを、頼みに。

 あんな風に怯えるんじゃなかった。若様としても、ただのお戯れであったのだから。あのときの私に今少しの判断力があれば、道を見誤らずに済んだ。今更後悔しても始まらないけど、それに―― どちらにせよ結果は同じだったのだし。
  一瞬だけだったとしても心に芽生えた信じられない欲は、私の残りの人生に付きまとい苦しませ続けるだろう。それならば、少しでも離れた場所にいた方がいい。気配を感じるほど近くにいたら、きっと息も出来ないほど辛くなる。

 だからむしろ、振り解かれたことを幸せに思わなくてはならないのだ。

 それなのに、思い出してしまう。こんな風に独り寝の寂しい夜には。逞しい胸にしっかりと抱き寄せられた泡沫の夢、若様の男らしい薫りと甘く私を呼ぶ声と。別世界に引き込まれそうになる心、叶うはずのない願いを祈った自分。静かに心に降り積もっていった切なさの正体が初めて明らかになった。私は、あの瞬間決して許されぬ恋をしていたのだと思う。

 ―― 今一度、そのお姿を拝見したい。でもそれは決して許されぬこと。

 ぎりぎりの場所で私はかろうじて留まっていた。もう一歩踏み出せば、そのまま谷底に落ちてしまう。このまま二度と若様にお目にかかれないままならば、どこに流れ着いても同じ。いっそのこと、兄嫁の進めるまま縁談の話に乗ってしまう方が気が楽かも知れない。少なくとも家の者は皆喜んでくれる、それならばそれでいいじゃないか。
  八重様とご一緒すれば若様のことを嫌でも思い出してしまう。それが辛すぎて、耐えられない。会うことも叶わないまま、幻影ばかりを見続けているなんて。

 

 兄嫁はどうして未だお戻りにならないのだろう。

 連絡もないまま、二晩三晩と過ごされてはこちらとしても不安になってくる。それに父上や長兄も出掛けたままだ。一体皆、どこで何をしているのだろうか。今、家業が関わっているという新事業のことを私は何ひとつ聞かされていなかった。と言うより、今までは全く関わるつもりもなかったのだから教えてもらえなかったのは仕方ない。

  最初に若様からこのたびの内密調査の話を聞いたときにも正直者の父や兄にそのような度胸があるとはとても思えなかったが、その一方で確信できる何も持ち合わせていない自分がふがいなくて仕方なかった。女子の身として、家業に対しあまり出しゃばった真似をするのは好ましくない。だからといって、何も知らないままでいいという訳ではないのだ。

 一体この先、この家はどうなってしまうのだろうか。何かひとつでも私に出来ることがあれば、喜んで引き受けるのに。

 

◆◆◆


「お嬢様、お嬢様……! 大変です、起きて下さい!」

 明け方、ようやく浅い眠りが訪れたかと思ったときだった。いつかの夕べと同じ慌てた小絹の声が渡りを進んでくる。いや「同じ」とは言えない、この度はもっと鬼気迫った響きがあった。

「……どうしたの?」

 けだるさを額の辺りに感じながら、ゆるゆると上体を起こす。冷え切った気が、重く辺りに立ちこめている。外はまだ暗い、それなのに部屋の飛び込んで来た娘は燭台すら手にしていないのだ。

「そっ、その。先ほど奥方様がお戻りに。あまりに静かにお入りになったので、皆気付くのが遅れてしまいました。そっ、それで……」

 よほど急いでいたのだろう、息が上がって話が途切れる。小さな手で胸を押さえ苦しそうにしている姿が可哀想で、こちらが先手を取って言葉を繋いだ。

「私をお呼びなのね、分かったわ。義姉上のご帰館ならば、刻限に関わらずただちにご挨拶を申し上げるのが当然よ」

 しかし、小絹は私の言葉に大きく頭を振った。もしも私が前に進もうと言うならば、どうしても阻止するという勢いである。

「だ、駄目です! あちらに渡られてはいけません、大変なことになります……!」

 この娘にしても、ぐっすり寝入っているところを突然起こされたのだろう。そして何か、聞いてはならない信じられないことを耳にしてしまったに違いない。あまりにも混乱していて、これ以上刺激すると泣き出してしまいそうだ。

「……ね、落ち着いて。どうしたの、私に分かるように―― 」

 ゆっくりと話してちょうだい、と後に続けるつもりだった。闇に慣れ始めた視界が、青ざめた輪郭を捉える。なだめるためにと伸ばした手が次の瞬間に、千切れてしまうほどの強さで握りしめられていた。

「駄目です、あちらに行っては駄目! どうか逃げて下さい、お願いします……!」

 小絹の爪が私の手の甲にいくつも痕を付けた。鋭い痛みはそのまま彼女の強い想いを教えてくれる。

「まだ夜明け前です、しばらくは時間稼ぎも出来ます。だから、そのうちに。だって、……だってあちらに行かれたら、お嬢様は……!」

 騒々しく渡りを進んでくるいくつもの足音に、娘はハッと後ろを振り向いた。しかしすぐに向き直り、もう一度強い眼差しで私を見つめる。

「お願いします、どうか……どうか、これからお伝えすることをよく聞いて下さい。私に出来ることはもうそれだけです―― 」

 

◆◆◆


 裏の障子戸の向こうには、すでに小絹の兄が控えていた。今のやりとりも全て聞いていたのだろう、それなのに顔色も変えずに私を秘密の抜け道に導いてくれる。

「昼過ぎには先方が到着されるとのことです。同じ頃、御館様や若旦那様もお戻りになるでしょう」

 見慣れた細道にひとり残された頃には、東の空が白々と明け始めていた。身支度もそこそこに飛び出してきたために、薄衣のあわせから冷気が忍び込んでくる。しかし、身を切るほどの痛さを感じてもなお、信じることが出来ない。まさか、まさかこんなことが本当にあるなんて。
  兄嫁が里から連れてきたという小絹たち兄妹は、以前からその家の黒い噂を聞いていた。だからこそ、この度の急な話にも真実を見ることが出来たのだろう。彼らはただ、私を救おうとしただけ。付き合いの浅い主にどうしてここまで良くしてくれるのかは分からないが、その想いはとても有り難い。だが、私が守りたいのは自分自身ではなかった。

 文をしたためる余裕すらない、無事にお手元に届く保証もない。それに、やはり直接お伝えした方が早いし確実である。今更このようなことをお願いするなんて間違っていると思う。でも、……もう他に誰も思いつかない。とにかく時間がないのだ。

 草履が脱げて、いつの間にか裸足になっていた。ぬかるんだ道に足を取られながら、必死で前に進む。ようやく白い霧の向こうにちらちらと庵が見え始めてきた頃には、昨夕見たばかりの風景があまりに懐かしくて思わず涙ぐんでしまったほどだ。

 ―― 大丈夫、これでどうにかなる。少なくとも、父や長兄までが悪事に手を染めることは阻止できるはず。

 しかし。私の儚い希望は、やはり砂上の城でしかなかったのか。ぴっちりと閉じられた木戸に願いを込めて手を掛けたとき、最後の望みが脆くも崩れ去った。

 

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