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…16…

「玻璃の花籠・新章〜鴻羽」

 

 ―― 今までの全てが夢であった気がする。

 本当にその通りならどんなにいいか。だけど何もかもが真実であったからこそ、私は今ここにいる。重すぎる額に手を添えれば、結い上げられた髪に挿したかんざしが耳障りな音を立てた。

「先ほどより、また外の荒れがひどくなってきた様子です」

 渡りから戻ってきた小絹が、何かを含んだ口調で報告する。今宵は彼女もいつになく晴れやかな衣に着替えていた。何も本人がそれをまといたかった訳ではないのだろう、誰かに強引に着付けられた姿が痛々しい。女の童なのだから、本来ならばもっと省略した装いで構わないのだ。突然このように着慣れないものに包まれては、思うように身動きも取れないではないか。

「そう、やはり早めに戸を立てておいて良かったわね」

 さり気なく応じたつもりではあるが、上手に微笑みが作れたかどうかは分からない。もう半刻以上、この場に待機させられている。胸が苦しいのはきつく締め過ぎた帯のせいばかりではないと思う。

「お嬢様……」

 小絹は何かを言い掛けて、また口をつぐんだ。普段からどこか寂しげに見える眼差しが、さらに潤んで見える。何か明るい話題でも出して場を和ませたいところではあるが、今はとてもそんな心境にはなれなかった。まるで処刑場に向かう囚人のような心地。この先、私が向かう場所には希望の欠片もないのだ。

 絶望の夜明け。どうやってこの対まで帰り着いたのか、自分でも全く分からなかった。慌てて迎え入れてくれた小絹もひどく落胆した様子。最後の頼みの綱が絶たれてしまったことはもう明らかだった。それでもまだわずかばかりの希望を捨てることが出来なかったのだろう。娘は人目を盗んで、昼前に再度あの庵を訪れてみたのだと言う。

「昨夕遅く、とても急なご出立だったとのことです。約束よりも多めの銭を払ってくれたので、庵の所有者から鍵を預かっている近所の者も詳細は訊ねなかったとか。荷物もそれほどなかったご様子で、手押し車がどちらかへ運んでいったそうです」

 何も彼女に落ち度がある訳ではないのに、申し訳なさそうにしている姿が可哀想だ。そう、小絹は何も悪くない。責任など感じる必要はないのだ。自分の思いつく最大の方法で私を守ろうとしてくれた、もうそれだけで十分すぎるくらいだと思う。

「いいのよ、全てはもう終わってしまったのだから」

 小絹を慰めるというよりは自分を納得させるための言葉が、口から力なくこぼれ落ちた。

 

◆◆◆


「長いこと留守にして、本当に申し訳なく思っているわ。貴子様にとって大切なときにおひとりにしてごめんなさいね、でもお詫びは十分にさせていただくつもりよ」

 夜明けの頃。支度を終えて部屋に出向くと、すぐさま兄嫁の熱烈な歓迎を受けた。とりあえずご挨拶だけでといとまを申し上げるにもお許し下さらず、強引に席を整えられてしまう。
  数日ぶりに見上げるその面差しは少しばかり疲れがあるようにも思われたが、それは夜中の野歩きのためであるのかも知れない。少なくともお口元に浮かぶ笑みは、記憶の中にあるどれよりも誇らしげだった。

「今宵、貴子様のために宴を開くことに決めましたの。そのために方々からお客様もお招きしましたから、この度は特に念入りにお支度くださいませ」

 改めて詳細を訊ねるまでもなかった。その時点で、私の敗北は決定的になったのである。

 

 河を使った商いは、端から見ているほど楽な仕事ではない。自然の資源を利用しての商売だからそう考えられがちであるが、実際にやってみると船を仕立てることから人手を集めることまで何もかもが大がかりで途方もない。いい加減な気持ちで始めては上手くいくはずもないのだ。
  家業のことなど気にも止めていなかった私であっても、仕事に明け暮れる家族たちの姿を見ていれば並大抵のことでないことは分かっていた。そしてその人知れぬ苦労が、周囲からはあまり省みられていないことも。我が家のすぐ側を流れる河は、北から南まであまたの集落の間を流れている。商いの可能性は無限にあると信じた新規参入者が近頃目立って増えていた。
  そうは言っても、実績と信頼がものを言う市場では古参が優位にあるのは仕方ないことである。我が家の家業が今までもちこたえて来ることが出来たのは、代々真面目で間違いのない仕事を続けてきたことが評価されているから。館ではのんびり屋の父や長兄も船に乗り込んだ途端に人が変わる。「馬鹿」が付くほどの生真面目さがあったからこそ、幾たびもの危機を乗り越えることが出来たのだ。
  でも商いというものは難しく、ただ真面目であれば成功するとは限らない。その道に長け、先を見越す確かな目を持った者が上手に舵取りをしなくては、ある日突然思わぬところから水漏れを起こすことも考えられる。幸い我が家では代々商才のある使用人がしっかりとそろばんを握っており、父から子へその手腕が引き継がれていくことで要は守られていた。

 兄嫁が世話してくれた私の嫁ぎ先の家は、最近急成長した同業者のひとつだと聞いている。元は別の事業を手掛けていてそれが大当たりし一財産になったため、さらに飛躍が見込める河行商へと参入してきたらしい。駆け出しではあるが一応の評価がなされていることは、先日の兄夫婦の会話でも承知している。
  信頼と実績では同業者の中でも群を抜いている老舗の我が家と、飛ぶ鳥を落とす勢いであるその家との結びつきは表向きにはこの上なく素晴らしい将来性のあるものに間違いない。

 だが、しかしである。

 この頃では何かとお上の監視がうるさくなっていた。法の改正なども頻繁で、古くからのやり方を改めて誰の目から見ても分かりやすい世の中にしていこうという考え方なのだろう。以前はその土地土地で独自に決められていた様々な使用料や通行料なども、不公平がないように一定の基準が設けられるようになっていた。
  そうなるといろいろやりにくくなることも多いらしい。今までは法をくぐり抜けるやり方がいくつもあったのに、次々に道をふさがれてしまう。我が家のように生真面目だけで商いをしてきた者には全く関係のない話ではあるが、考えてみれば若様のこの度の内密調査もその辺りを探るためだったのだと思う。決まり事を設ける者とその抜け道を探す者。終わりのない、いたちごっこという訳だ。

 どういう理由なのかは分からない。だが、この度の縁談が成立することで相手方に有利に働く何かがあることは間違いない。そうじゃなかったら、こんなに急がされる訳はないもの。

 

「使用人の間では、あの家のことであまり良い噂は聞きません。御館様に意見した者が、その場で刃を向けられたという話もあります。ですから……その、初めにお話をうかがったときにはとても驚いたのですが」

 それでも小絹は湧き上がってくる不安を抑え込むしかなかった。もしも自分が秘密を漏らせば、母親への薬の援助が絶たれてしまう。それに結局のところ、噂は噂でしかないのだ。面白可笑しく誇張して広がっているだけで、実際のところは大したことがないのかも知れない。いい加減な情報を流して縁談を台無しにしては、あとでどんなお咎めを受けるか分からないのだ。

「わたしには難しいことはよく分かりません。でも、……きっとお金だと思います。奥方様はもっともっと銭が欲しいんです。いつも仰っていますから、ご自分には自由になるお金があまりなくて腹立たしいと。贅沢が出来るからと言われて嫁いできたのに、と」

 そのためには法に触れるようなことも厭わないというのだろうか、何だか考え方が浅ましすぎて悲しくなってくる。こんな風に自分のことしか考えていないような人たちのために、若様は狭く自由のきかない庵に引きこもって不正を暴こうと必死になっていらっしゃったのだ。何とも嘆かわしい限りである。
  最初から、何かの情報は掴んでいたのだろう。だからこそ揺るぎない証拠を手に入れようとなさっていた。そしてこの度、いよいよ何かを見つけられて次の手段に移るためにいったん御領主様の元に戻られたに違いない。せめてもう一晩この地に留まって下されば、必要な情報をお知らせすることが出来たのに。この度のいくつかの掛け違いの結果、全てが手遅れになってしまうかも知れない。

 

 渡りの向こうがにわかに騒がしくなる。振り向いて表をうかがった小絹が、辛そうな顔で振り向いた。

「お嬢様、そろそろお時間です」

 その言葉を受けて、私はゆっくりと立ち上がる。今宵は先方との顔合わせだけだと聞いていた。正式なお披露目はあちらに移ってからになる。でも、それだけで済まされるはずはない。広間から目と鼻の先にある対には、すでに今宵のための部屋が設えられているらしい。

 ―― 味方に引き入れてしまえばこっちのもの。お上とて、手も足も出まい。

 兄嫁の高笑いがどこからか聞こえてくるようだ。私という人質をあちらに引き渡してしまえば、父も長兄もその後は婚家の言いなりに動くしかなくなる。そしてもしも罪を問われたときには、自らが裁きにあうことになるのだ。そんなことって、許せない。許せないとは思うけど、今の時点で私が何を話しても誰も信じてはくれないだろう。
  せめて、若様には。若様だけには私の本当を知って欲しかった。だけど、もう無理。縁談のことを隠していたことで、私は若様を裏切ることになってしまった。きっと二度とお許しにはならないだろう。もしかしたら、故意に隠していたと思われてしまうのかな。そんなのって、……辛すぎる。

 同じことなら、何も知らないままだったら良かった。皆の勧める縁談に従って、祝福を受けて送り出される。そんな幸せな花嫁になりたかった。だけど、もう全部知ってしまったから。これから起こる全ても、自分の罪として嘆くしかないのだ。

 私にはもう、何もない。

 

◆◆◆


 迎えに来た多くの侍女を従えて、長い渡りを進んでいく。先導は燭台で辺りを照らし出し、脇も古なじみの者たちが固めている。ちらと目をやれば、吹き荒れる気に枝が揺れる庭にもいくつもの人影が潜んでいた。

「―― 貴子様、お着きになりました」

 やがて、広間へと続く扉の前まで辿り着く。私が板間に腰を下ろすのを待ってから、先導の侍女が声高らかにそう宣言した。一呼吸を置いてから、ゆっくりと木製の戸が開かれていく。蝶番の微かにきしむ音を遠くに聞きながら、私は長いこと頭を垂れたままでいた。

「貴子にございます」

 ややあって、ようやくそう告げた。それまでさざめいていた宴席が急に静まりかえる。心の臓が喉から飛び出してしまうほど高鳴っていたけれど、ここでひるんでいては駄目。静かにおもてを上げて、上座に視線を移す。影のないぼんやりとした男がこちらを見ていた。

 ―― あの方が、私の夫君?

 感情を見せないままの瞳で、私はさらにその者を見据えた。想像していたよりも、ずっとひ弱そう。もっと鬼のような豪傑な大男を想像していた。すでにいくらかの酒を楽しんでいるご様子だけど、お手元は大丈夫かしら。

  ふとそんな風に考えて、すぐに「違うな」と思い直した。駄目だわ、一体誰と比べているというの。私の知っている一番素敵な方の面影と並べたら、どんな方でも見劣りしてしまって当然よ。そうなるのが怖くて、私は全てを捨てる決心をしたんじゃない。
  もしも念願叶って御領主様の御館に侍女としてお仕えすることが出来たとしても、あの方以上の人に巡り会える訳はないから。だったらもう誰でも同じって、そう思ったんじゃないの。

「お、おお。貴子、ようやく参ったか」

 長い沈黙を破ったのは、隣の妻に促された長兄だった。ああ、あの衣。いつぞや方違えの若様をお迎えしたときと同じ一張羅ね。あまりにもお色が鮮やかすぎて、お顔が霞んでしまうの。せっかく色目の合わせ方も教わったのだから、似合うお色を選んで差し上げたかったな。もうそんな暇もないだろうけど。

「ささ、早くこちらへ。お客様の近くまで来て、改めてご挨拶をしなさい。今日はお前のために、悪天候の中を遠方よりわざわざお出で下さったのだよ。本当に有り難いことではないか」

 人の良さそうな笑顔は普段通り。ああ、そうかまだ何もご存じないのだなと切なくなる。きっと心から今日のことを喜んでいらっしゃるのね。

「そうだそうだ。そんなところにかしこまってないで、早くしなさい。おお、晴れ着が良く似合っておるな。この日のためにわざわざ用意しただけのことはある」

 お客人の隣に座った父上も嬉しそうに手招きをする。長兄の傍らで兄嫁もにこやかに微笑んでいた。こんな風に皆に祝福されて、私は何て幸せな娘だろう。……そう。今だけは、そんな風に信じていたいな。絶望に向かうしかない旅だとしても、ひとつの救いもないのはあんまりだわ。

「はい、承知いたしました」

 音もなく立ち上がるその姿に、我ながら惚れ惚れとしてしまう。最初のうちは何度も何度も注意されて、膝ががくがくしてしまうほどやり直しをしたっけ。いつの間に、こんなに造作なく出来るようになったのかな。やっぱり何事も訓練なのね。
  それに髪も指先も全て行き届いて手入れを続けたから、比べものにならないほど素敵になったわ。この前、この広間を訪れたのは若様と初めてお目に掛かった夜。あのとき、慌てふためくばかりで何も出来なかったのが嘘のよう。本当に私は変わった。自分でもそれが今、はっきりと分かる。

 列席している親類の者や下座に控えた侍女たちからも、深い溜息が漏れる。とても誇らしくて、……そして悲しかった。私、もっと早くから努力するべきだったわ。そうしたら「変わり者の末姫」なんて陰口を叩かれなくても済んだのに。

「お初にお目に掛かります、末娘の貴子にございます」

 向かい合う男は盃を手にしたままで身の置き場もないほど呆然としている。ひどく驚いたのだろうか、それともこの先のことを考えてあまりの重責に緊張しきっているのだろうか。どちらにせよ、情けないこと。上座を与えられる招きなのだから、もっと堂々としてなくちゃ。
  先ほど支度を手伝ってくれた侍女たちが言っていた「実は船酔いをしてしまうから、行商の仕事が好きではない」って話は本当かな。だったらこの人、自分の意に全然そぐわないところで生きているのかも知れないわ。今の私と同様にね。

「ほらほら、貴子。お客様の盃が空になったままではないか」

 だんまりのままのお客に変わって、長兄がやたらと世話を焼いてくれる。もちろん、脇で兄嫁があれこれと指図しているのは当然だけどね。

「この酒は、暁高が正月に届けてくれたものでね。祝いの席にぴったりの品だと聞いて、開けることにしたんだ。―― そう、暁高と言えば今日は残念だったな。急なことで無理とは思ったのだが、朝に急ぎ文を送ってみたんだ。これからはあまり顔も合わせられなくなるだろうからな、お前たちはとても仲の良い兄妹だっただけに残念だ」

 陽気な口調で話し続ける長兄の向こうで、兄嫁の顔色がさっと変わる。そのようなことは聞いていないと言いたげな眼差しを、兄が知ることがなかったのは幸いだったのだろう。

「まあ、この酒が本人に代わって祝ってくれるだろう。さあ、貴子―― 」

 

 そのとき。

 ひときわ強い荒れが、館を大きく左右に揺らした。と、思った次の瞬間。いくつかの燭台が倒れ、悲鳴を上げた侍女たちがその片付けに追われている。突然の騒ぎに皆が右往左往する中で、今度は表の扉が割れんばかりの勢いで開け放たれた。

「……!?」

 宴席にいた誰もが、音の方向を確かめ我が目を疑った。

 最初は黒い獣の影かと思ったが、それは違う。たっぷりと水を含んでしまったために色を変えていたそれは、元は美しい織りの重ねであるのだろう。重みに耐えかねてずるりと床に落ちかけたが途中で留まり、その上にも新たなしずくが絶え間なくこぼれ落ちている。頭皮を覆う赤髪、荒い呼吸を整えているのか俯いて顔が確認できない。

「なっ、何者……っ!?」

 父上と長兄がほぼ同時に叫んで立ち上がる。しかし、その声には言葉ほどの威力もなく、荒々しい侵入者にひどく怯えていることは間違いない。それは何も声を上げたおふたりのみに限ったことではなく、その場にいた全員の心境も全く同じであった。

「……」

 張り詰めた空間の中、ようやく影が動く。長い指先が濡れた髪をかき上げ、続いて鋭い面差しがその下から現れた。

「外の荒れに足止めをくらってしまった。突然のことですまないが、一晩休ませてもらいたいと思う。もちろん特別なもてなしなどは必要ない、衣を乾かし横になる場所があれば十分だ」

 物の怪のような恐ろしいお姿に似合わぬ落ち着いた口調でそう仰ったあと、彼はいつかご自分が座していた奥の席へと眼差しを向ける。

「このような場所でくつろいでいる暇はないと思うよ? 今頃、君の家には我が父の使者たちが到着しているはずだ。急ぎ、戻った方が身のためだと親切にも忠告してあげようか」

 

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