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…17…

「玻璃の花籠・新章〜鴻羽」

 

 刹那。首を絞められ事切れる直前の鶏のようないななきが、私のすぐ側で上がった。

 魂をも射貫かれたかのように見える男が、ふらふらと立ち上がり一目散に外へ飛び出していく。付き従ってきたらしい幾人かの供が慌ててその後を追おうとするが、彼らとて驚きのあまり足下もおぼつかない様子だ。

 そしてまた、静寂は戻る。外の荒れ放題な天候とは裏腹に、広間の中の者たち誰もが信じられない成り行きにただただ呆然としていた。それはもちろん、私も含めて。

「そっ、そそそ……そのっ……」

 舌をもつれさせながら、それでもかろうじて場を取り繕うとする長兄。先ほどまでの陽気さはどこへやら、どうにもならないほどのうろたえぶりだ。だが、こんな場面で口を開こうという勇気があるだけ、他の大勢よりはマシである。父上に至っては再びへなへなとその場に座り込んでしまったし、警護の侍従たちも右に倣えなのであるから。
  つい先だってお迎えしたばかりのお顔を忘れた者はいない様子だ。だが、このように前触れもなく飛び込まれては皆が慌てるのも無理はない。我が館になどお出でになってはならぬ御方、あの一夜の話は家人も使用人もその全てが固く口止めをされていた。

「だっ、誰か急ぎお召し物を! なっ、何をしておる……っ、急げっ、急げ!」

 急に矛先を向けられて、控えていた侍女たちが我先にと部屋を飛び出していく。そうしている間にも、今宵のために念入りに磨き上げられた板間には、次々と新しいしずくがこぼれ落ちていた。髪先から顎先から、絶え間なく。

 ―― なんて、お美しいのだろう。

 しかし、その瞬間。私は場違いにもひとりそんなことを考えていた。確かに、凝視するのが憚られるほど恐ろしいお姿ではある。気の荒れの中をくぐり抜け変わり果てているなりは、なんとも表現のしようがない。いつもの雅やかなご様子とは似ても似つかない有様だ。それでもなお、内側に宿る高貴なお心がたとえようのないものを伝えてくる。
  私は、何という御方の側にいたのだろう。ほんの短い間であったにせよ、このように他の誰とも比べようのない素晴らしい存在に従っていたなんて。それはあまりにも畏れ多いことだ。

「さ、……さあ、こちらへ。このままではいけません、お着替えいただいてそちらのお召し物の手入れを致しましょう。その間にお席を整えますので―― 」

 一体何が起こっているのかすら、まだはっきりとは把握出来ていないに違いない。それでも長兄はこの招かれざる客をどうにかもてなそうと必死に声を掛けている。
  その様子を耳で遠くうかがいながら、私はとてもそちらに顔を向けることは出来なかった。どうにかしてこの場から逃げ出す方法はないだろうか。これ以上、あの御方と同じ場所にいる訳にはいかない。このように再びお目に掛かることがあるとは思わなかった。そして恐ろしい、恐ろしすぎる。次に怒りの刃が向けられるのは私に違いない。いいえ、そうでなかったとしても……。

「貴子」

 しかし、彼には私の心の声が少しも届いていなかった。どうにかしてこのまま見過ごして欲しいと願ったのに、それも許していただけないのだろうか。確かに私は取り返しの付かないことをしてしまった、でも今はそれをとても後悔している。だから、このまま捨て置いて欲しいというのは、虫の良い考え方だと仰るのか。

「……」

 長い時間が掛かって、やっとおもてを上げる。そのときにはすでに、貴人は濡れた衣をまとったまま立ち上がっていた。緩く空いた戸口から荒れ狂った気の断片が密かに流れ込み、乾きかけたその髪をばらばらと揺らしていく。もつれても乱れてもなお、その輝きは隠しようがない。何も手を加えずとも、そのままの姿でお美しい方なのだ。

「もう疲れた、早く休みたい。お前が部屋まで案内しろ」

 部屋中の視線が私に貼り付く。恐怖のあまり乾ききっていた心が、さらに激痛を伴って歪んだ。

 

◆◆◆


 突然案内など頼まれても、どうしたらいいのか分からない。

 だいたい、若様のためのお部屋などこのような短時間で準備が出来るはずがないじゃないか。ただ寝床を準備するのとは訳が違うのだ、やんごとなきご身分の方をお迎えするにはそれなりに体裁を整えなくてはならない。この前のときだって、急に決まったことで道具が調わず本当に大変であったと聞いている。それでもどうにか半日の時間はあったのだから。
  そう訴えたくて長兄へと視線を向けてみたが、彼はただ顎で促すだけ。あとは私の采配に任せると言うことなのだろうか。そんなの、困ってしまう。何か行き届かないことがあれば、ただでは済まされないではないか。ここ一番の仕切り屋であるはずの兄嫁も今は役に立たない。先ほど、ご自分の招き入れたお客が哀れなお姿で引き上げてしまってからというもの、魂を抜かれた人形のような有様なのだから。
  もうこうなったら、行き先はひとつだ。今どうにかお休みできるまでに支度されている場所と言えば、先ほど飛び出していった男のために用意した一室だけ。結果どう思われようと、覚悟を決める他はない。

「……こちらへ」

幾重にも重ねられた衣が動きづらくてならない。実用性の欠片もなく、ただ見てくれが良いだけの装い。そのことが自分をさらに安っぽく見せている気がして悲しかった。
  燭台を手に短い渡りを進む。髪は全体の三分の一ほどの量を上に結い上げ、残りは長くたらしていた。床を引きずる晴れ着に掛かるそれを後ろから見て、一体何をお考えなのだろう。この姿を見れば今宵の宴が何のためのものであったかも分かりそうなものなのに、どうして何も仰らないのか。

 本館の大広間から程ない場所に設えられたその場所にたどり着くまで、そう長くは掛からなかった。と言うより、果たして道案内が必要であったかどうかも怪しい。障子戸を開けて中の支度がすっかり整っていることを確認してから、私はゆっくりと振り向いた。

「暁高の話は誠であったのだな、打ち明けられたときはまさかと思ったのだが」

 それはふたりきりになってから初めて耳にするお声であった。恐ろしくてとてもおもてを上げることが出来ず、私の視線は衣の胸元を辿るばかり。そうしている間もかろうじて屋根に守られただけの渡りには後から後から強い気が流れ込んでくる。
  細かい泡が目の前を通り過ぎると、乾きかけた藍の衣が揺れた。驚くことにお召し物はもうほとんど乾き、見苦しくないほどになっている。外歩き用に特別に仕立てられた扱いやすい品物なのだろう。

「この家には馬鹿しかいないのか。あの様子じゃ、本当に何も分かっていないのだな。全くおめでたいにも程がある、呆れてものも言えないな」

 応える言葉など何も思いつかなかった。全ては仰る通り、申し開きのしようもない。暁高兄上のために一肌脱ごうというご提案を無視して縁談の話を受けてしまったどころか、もう少しのところで若様が内密に進めていた計画の全てを台無しにしてしまうところだった。それによって被る損害は計り知れないものがあったであろう。

「も、……申し訳ございません」

 全てを承知していながら、ただ手をこまねいているばかりだった私。もっとひとつひとつの物事を深く考えていたら、こんなことにはならなかったのに。結果は最初から決まっている訳ではない、たゆまない努力があれば不可能も可能に出来たのだ。私の場合は、それに気付くのが遅すぎたのだけど。

「まあ良い、もう済んだことだ」

 ゆっくりと衣擦れの音が部屋奥へと遠ざかる。その静かな足音までが今は懐かしくて、愚かなこととは知りながらまた胸が疼いた。ああ若様だ、若様がここにいらっしゃる。ほんの少し前までは絶望の中にいた私を再び救い出して下さった。それがご本人にとっては大業をなし得る際のほんの「おまけ」のようなものだったとしても。

 また、うなりを上げて空が啼く。吹き込んでくるひどい荒れに部屋の中の燭台の炎たちが大きくたなびいた。それを見て私は外側から開け放たれていた障子戸を閉めていく。そう、こういうときも慌てず物音を立てない様に注意しなくてはならない。

「どうした? ……中に入らないのか」

 もう少しでふたりの間が閉ざされる、というとき。それまで冷たく突き刺さるばかりであったお声が、少しだけ穏やかになってお訊ねになった。ハッとして、手が止まってしまう。しかし再びその場所を大きく開く気にはとてもなれなかった。

 しばらく押し黙ったままでいると、次の言葉が聞こえてくる。

「気のきいたことに酒の準備なども整えてある。大切な客に手酌をさせるほど礼儀知らずの田舎者だと後の世まで家人が笑われても良いのか? これだけの荒れの中を休みなく馬で駆ってきたのだ、少しは労って欲しいものだね」

 一体、私にどうしろと仰るのだろう。二度と目の前に現れるなと言われて、本当に再びお目に掛かることも許されなくて。お会いしたい気持ちとそれを抑える気持ちとで、今にも気が狂いそうだった。それなのに、何事もなかったかの様に振る舞うのはどうして? 結局のところ、若様にとって私の存在などその程度のものだったのかしら。
  ひとりで舞い上がったり絶望したり、私って馬鹿みたい。そりゃ、馬鹿だからこんな風に何度も失敗したり考えに考えても上手くいかなかったりするんだろうけど。だけど、これ以上はもう駄目。再び同じ目に遭ったら、今度こそ立ち直れなくなる。

「……」

 座したまま控えていた場所から、ゆっくりと立ち上がる。そして出来るだけ物音を立てない様に、騒ぎの続いている広間の方へと歩き始めた。

 

「おい、どこへ行く」

 少しの間をおいて、背後から呼び止められる。一度足を止めて、私は大きく深呼吸した。

「―― 誰か、お相手の出来る者を呼んで参ります。しばしお待ち下さいませ」

 本当は私になんて会いたくもなかったんでしょう? だけどこの縁談がまとまってしまったらご自分の進めていた計画が滅茶苦茶になるから、それだから仕方なくいらしただけのことなのよ。自分がどれほどの人間かは、きちんとわきまえているつもり。二度と大それた夢など抱くこともないから安心して。

 もう、……これ以上私の心をかき乱さないで。

「おい」

 再び進み始めた足下がぴたりと止まる。それ以上前に行くことは出来なかった。髪が、衣が、後ろからしっかりと捕らえられている。いつの間に渡りまでお出になったのだろう、足音など少しも聞こえなかったのに。

「他の者を呼びに行けとは言っていない、お前が相手をすればそれでいい。人の話もろくに聞けなくて、どうする。それ以上逃げるつもりなら、無理にでも運び込むぞ」 

 その言葉はすぐさま実行に移された。

 足下がふわっと宙に浮いたかと思った次の瞬間には、身体ごと明るい部屋に押し込まれる。何事が起こったのかもよく分かっていない私を残して、彼はさっさと自分のために用意された席に着いた。長い指が盃を取り、ゆっくりとその感触を楽しんでいる。私はただただ途方に暮れて、その様子を見守った。

「……どうして」

 ややあって、ようやくそれだけを口にする。次の言葉を繋ぎたくても、あまりの状況に何も浮かんでこないのだ。そんな私を一体どうお思いなのか、若様の表情は未だ氷の様に冷たい。感情というものをどこかに置き忘れてしまった如く。

「生憎だな、僕は始めたことを途中で投げ出すのが好きじゃないんだ。だからここまで来た、それだけだ」

 何か文句でもあるのか、と言わんばかりの眼差しで睨み付けてくる。やはりお怒りなのか、それなのに……どういうこと? 若様の中では、まだあのときの約束が守られていたと言うの?

「でも……」

 これ以上教えることは何もないって言ったじゃない、それなのに今更どうして戻ってくるの。そんな風に気まぐれにころころ意見を変えて、それで周りの者は皆自分に従って当然とか思ってる? ずるい、それがお上のやり方なの? だってだって、私……本当にもう駄目だって思ったから全てを諦めたのに。こんなのってないわ、ひどすぎる。
  実際のところ、気乗りもしないんでしょ? だったら、いいじゃない。もう辞めようよ。私が暁高兄上の妹だからって、少しは気を遣ってくれてるのかも知れないけど……それってかえって迷惑だわ。

「え、縁談を壊して下さったことには感謝いたします。でも、もうこれ以上はお許し下さいませ。私、もう戻らなくては。皆が心配します……!」

 振り回さないで、期待させないで。そちらにはそんなおつもりはないのかも知れないけど、私は馬鹿だからすぐに夢を見てしまうの。見た目はお美しくてもとんでもない腹黒だって分かっているのに、それでも見惚れてしまう。優しいお言葉を掛けられたら、もうそれだけで舞い上がってしまうのよ。
  だから、そろそろ諦めさせて。お前なんてお呼びじゃないって、突き放して。そうじゃないと、今度こそ立ち直れなくなっちゃう。あんな風に絶望して道を誤るのは一度で十分よ。

「何を訳の分からぬことを言っている。しばらくサボったくらいで酌の仕方も忘れたのか、おい?」

 若様が心底馬鹿にしたみたいな目でこちらを見る。だから、私も思い切り睨み返していた。色んなことぐるぐる考えて頭がごちゃごちゃになったら、逆にすっきりして全てがどうでもいい様な気がしてくるから不思議。
  いいじゃない、もうやめようよ。私にとってあなたはどこまでも遠い人、こんなことしたって何も始まらないって。そう思ってぐっと唇を噛みしめたら、若様の方が急にふっと顔を緩ませるの。

「―― この前は、少し言い過ぎた」

 突然そんな風に仰るから、私の方まで緊張の糸が切れてしまった。多分、見た目もちょっとへたっと来てしまったと思う。嫌だなあ、もう。どうなってるのよ。
  こちらがどうにかして気を取り直そうと何度も瞬きをして体勢を整えていると、若様は誰かに無理矢理言わされているかの様に唇を尖らせて嫌々話し続ける。

「朝になったら謝ろうかと思っていたんだよ、だがあいつが来たからそうも行かなくなって。お陰で仕事ははかどったがツメが甘くてこの始末。もういいだろう、そんなところだ」

 ―― 全然良くない。

 何、その子供の言い訳みたいな話は。信じられないよ、いい加減にして。辛かったんだから、滅茶苦茶落ち込んだんだから。二度と立ち直れないって、思い詰めたんだよ。それなのに、もういいだろうって何よ? ひどいわ、ひどすぎるわよ。こんなにすぐに許せるなら、最初からあんなにお怒りにならなければいいじゃない。

「そのようなお言葉をくださらなくて結構です。謝ればそれでいいだろうとか、そんなの考えが甘すぎます。そりゃ、使用人の身なら主の言葉には従わなくちゃならないって思いますけど……だけど……」

 踏みとどまらなくちゃって、必死だった。これ以上振り回されたら、私の心は崩れてしまう。最後に残されているのは色んな想いがごちゃ混ぜになった怒りの心。それも風前の灯火というところだけど。

「貴子」

 私、今すごい顔で睨んでるでしょう。それなのにどうして、これほどまでにお優しい声で名前を呼ぶの? そんなんで誤魔化されるほど、私は甘くないんだから。
  頭の端がじんじんと痛む、それが次第に広がっていく。惑わされちゃ駄目、言いくるめられるなんて情けないよ。そうやって必死に自分を押しとどめようとしても、もう無理。

 未だ、しっとりと濡れているはずの袖がふわりと舞い上がる。咲き誇る藤の花のように瑞々しく。

「間に合ったのだから、いいだろう。さあ、ここに来て。あの晩のやり直しをしよう」

 ……何それ。

 口惜しい、何でこんな時までたまらなくお美しいのよ。若様の周りに灯る炎が幾重にも広がって、私を手招きする。夢にまで見た、絵巻物のあの場面へ。何もかもが息を呑むほどに完璧にきらめいている。

「……」

 何も答えることは出来なかった。だけど、私の瞳の中にいち早く何かを見つけたのだろう。若様はそこで、揺るぎない勝利の微笑みを浮かべた。傲慢とも見えるそのお姿に、またときめいてしまう。駄目だ、完全に支配されている。私は自分自身の心も思うように動かせなくなっていた。

 再び、手にした盃をこちらに差し出す。それが合図だった。

 

「見ろ、お前の家の者も少しは気をきかせたようだな」

 促されて、盆の上を見る。そこに置かれていたのは、暁高兄上から正月に届けられたという祝いの酒であった。

 

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