TopNovel玻璃の花籠・扉>花になる・18


…18…

「玻璃の花籠・新章〜鴻羽」

 

 もう駄目だと諦めきっていた。

 やすやすと兄嫁の策略にはまり、己自身がこの先の一生を薄暗い場所で過ごし続けることになるどころか、実家の皆をも奈落の底へと突き落としてしまう。しかもこの度の縁談は私が望んだことだと吹聴されていたから、何か大事が起こった際には張本人には火の粉が被らないという巧妙な計算である。
逃げ道は全てふさがれ、打つ手はなかった。いつか皆から後ろ指を指され、あいつのせいだと恨まれる羽目になる。きっとそのときには誰ひとりとして私に味方してくれる人間はいないだろう。

 それなのに、目の前が再び明るく開かれた。私にとって、一番遠い存在になってしまったと思っていた御方の手で。

「ほら、どうした。早くここまで来い」

 客間としては我が館でも最高の部屋。その場所が特別の日のために恥ずかしいくらいに飾り立てられている。少し趣味が悪すぎるかとも思うが、全てが兄嫁の指図によるものだと思えば無理もない。とりあえず品の良いものを並べておけばいいだろうといういい加減さが、そこここにかいま見られた。
  しかし、ちぐはぐな取りそろえのお道具を背にしていても、若様のお美しさが霞むことは決してない。それどころか落ち着かないしつらえをもたったおひとりの存在が、しっとりとまとめ上げているようにすら思われる。急なお出ましに屋内での装いの上に慌てて羽織ったように見える重ねも、それほど不自然な取り合わせには感じられなかった。

「は、……はい」

 いいじゃないの、お酌くらいと自分を納得させようとするのだが、これがなかなか上手くいかない。あんなに再会を望んでいたのに、いざとなるとひるんでしまう。二度とお目に掛かることもないのだからと諦めきっていた感情が、胸を苦しく締め付けようとする。

「これは南峰の花酒だな、祝いの席には欠かせないものだ。たいそう値の張る品であるが、暁高も実家のために随分奮発したようだな」

 陶器で出来た瓶は全体に花びらの透かし模様が散りばめられていて、それだけで芸術品に見える仕上がりだった。両手で表面を包めるほどの小振りなものであるから女子の手でもどうやら扱うことが出来そうである。他に道具が準備されていないことから見て、栓を抜いたあとそのまま冷やでいただくものらしい。

「これならば、お前が中を覗いて確かめる必要もないな」

 喉の奥でくすりとお笑いになった後、涼しげな眼差しをこちらに向けてくる。自分の胸が大きく高鳴ったことに、頭上で揺れるかんざしの音で気付いた。婚礼の衣装のままで細々としたお客様のお相手をするなんてとても変、有り得ない。

「どうぞ」

 花嫁の身の上ならばひとつの場所に人形の如く座しているのみ、周囲があれこれと世話を焼いてくれて自分から何かすることはない。幾重にも重ねた袖は想像以上に重く、揺らめきを止めるだけでも大変だった。かくなる上は、息を止めて意識を手元に集中するしかない。それでも酒瓶を持つ手元が小刻みに震え続けていた。

「良し、なかなか腕を上げたものであるな」

 艶やかな微笑みを浮かべた後、盃を口元にお運びになる手つきもこの上なく優美だ。部屋に満ちた輝きが全て若様の周りに集まっている気がする。あまりうっとりと眺めていてはまた何か失敗してしまいそうだけれど、かといって次にいつ見られるかも分からない光景を一瞬たりとも見逃すことは出来ないと思い直す。
  もしかしたら、今このときこそが私の見ている都合の良い夢なのかも知れない。目が覚めたら、また辛い現実に引き戻されることもあり得ると思えば、刹那のきらめきですら心に強く留めたいと願うのは当然。

「今宵はもうひとつ盃の準備があるぞ、お前も呑んでみるか?」

 二杯三杯と進んだあとにそう提案されて、有り難くも辞退する。この前の様な失敗はもうたくさん。今夜はさらに緊張の連続であったのだから、ほんの一口が身体中に回っていきそうだ。

「そうか」

 まだ、喉の奥で低くお笑いになる。その後、ご自分の手にあった盃を盆の上に戻すと、ゆっくりとこちらへ向き直った。

「髪を結いすぎてたいそう重そうであるな、場末のやり方は仰々しくて目に余る。もっとこちらへお寄り、外してやろう」

 思いがけない問いかけにはにわかに胸がときめいたが、次の瞬間には早くもその言葉の意図するものに気付いてしまう。ああそうか、これもまた「稽古」の一部なのだ。 若様としては酒の席で頻繁に行われるやりとりをそのまま再現してくださっているに過ぎない。そうよ、だから舞い上がっては駄目。
  自分の思い上がりに恥ずかしくなっていたそのとき。まずひとつのかんざしが抜かれ、一房の髪がするりと下に流れ落ちた。そしてまた一本、さらに次のもの。緊張に引きつれていた心までをも解き放つかのように朱色の流れが広がっていく。良家の姫君なら、このような場面で穏やかに取りなすのだろうか。だけど私は駄目、すぐそこで動く指先に心が全て吸い寄せられてしまう。

「これは八重の香油だろう、同じ香りがする」

 素直に下に落ちることを好まず漂い続ける一房を手に取り、若様は躊躇うことなくその香を楽しんでいる。しかしお口からこぼれた何気ないひとことに、浮ついていた私の心はすっと現実に戻っていた。

 ―― やはり、若様は八重様と……。

 そのようなこと、女子の口からわざわざお訊ねするなんてはしたない。ううん、八重様おひとりとは限らない、若様には他にもあまたのお相手がいるに違いないのだ。だから何だって言うの、当然のことじゃない。私があれこれ思ったり悩んだりすることじゃないわ。
  この出会いこそがそもそもの間違いだったのよ、幾度そう自分を納得させようとしてきたことか。御領主様の若君なんてお声を掛けられることはおろか、気安く目を合わせることも出来ないお相手なんだもの。

 そうよ、だからこれ以上は難しく考えちゃ駄目。

「どうした、大人しいな。慣れない晴れ着をまとうと、さすがのじゃじゃ馬もいつもの憎まれ口が叩けないというところか。……急に扱いやすくなってしまうのも面白くないな」

 ゆらりと、辺りが揺れる。ねっとりと重くなった夜の気が、もどかしそうに漂っていた。ああ駄目、これ以上はどうしても無理。そろそろおいとまを願おうか、そう思ったとき。

「ほら、こうすれば何か言いたくなるだろう。違うか?」

 そのお声はひどく遠く感じられた。藍色の袖が私の周りをゆっくり覆っていく。そこに描かれた金糸銀糸の花文様をうっとりと眺めている間に、気付けば逞しい腕の中にしっかりと抱き取られていた。

「……な……」

 柔らかなぬくもりも背中に回された力強い腕も、全てがあの夜と同じだった。

 激しく波打つ鼓動、実際は大声を上げるどころかかすれた吐息を漏らすだけで精一杯。これからどうなるの、やはり冷たく突き放されてしまうの? あのときと同じくらい、ううんそれ以上に願う。どうかこの夢の時間が少しでも長く続きますようにと。決して行き着けないと諦めていた場所も、一度飛び込んでしまえば永遠を夢見てしまう。
  二度と後悔はしたくなかった、だけど……どうしたらいいのか、それが分からない。必死に額をすり寄せ、手探りで湿った衣にしがみつく。でも私に出来るのはそこまでだった。情けないことに、身体中に広がる震えを止めることすら出来ない。

「貴子」

 耳をくすぐる甘い声。そんな風に感じてしまうなんて、私どうかしてるの? しなやかな指が髪の間に入り込み、さらに強く抱き寄せられる。

「この前はきちんと教える間もなかったな。……このような場面では女子から施すことはなにもない。ただこちらのやり方に素直に従ってくれればそれでいいのだ。男とはどこまでも臆病なものだからな、拒まれていると思えば次に進むことなど出来ない。どんなに立派な世慣れ人を装っていても、実際のところはそんなものだ」

 すぐそこに感じられる吐息が鼓動が熱くて、ふとした瞬間に気が遠のいていきそうになる。

 これって何かお返事をした方が良いのかな。はいそうですか、って? お師匠、よく分かりましたって? ……ううん、なんかそれも変だなあ。それに、だってまた夢と現実の境が曖昧になっていくわ。本気で口説かれているみたいな錯覚に陥りかけている。どうしよう、この辺でおしまいにしていただいた方がいいかしら。
  囁きは糖蜜の様に甘かった。とろんと耳元から注ぎ込んできて、やがて全身にときめきが広がっていく。全く罪な方だ、ご自分の何気ないひとことが相手にどんな影響を及ぼしてしまうかお分かりにならないの?
  そうやって冷静に考えることが出来るのは、頭のほんの片隅だけ。残りのほとんどの部分は熱い息吹にとろけそうになっている。

「その、若様……」

 あとに言葉を続けようとしても、声はかすれるばかり。今にも胸が張り裂けそう、こんな場面で自分から待ったを掛けるなんて出来っこないと思う。

「いい、黙って」

 一度、背中が痛くなるくらいに強く抱きしめられて、それから静かに腕が緩む。そのときの私、きっと途方に暮れた顔をしていたと思うわ。もう終わりなのって、すごく残念でたまらなくて。

「余計なことまで言わなくていい、無駄口を叩きすぎると男は萎えるぞ」

 完全に解放された訳ではなかった。背中には若様の片腕が回ったまま、もう一方の手のひらが頬に掛かった髪を静かに払っていく。

「僕の目を見ろ、お前が欲しいと言っているのが分かるか?」

 しっかり確認する暇なんてなかった。頬に額に、次々に落ちてくる湿ったぬくもり。ほんのりと花の香りが辺りに広がっていく。なんか、もしかしてとんでもないことが起こっているんじゃないかしら。そう思った瞬間に、顎に手が添えられ唇が塞がれてた。

「……!?」

 甘く柔らかく、最初はかすめとるように。それから次第に深く。こんなの初めてだもの、本当にどうなっちゃってるのか分からない。決して拒むなって言われたけど、だったらその、どうするべき? 上唇と下唇を交互についばまれて、舐めとられて。そろそろ終わりかなって思っても、全然やめてくれない。
  一度口元を離れたかなと思ったら、今度は首筋に降りてきて。耳の脇からゆっくりと浸食されていく。これって、やっぱり稽古? そうだったとしたら、やっぱりきちんとしないと駄目なのかな。でも、……どこまで進むのか分からないのってすごく怖いよ。

「……あ……」

 ただくすぐったいのとは違う、甘美な感覚が起こる。思わずこぼれた自分の声に、驚いてしまった。何、これ。なんか、……すごい。

「いい子だ、それでいい。感じたらそのまま伝えてくれればいいんだ。もちろん、あれこれ説明などいらないけどな。よし、もっと何も言えなくしてやろうか」

 ふわっと身体が浮き上がった気がした。次の瞬間には大きく胸元が開かれる。それまであった腰紐の束縛が消えていることに、しばらくしてから気付いた。足下が嘘の様に軽くなる。

「……っやあっ……!」

 本気で嫌がった訳じゃない、だけどこんなのはとても無理だと思った。昼間の様に明るい部屋の中で、次々と衣がはぎ取られていくのは耐えられる状況ではない。必死で上体をねじって逃れようとしたのに許してもらえず、顎を押さえられて再び強く口を吸われていた。
  身体の自由を奪われたまま、一枚また一枚と衣が床に落ちていく。色とりどりの衣が辺りに散らばり、最後の肌着に手が掛かる頃にはあまりの恐ろしさに全身の震えが止まらなくなっていた。

「だっ、駄目です。……これ以上は……」

 拒んじゃいけないと言われても、ものには限度がある。ここで全てがおしまいになるのも残念だけど、この先に進む方がもっと怖い。何も若様が嫌って訳じゃない、むしろその逆。でも、どうして。誰もが当たり前に過ごしているはずのことが、とてつもない恐怖になって私に襲いかかってくる。

「貴子」

 その呼びかけにも必死で首を横に振っていた。堪えきれなかったしずくが、ほろりと頬を流れていく。自分でも自分が分からない。この前の失敗でほとほと懲りたはずだったのに、夜な夜な若様のお相手をしているという八重様のお話を聞いたときには本当に羨ましく妬ましく思ったのに。

「何を怯えている。恐ろしいことなどない、全て僕に任せろ。……お前は何も心配しなくていいから」

 自分のものではない柔らかな赤髪が頬をかすめていく。ゆっくりゆっくり時間を掛けて素肌を辿っていく指先。背中から腰へ、脇から腕を伝って肩へ。私の収まることのない震えを全部受け止めようとしてくれるように。

「……そんなに嫌か?」

 その言葉にも首を横に振るしかない。決して嫌じゃない、ご一緒になれる日が来るとは思っていなかったけどそれを願ったことなら幾度もある。私にとって、永遠の憧れとなった御方。もしもひとときの夢が見られるなら、もう何もいらないと思った。

 私の反応に何かを読み取ったのか、若様は今一度首筋へと唇を這わせてからこう仰る。

「それならもう、怖がることなどない。僕の導きに従ってくれ、それだけでいい」

 無我夢中って、きっとこんなことを言うのかな。いろいろと考えなくちゃならないことがたくさんあるような気もするんだけど、そんなことは全部放ってしまいたい。取り込まれたいって思った、だけどいったいどこへ? 私は一体どこまで流れていくのだろう。

 

 静かに抱き上げられた私がまとっているのは、頼りない肌着だけ。こんなこと本当にいいのって、もうひとりの私が遠い場所から囁くけど、そんなのもうどうでもいいじゃない。

 人並みの人生を渡っていればね、時には思いがけない出来事にも遭遇するものなのよ。そんなとき裸足で逃げ出しているばかりだったら、あとには何も残らない。たまにはいいわ、夢を見よう。私ひとりじゃ決して行き着くことの出来なかった、あの美しい世界へ。金糸銀糸の霞を越えて、その向こうにある幻の館に辿り着く。二度と戻ってくることが叶わなくても、それでいいの。

「……若様……」

 かすれる吐息、言葉の代わりに眼差しが応えてくれる。やがて背中の下に滑らかなしとねを感じても、ふわふわした夢心地は決して覚めることはなかった。

「……いいね」

 ゆっくりと覆い被さってくる身体、衣を剥ぎ取った生まれたままのそのお姿は淡い光の中で私を誘う。そこに触れてみたいという欲求にどうしても逆らえず手を伸ばせば、しっとり汗ばんだ肌は燃えるように熱かった。胸をしっかり合わせて抱き合えば、互いの鼓動が重なり合って美しい音色を奏で始める。そうしているうちにも、若様の手のひらが唇が私の身体の隅々までを探っていく。
  虹色の光の帯が幾重にも胸に広がって、自分の中から湧き上がる熱がもっともっとと求めてくる。いつおしまいが来るかなんて、もう考える余裕はなかった。私はもう戻らない。永遠の世界にいざなわれてしまったから。ただひとり、暗い部屋の中で眺めていた錦絵の中へ。そこへ行けば、ずっと若様と離れずにいることが出来る。

 胸の痺れる様なこんな想いを抱いて、あまたの女子がこの橋を越えていくのだろうか。二度と元の場所には戻れないって知っていても、留まることは出来ない。みるみるうちに全身が花色の靄に包まれていく。自分が今どこにいて何をしているのか、それすらも分からなくなっていた。

 若様の手が腿から足の付け根へと進んでいく。その瞬間を待っていた場所が、熱く指先を迎え入れ信じられないほどの水音を立てた。すごい、一体どうなっちゃっているんだろう。先ほどまでの恐怖はもうどこかに消え去って、もっと激しいものを求めて身体中が悲鳴を上げている。

「……う、うう……」

 敏感な内壁を探られると、そのたびに身体がびくんびくんと跳ね上がった。恥ずかしいのに、足を大きく広げてその間に若様を迎えて、私ってすごくみっともない格好でいると思う。でも、そんなことももう関係ないくらい、すごく幸せな気分。喉の奥から出る吐息はまるで唸り声みたいで全然素敵じゃないけど、もういいよね。

「貴子」

 潤った場所に固いものが当たって、入り口の辺りをうかがっている。え? そうなのって一瞬嘘みたいに正気が戻ってきて、次の瞬間には今度は全身を引き裂く痛みが走った。叫び声、上げたかったけどそれも声にならないくらいすごい。おなかの奥が苦しくて息も出来ないくらい、とてつもない異物感に鳥肌が立った。今までの甘い心地よさなんて、全部吹き飛んでる。

「貴子、……貴子、貴子」

 そんな中で、唯一夢の名残を教えてくれるのが若様。ぎゅっと強く抱きしめられて口を吸われて、それから数え切れないくらい名前を呼ばれた。それがぞくぞくするくらい気持ちよくて、次第に下腹部の痛みもなくなっていく。まるでそれが分かっているかのように上になった人はやがてゆっくりと動き始めた。指先とは比べものにならない感覚に、いつか飲み込まれていく。深く、深く。

「さあ、もう大丈夫だ。最後まで一緒にいこうか」

 声にならない叫び、どうしても伝えたくて首筋にしがみつく。身体が浮き上がることでさらに一点に感じる刺激が強くなり、もうどうしていいのか分からないくらい混乱してしまう。

「……あぁ……っ……」

 夢の幕が下りる瞬間を迎えようとしていた。虹色の帯がふたりの身体を包み、二度と戻れない深い場所へと導いてくれる。

 狂おしいほどの喜びに射貫かれたそのときに、私の身体も意識もその全てが消し飛んでいた。

 

<< 戻る     次へ >>


TopNovel玻璃の花籠・扉>花になる・18