しかし、どうあがいたところで夢は所詮夢でしかない。やがて覚めるときはやってくるのだ。 木戸を揺らす微かな音に、ふっと意識を取り戻していた。重い瞼の向こうは、もううっすらと白んでいる。天井近くに設けた明かり取りから、夜明け前の静かな気配が伝わってきた。 すぐ側で自分のものではない吐息を感じて、はっと向き直る。片腕を私の上に伸ばしたままで深く寝入っている人。昨日はあのまま気を失うように寝入ってしまったから、互いに何も身につけていない姿だ。そう、ただひとときの眠りが訪れただけ。錦絵の世界の中に辿り着くなんて、最初から有り得ないことだった。 ―― だけど、一瞬だけそう信じていたかったのかも知れない。 傍らの人を起こさぬように腕をどけて、静かにしとねから這い出る。脱ぎ散らかしたままの肌着を手探りで見つけ素早く肩から羽織った。そのときに薄闇に慣れ始めた目が己の肌に落ちた無数の痕を見つけてしまい、心が昨日へと引き戻されようとする。ああ、駄目だ。自分を諫めながらゆっくりと頭を振ると、背後で微かな物音がした。 「……貴子?」 まだ半分夢現な問いかけに、ぴくりと肩が跳ね上がる。でも私が返事の代わりにしたことは、震える指先でどうにか肌着の紐を結ぶことだった。 「どうした、夜明けにはまだ早いだろう。そんなに急いで起き出すこともない。こちらにお出で、もうしばらくまどろもう」 ……そんなこと、出来る訳ないじゃない。 前もって自分を強く制してから、ゆっくりと振り向く。若様はしとねに寝ころんだままの姿勢で、胸元もすっかりはだけている。辺りを白く霞ませる朝靄のお陰でぼんやりと見えることが幸いだった。こんな艶めかしいお姿、正気に戻った今目の当たりにしたら気を失ってしまいそうよ。 「いえ、夜がすっかり明ける前に部屋に戻らねばなりませんから」 静かに首を横に振ると、寝乱れた髪が私の周りを舞い踊る。こんな姿、見られたくなかった。もっと暗い刻限に目覚めているべきだったな、そうすれば気付かれずに抜け出すことが出来たのに。 「そのようにつれないことを言うな。ほら、お前の場所はまだ温かいぞ」 喉の奥で低く笑いを噛みしめるお姿も麗しい。昨夜に私を愛してくれた指先が、空っぽのしとねの上を辿っていく。 「……いいえ」 そりゃ私だって許されるならそこに戻りたいわよ、まだ離れたくなんてないもの。でも……無理だよ。世に認められた間柄でない男女が、夜が明けきるまでひとつの床に就いているなんて絶対に許されないこと。一時の愛人ならば、きちんと分別のある行動を取らなくては。それこそが今、私に与えられた課題だ。 「おかしな奴だ、何も遠慮することなどないのに」 若様のお声が、未だに甘さを残しているように思えるのは気のせい? この上なく愛おしい者を見るような瞳が私に向けられてるのはどうして? ……これもまだ、稽古の続きなのかしら。だとしたら、あまりにも残酷すぎる。 「こっ、……これで、失礼いたします。ごゆるりとお休み下さいませ」 どうにか挨拶を終えて、衝立(ついたて)の向こうに逃れる。胸が苦しくて仕方ない、最初から分かっていたはずなのにあまりにも辛すぎて足下から崩れ落ちてしまいそうだ。何もかもが昨日のままの部屋に落ちた衣を慌ててかき集める。 向こうが白く透ける障子戸を開けて渡りに出る。昨夜の荒れが嘘の様に辺りはしんと静まりかえっていた。
◆◆◆
今は亡き母上が、生前よく仰っていた言葉。まだ物心が付くか付かないかの頃から、折に触れて繰り返し諭されてきた。夢の様な面差しが懐かしく思い出されるそのときには、いつもこの響きが重なる。 街道沿いに館を構える我が家は当時から一夜の宿を借りる客人が西南の民に限らず方々より頻繁に訪れていたように思う。様々な土産物を手に遠い都の珍しい話を聞かせてくれる方々にお目に掛かるのが楽しみで、私は呼ばれもしない広間に頻繁に潜り込んでいた。 しかし母上は私のそのような奔放な振る舞いに我慢がならなかったらしい。いつもは決して強い物言いなどなさらない穏やかな方だったのに、そのときだけは人が変わったように恐ろしかった。 「女子の幸せは最愛の方に出会い、その方を夫君として生涯添い遂げることに尽きます。軽はずみに道を誤って、一番辛い想いをするのは己自身なのですよ」 そのお言葉の真意が理解できたのはだいぶ後になってからだった。月のものを迎え男女のことを侍女から事細かに教えられるに至ったとき、私は驚くべき事実を知ることになる。 ―― でも、私は結局母上のお言葉を守ることが出来なかった。 後悔なんてするわけはない、あれは私自身が望んだこと。許されることではないと知りながら、でも止まることなんて無理だった。だからいい、もういい。……でも。私はこの先、どんな風に生きていけば良いのだろう。
この度の縁談が流れたとしても、また程なく次の話が舞い込むに決まってる。そういう年齢なのだから仕方ない。いつまでも家に残って家人の厄介になることは出来ないのだから。だけど、しばらくはきっと無理。いいよね、気が済むまで部屋に籠もって泣き暮らしたって。 こんな話、別に珍しいことでもないし。もしも自分の身に起こることがあってもやり過ごせるんじゃないかなと思っていた。でも、実際のところはそんな簡単なものじゃない。 「……う……」 ああ、駄目。いろいろ考えるとまた泣けて来ちゃう。もうちょっと、もう少しだけ我慢しなくちゃ。あの角を曲がれば、私の部屋がある対はすぐそこ。そしたら思い切り泣ける、今日は涙がかれてしまうまで泣きまくるんだ。 水場が近いこの辺りは、夜明けになると白い靄で向こうが見えないほどになる。渡りの板も滑りやすく細心の注意が必要だ。遣り水を渡る橋を越えて一息つくまで、私は自分の足下ばかりを見ていた。そして、ようやく顔を上げたとき。見慣れた障子戸が開き、中から愛らしい紅色の装束が飛び出してくるのが見えた。 「……お嬢様っ!」 こちらが口を開くよりも早く、小絹の叫び声が耳に届く。何やらひどく慌てている様子で、次の言葉がなかなか出てこない感じだ。 「そっ、そのっ……! ただ今、お迎えに上がろうかと思っていたんです。ええと、とにかく早く中へ―― 」 勢いよく急き立てられて、こみ上げてきたものが一瞬引っ込んでいた。どうしたのかしら、部屋の主である私が一晩戻らなかったから心配になったのかな。それにしては様子が変だし……。小さな手が衣の袖を掴んで、早く早くと促す。 「わ、分かったわ。分かったから、だからそんなに強く引っ張らないで……」 濡れた床に足を取られる。どうにか持ちこたえようとした努力もむなしく、私は開けはなった障子戸の中へと転がり込んでいた。咄嗟に板間に手をついて身を守ったことを誉めて欲しい。それでも全身にかなりの衝撃が走って、しばらくは呻き声も出なかった。 「……っ、いたた……」 床に置いた手を自分の方へとたぐり寄せる。そうして今にも床にくっつきそうだった顔を少し上げると、視界の端に何やら見慣れぬものが映った。というか、小絹の他にこの部屋に控えている者がいるはずもないし……。 「……まあ、お早いお戻りですこと。この先、幾日も待たされるのではないかと途方に暮れていたところでしたのよ?」 えっ、何? 今のお声って 。 そんな馬鹿な、だってあるわけないでしょ? 信じられない予感を抱いた自分にそう言い聞かせながら、でも恐る恐る顔を上げていく。明るい若草色の重ね、そこに舞い散る白い花たち。一流の職人が手掛けた仕事だと一目で分かる見事な染め絵だ。そして、その上にあるお顔は……。 「ど、……どうして?」 まさか、この方がここにいるはずはない。だって、……そんなの無理。私の素性も、そして名前すらご存じなかったはずなのに。 「全く、想像以上の酷いお姿ですこと。さすがにここまでとは考えておりませんでしたわ。そこの娘、湯桶の準備は出来たかしら? さあ時間はないのよ、急ぎ始めましょう」 やわら立ち上がったその人は、小絹が慌てて差し出した湯桶をちらりと横目で確認してからまっすぐな瞳で私を見下ろす。心底馬鹿にしているような、それとも哀れんでいるような。それは何とも捉えようのない不思議な眼差しである。 「は、始めるって……一体?」 この期に及んで何を? まさか、わざわざ自宅に出張してきてまで稽古をつけてくれるとか、そんなじゃないわよね。だって、どう考えても変だし、そもそもまだ館が寝静まっているような刻限だし。 「肌着から全てお召し替えしますからね。ええ、まずはそちらの行李を。それから奥のものは一度気を当てた方が良いでしょう。どこかに広げて掛けるところはあるかしら。ええ、それでいいわ。あとはお道具ね、どうしたのかしら? そろそろ次の車が到着する頃なのだけれど―― 」 てきぱきと一通りの指図を終えてから、彼女はまたこちらを振り向く。 「何ぼんやりとしているの、早くなさいと申し上げたでしょう? 本当にっ、あなたときたら見ているだけでイライラするわ。全く、困った方ね……っ!」 これ以上手を止めていたら、とんでもないことになりそうだ。とりあえずは言われるがままにするしかない。すっかり冷え切ってしまった手ぬぐいをもう一度湯桶に浸して絞っていると、そのうちに今度は裏戸の方からごとごとと何かの当たる音がした。 「誰か、近くにいるかな? ちょっと木戸を開けてもらいたいんだけど……」 戸の隙間から聞こえてきたお声に、またまた驚いてしまう。え、……ええっ!? ちょ、ちょっと待ってよっ、何がどうなっているの……っ!? 「まあっ、暁高様……!」 しかし誰よりも早くその声に反応したのは、他人の部屋で我が物顔で立ち振る舞っていた彼女。いつもの雅な物腰は何処へやら、突風の様な速さで声のした方へと駆け寄った。少し建て付けの悪くなっている戸も何のその、あっという間に全てを開けはなってしまう。 「わざわざお出で下さったのっ、嬉しいわ。一度に運んでくださったなんて重かったでしょう、まずはこちらに置いて。でもこのようなこと、暁高様が手を煩わせることはないのよ。誰か他の者に任せればいいのに……本当に律儀な方なんだから」 行李はさっさと脇に押しやり、彼女はその場所に膝をつく。そして主を迎え入れる一通りの作法をまるで流れる様にこなしていった。 「いや、元はと言えば若様にこの度のことをお話をしたのは私だからね。知らぬ振りなど出来ないよ、八重殿にばかり苦労掛けるわけにもいかないし。急に引き返す様に言われたのでしょう、君も大変だったね」 な、何っ? このどうしようもなく甘ったるしい雰囲気は。しかも、八重様はすっかりお人が変わっているし。互いに手に手を取り合って再会を喜び合う姿を、私と小絹は嫌と言うほど見せつけられてしまった。ほら、また私の手が止まっちゃったでしょ。でもこれって、こっちが悪いんじゃないわ。 「そのようなこと、お気遣いいただかなくて宜しいのよ。ああ、それにわたくしのことは八重と気軽にお呼び下さいと申し上げているでしょう。嫌だわ、そんな他人行儀な真似はよしてくださいまし。このあと暁高様はすぐにあちらにお出でになる? それではわたくしの方も先を急ぎましょう。早くしないと夜が明けきってしまうわ」 そしてようやくこちらを振り向いて、彼女はわざと大袈裟に溜息を落とす。 「……誠に。あなたが暁高様の妹君じゃなかったら、わたくしもここまで骨は折れないわ。こんなに出来の悪い弟子、いくら頼まれたってお断りよ」 ここまで来ても、まだ私は状況が全く把握できてない。いろいろなことがいっぺんに押し寄せてきて、もう何が何だか。先ほどまでの感傷的な気分まで全て吹き飛んでしまっている。 「おいおい、……いくらなんでもその言い様はないだろう」 暁高兄上も一応は異を唱えて下さっているみたいだけど、必死に笑いを噛みしめながらのお言葉だもの。何だかなーって感じよ。 「あら、わたくしはいつも正直に生きているの。相手が誰であろうと、心にもないことは言えないわ」
……ええと、だから。一体どこからどうなっているんでしょう? 誰が見ても、普通じゃない関係のおふたり。それじゃ、八重様が若様の仰っていた兄上のお相手? でも聞いていた話とは随分違う感じだし、変だなあ。
兄上がさっさとどこぞに立ち去ってしまうと、八重様はすぐに元通りに作業を再開した。どうにか身体を清めた私に次々に衣をまとわせ、顔に香り水を叩き、髪を濡らす。その傍らではおぼつかない手元の小絹が言われるがままに手伝っていた。 「……さ、このくらいかしら。じゃあ、あなた重ねを持ってきてくれる? お顔に色を加えるのは顔映りを見てからの方がいいわ」 一度奥の間に下がった小絹が再び戻ってきたとき、その手には驚くべきものがあった。 「……それは……」 これって、いつぞやの夕べに見た白と茜の衣装じゃないの。翌朝には片付けられてしまっていたから、もう二度とお目に掛かることはないと諦めていた。それなのに……どうして今ここに……? 「ほら、また何をぼんやりしているの。あなたも身体を動かして手伝って、ここが一番大切な仕上げなのですからね……!」 目の前に置かれた姿見の向こうから、大きく目を見開いた女子がこちらを見つめ返している。すごい、……これが本当に私? まるで見たこともない全然知らない誰かを見ているみたいだ。 「まあ、誠に……憎らしいほどお似合いになりますこと。本当にあなたは恵まれているわ、このようなお色をまとえる西南の民はそう多くないもの」
やがて、再び裏手の障子戸が開けられたとき。そこにどなたがお出でになるのか、視線を向ける前に分かっていた。 「支度はいいか、そろそろ出掛けないと間に合わないぞ」 今朝のお召し物は鷹狩りにでも出掛けるような颯爽としたもの。一寸の乱れもなく高い場所でひとつに結んだ髪、朝の光に溶けていく靄の中に夢の貴人が立っている。 わーこのような装いも当然のようにお似合いになるのねとか、場違いな想いを抱いてしまう。全く、困ったこと。 「ええと……出掛けるって、一体どこへ?」 未だ戸惑う私の問いかけに、若様は面倒くさそうに応える。そんなことがまだ分からないのかと言わんばかりの表情だ。 「決まっているだろう、僕のお祖母様である本館の女人様のところだよ。すでに早馬で文を送ってある、あちらに到着すればすぐにお目通りが叶うはずだ。早くしろ、お前の家の者たちが気付かぬ前に抜け出すぞ」
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