……。 その、それって……どういうことでしょうか? いや、聞き返すまでもないな、ここまで状況が整っていれば今更説明を受けるまでもないと思う。だけど……。 「そっ、それは困りますっ! 抜け出すって、何でですか。やはり、そのような大切なことは父や長兄の許可を取らなくては無理です。だいたい、こんな急になんてっ……!」 こういうのがお上のやり方なんだろうか。あまりの展開の速さに全然ついていけないわ。それに、その、私はもう「玉の輿」とかそういうのやめたんです。お申し出は確かに有り難く思わなくちゃならないけど、だからといって「はい、そうですか」とふたつ返事は出来ないから。 「何言ってるんだ、馬鹿」 衣が乱れるのも構わず両腕を大きく振って異を唱える私に、若様はお得意の蔑み口調で応えてくる。 「あんな間抜けな奴らを相手にしていたら、この先何年かかっても話がまとまらないぞ。やれ体裁がやれ支度がとあれこれ御託を並べるのにいちいち付き合っている暇はない。だいたいな、あちらはたいそう気難しい御方なんだ。ここまで話を取り付けるのだって、一通りのことじゃなかったんだからな」 さらにこっちが口を挟む間もなく、背後からは強力な援護射撃が。 「本当にあなたってなにも分かっていないのね。こんな半端な稽古しかつけていない状態で放置したら、正直言って領地の恥だわ。そんな程度で女人様のお眼鏡にかなうとも思えないけれど、万が一ってこともありますからね。そのときはいつかのお約束通りに私が残りの部分をみっちり仕込んで差し上げるわ、せいぜい覚悟なさい」 そこで一度言葉を切った八重様は、若様の後ろからやってくるもうひとりを確認してハッと頬を染める。再びやってきた暁高兄上は、今度は荷物の代わりに堂々とした体格の馬を連れていた。一度膝をついてから、その手綱を恭しく若様に差し出す。 「準備、全て整っております」 もう一度立ち上がった兄上の視線は、まず恋人であるその方に止まったのちに私へと辿り着いた。 「良かったね、貴子。とても綺麗に支度してもらえて」 やっぱり、聞いていたのとはあまりにも話が違うと思うわ。兄上、悲壮感とかそういうものが全然漂ってないもの。事態は若様が仰っていたほどには緊迫していないんじゃないの? ……とか何とか考えていたら。 役者が全て出そろったという状況で、今一度口を開いたのは、やはり最強のこの方だった。 「あのね、わたくしは別にあなたになんて助けてもらう必要もないのよ。もともと頭の固い実家とはそりが合わなかったし、どうしても暁高様と一緒になることを許してもらえないならそのときは駆け落ちだって何だっていいと思ってるの。いくらわたくしが女人様にとって今一番のお気に入りだからって、ご命令には絶対に従わなくちゃならないっておかしいでしょ?」 同意を求められたって、頷けるはずないじゃない。どう反応していいか分からずにうろたえる私を置き去りにして、八重様はなおも続ける。 「そりゃあね、若様は夫君としては最高の御方だとは思うわ。でもわたくし、面倒なことを背負い込むのはまっぴらだし……それに暁高様と巡り会ってしまったんですもの。もう今更、後戻りは出来ないのよ。思いを遂げるためなら、何だって怖くないわ」 兄上が兄上なら、この方もこの方。というか、それってすごくやばくない? だって、大山の村長様のご息女ともあろう御方が庶民上がりの使用人と駆け落ちしちゃったらとんでもなく大事件になっちゃうわよ。御領主様に対しても相当の発言力のある家柄、下手したら我が家なんて商売続けられなくなるかも。だって河行商の許可を取り上げられたら、それでおしまいだもの。 何それ。ということはここで私が女人様の目に留まらなかったりしたら……大問題ってこと? えー、結果次第では我が家は商売存続の危機に陥るなんて、そんなの酷い。比べる対象が八重様だったら最初から勝ち目なんてありっこないじゃない、いくら何でも相手が悪すぎるわ。 「……そんな……」 もうやだ、みんなして私にばかりいろいろ押しつけないでよっ……! 一難去ってまた一難なんて、勘弁して欲しい。だけど、……やっぱ逃げ道なんて用意されていないんだろうなあ。 「ようやく分かったようだな。だったら行くぞ、夜が明けきってしまってはどうにも動きにくくなる」 未だ呆然としたままの私を、若様は顎で促した。
◆◆◆
して、この度はどうするのかと言えば。やはり馬を使うほかにないと言われる。そりゃあもう驚いたわよ、冗談じゃないと思った。幼い頃の遊び相手は暁高兄上だけだったから、男遊びはだいぶ手慣れたものだったわよ。でも、馬術だけは別。危ないからって、馬の側に寄ることも禁じられていた。 「お前が先に乗れ、そうしたら振り落とされない様に手綱をしっかり握っていろよ」 最初からこちらの意見など聞く気はないのはいつものこと。野歩き用に髪をまとめ衣の裾を少しまくってもらったあとに裏庭に立てば、当然の様に促された。 「ま、初めてならそんなものだろう。もう少し前に詰めないと乗りきれないぞ、ほらどうした」 や、やっぱりこれって相乗り……なんですよね? そりゃ私ひとりじゃ馬を走らせるなんて無理だし、でも狭い馬の背でそれこそ身動きも取れなくて、ちょっとこれはやばいんじゃないの。そう思っているうちに、ひらりと萌葱の袖が舞い上がり、背後が温かくなる。うわあ、いくら何でもくっつきすぎだって。 「じゃ、行くか」 返事なんて、出来る状態じゃなかったわよ。足下はゆらゆらと落ち着かないし、背後からは若様が覆い被さってくる様な感じで、しかも耳元には絶えず吐息が掛かるし。でも、戸惑いもそこまでだった。馬が勢いよく走り出せば、余計なことなんて何も考えられなくなる。
―― こういうのも、役得ってことになるんだろうなあ……。 もしも私が暁高兄上の妹でなかったら、決して訪れることなかった幸運。そもそも御領主様のご子息になんて一生お目通りが叶うはずもなく、しがない田舎豪族の娘として与えられた人生を全うしたのだろう。 暁高兄上のためでも、八重様のためでもない。ましてや、若様のためでもない。私は自分自身のために、全力を尽くすのだ。鮮やかに玉砕しても、未練を残すよりはずっといい。
「―― おい」 不意に間近で声がして、ハッと我に返る。一瞬は自分が今どこにいるのかも分からなくて混乱してしまった。しっかりもたれかかっていた芳しい胸から顔を上げて周囲を見渡せば、地面からかなり高い場所にいるのが分かる。そのとき、ようやく自分が馬上の人であったことを思い出した。 「すっ、すみません……!」 ああやだ、もしかして少しの間まどろんでいたのかしら。そう言えば、辺りの風景も見慣れないものに変わっている。もう私ってば、何しているの。 「僕の馬術の腕も相当なものだと証明されたと思えば、それほど腹も立たないが。呆れるほどに図太い神経だ、人に手綱を取らせて眠り込んでいるとはな」 ……やっぱり、お気づきだったか。そうだよなあ、そりゃ寝入って寄りかかれば相当に重いはずだし。そう納得したつもりでも、やはり恥ずかしくて頬が赤くなってしまう。いや、頬には留まらず顔全体、もしかしたら耳の先まで色づいてしまったかも知れない。 「い、……以後、気をつけます」 気付かぬうちにどれくらい進んできたのだろう。林や野原が点在している辺りで、山脈は遙か遠く紫に霞んで見える。そこここに咲き乱れるのは、見たこともない可愛らしい花々。野山に群生するにはもったいないほど美しい色かたちだ。それにまだ早春と呼ぶこの時期に、ここまで見事に咲き誇るのはすごい。思えば父の館から外に出る機会もあまりなかったもの、こんな風景に出会うのは初めてだ。 「いや、もういい」 そのお声と共に、それまで流れていた風景がぴたりと止まる。 若様は何を思われたのか私に手綱を握らせると、ご自分はあっという間に馬を下りてしまった。何、もしかしたら少し休憩しようとか仰るの? でも、先を急がないとまずいでしょう。お時間は大丈夫なのだろうか、もうだいぶ日も高いようだけど。色んな想いが頭の中で交錯するが、すぐには声にならなかった。 「ほら、手を貸してやるからお前も降りろ」 やはりこちらの言い分など最初から訊ねようともなさらない。若様は私の方へと手を差し伸べてから、ぶっきらぼうとも思える口調でこう仰った。 「もう本館はすぐそこだ。戸口まで乗り付けるのも無礼に当たるから、ここからは歩いて行こう」
◆◆◆
最初は冗談かと思ったわ。でも一眠りだと思っていた時間が一刻半をゆうに回っていたと言うじゃない。もちろん街道を進めば、馬でも半日以上は掛かると言われている。ただ抜け道を使えばその限りじゃないらしい。もっともとんでもない獣道らしいから、よっぽどの腕がないと無理だって話。 「さすがの腕前だ。あれだけ馬に揺られても、ほとんど着崩れていないのだからな。髪を梳いて紅を差し直せば、お目通りするのに失礼ではない姿になれるだろう」 馬を引いて先を歩いていた若様が途中で一度振り返り、そう仰る。ああ、これってやっぱり八重様が誉められているのよね。そりゃそうだ、私はただ着付けて支度してもらっただけだもの。もう、こんなときに彼女の名前を出されたら、なお緊張しちゃう。でも……今更そんなの、言い訳にもならないわね。 「―― 若様」 そのとき、水干に小袴という下男の装いの男が林の向こうから飛びだしてきた。暁高兄上よりも少し若い年頃かな、とその面差しを見て思う。彼は主の前まで進み出ると、さっと跪いた。 「先ほどから、奥の間で女人様がお待ちです。どうぞ馬はこちらへ、俺が繋いでおきますから」 ひとつひとつの仕草が、流れる様に洗練されていることにまず驚かされた。ああ、これが御領主様の御館にお仕えする使用人の姿なのか。何だか、ますますとんでもない場所に来てしまったことを思い知らされる心地。身の置き場がないって、まさにこのことだ。今までもそういう気分になったことは何度もあったけど、あれは本物じゃなかったのね。 「そうか、ありがとう。留守中は何も変わったことはなかったかい、冬真」 声を掛けられてはにかむ姿の愛らしいこと、何というか禁断の関係を想像してしまうような光景だ。いや、駄目よ。私ってば、こんなときに何を考えているの。 「おい、遅れるな。はぐれるぞ」 頬に手を当ててボーっとしていたら、当然の罵声が浴びせられる。ああ、そうよ。大袈裟な言い方じゃなくて、本当にちょっとお姿を見失ったら大変な感じなの。どうも大きな通りからは外れた抜け道を進んでいるみたいなのね、どうりで誰にもすれ違わないはずだ。だいぶ進んできたのに変だなあと思っていたのよ。 さらに林の中の道を進むと、程なくしてその向こうに大きな建物が現れた。何というか、とにかく見たこともない大きさ。多分この場所は裏手に当たるのだろうけど、それでも柱や梁の太さから相当な規模になることが分かる。もしかして、これがご隠居殿とその奥方・女人様がお住まいになるという「本館」なのかしら? でもそう思うとちょっと―― 。 「思ったよりも質素で驚いている様子だな。何、贅を尽くして飾り立てるだけが能じゃない」 心内を見透かされて赤くなっている暇もなく、狭い戸口から中へと招き入れられる。控えの間と分かるそこには、誰の姿もなかった。 「衣は自分で改められるな。よし、そこに座れ。髪は僕が整えてやろう」 そこで取り出された香油は、もうお馴染みになった匂い。どうしてこんな場面で出てくるのかなと思ったけど、あえて口にはしなかった。でも、こちらの考えていることは全部お見通しなのね。若様は口端を上げて笑いを堪えている。 「そんな顔をするな、これは南峰へ出向いた折りに暁高が八重に買った土産だ。どれがいいかとしつこく聞かれたから、覚えていたまでのこと。お前は何か、別のことを想像していたみたいだがな」 長い指が髪の間を滑り、全体にしっとりと豊潤な香りを染みこませていく。その後に櫛で丁寧にとかした仕上がりは、もう経験済み。これが本当に自分の髪なのか疑ってしまうくらい、艶やかに軽やかにまとまる。良かったなー、どんなに面倒でも諦めずに伸ばしていて。そう思ってしまう瞬間だ。 「ほら、動くな。少し遊んでみよう」 脇の一房を軽く結い上げて、小さな簪で留める。それとほぼ同時に、少し開いていた間口から先ほどの下男が顔を見せた。 「こちらで宜しいでしょうか、ちょうど咲き頃のものを選んでみました」 手渡された梅の花枝を若様は目を細めて見定めている。そして短い一方を私の髪に挿し、もうひとつの長いものを扇と共に手に持たせた。 「……こうして見ると、初めて会ったときとは別人のようだな」 何を思ってそう仰っているのだろう。気がつくと下男の姿は消え、元の通りにふたりきりで残されていた。 「そっ、……そうでしょうか」 軽く頭を揺らすと、辺りに梅の香が広がった。若様はやわら胸元から扇を取り出すと、口元に当て低くお笑いになる。 「だが、あのときの負けん気は忘れるんじゃないぞ。お前は何も出来ないのではない、知らなかっただけだ。全てを手に入れた今、怖いものなど何もないはず」 先にお立ちになると、ゆっくりこちらに手を差し伸べてくる。野歩きから改められたのは上に羽織る重ねだけ。深みのある群青が、変わらぬお美しさを一段と引き立たせていた。 「さあ、何があっても最後まで僕がついている。いざ出陣といくか」
◆◆◆
後ろには小高い山が控えていて、滝のように流れ落ちる常緑樹の枝が瑞々しい。中庭のしつらえも素晴らしいばかり。しっとりと奥ゆかしく、それでいて心をときめかせる華やぎがそこここへと散りばめられている。たいそうな趣味人がお住まいの場所だとすぐに分かった。 「おもてを上げなさい」 凛としたお声が部屋の隅々まで響き渡る。お人払いをしているのか、他に人の気配は感じられなかった。目利きの観客が大勢いたらどうしようかと不安になっていたのでホッと胸をなで下ろす。とはいえ、それも幾らかの緊張を解く手助けにもならなかった。 「まあ、……確かに美しい娘であること。でも外見の素晴らしさなど、年と共に色あせていくものですからね。やはり女子の器量は優れた教養を持つことに尽きます。して、わざわざ私を呼びつけたからには相応のものを見せてもらえるのでしょうね。―― では何から披露してくれますか」 一番奥の上座にいるその人と私との間には、幾らかの距離があった。でも、その堂々とした風格と鋭い眼差しはわずかに衣から出た肌に刺すように伝わってくる。白いものが混じる髪は年齢を重ねてもなお艶やかにお美しく、細い輪郭に縁取られた面差しは夏百合の如く涼やかであった。とても多くの成人した御孫様を持つ方とは思えない。 「……はっ、はい……」 すぐにお返事しなければならないのは分かっている。でもそうは思っても、あまりの緊張の中で思考の全てが止まっていた。どうしよう、何とお答えしよう。床に付いたままの指先が震え、次の言葉が出てこない。 「まずは舞からにしましょう。本日は他に人がいないので僕が笛をつとめても構いませんか、お祖母様」 どういうおつもりなのだろう、若様が女人様にそう申し上げる。対する御方は口元を奥ゆかしく扇で隠したまま、少し驚いたお顔になった。 「ま……まあ、宜しいでしょう。嬉しいこと、久方ぶりにお前の笛を聞けるなんて」 すぐに何事もなかったかのように取り繕われたが、やはり幾らかの動揺がお声に残る。対する若様はどこまでも落ち着き払ったご様子、懐から横笛を取り出すとこちらへ向き直る。 「さあ貴子、始めよう。大丈夫、いつも通りにすれば良いのだからね」 そうは言われても、すぐには無理よ。だってまだ、動悸が収まらないもの。どうにか梅の枝を添えた扇を手にしたものの未だ立ち姿も決まらないまま。
|