TopNovel玻璃の花籠・扉>花になる・21


…21…

「玻璃の花籠・新章〜鴻羽」

 

 伸びやかな笛の音に導かれ、すっと足が一歩前に出る。一呼吸の後に扇を静かに返せば、少し遅れて重ねの袖が花色を乗せてあとに続いた。
  その間合いの絶妙なこと、あらかじめ計算し尽くされているように完璧。決して動きを邪魔することなくどこまでも軽やかな素材なのに、まるで魂が宿っているみたいに私に従ってくれる。

  ひなびた枯れ野にようやく芽吹く若葉。その密やかな息吹にも似た旋律が、絶え間なく続いていく。私は必死に手を伸ばす、求めるその方向へと。かたちにならない想いは指先にかすることもなく、行き場のない想いと共に音もなく崩れ去っていく。それでもなお、希望は捨てることが出来ない。

「梅香の舞」を良く知らない頃に私が抱いていた印象は、儚くも美しい幻想の世界だった。およそ人のものとは思えない軽やかな足裁きが見る者を夢幻の世界へといざなっていく。そしてあとには何かが通り過ぎたような、おぼろげな余韻が残る。大衆にも広く知られている演目ではあるが、過去に幾度か目にしたものもただ綺麗だなと感じる程度だった。
  でも違う、この舞には実は他にないほどの激しい恋情がほとばしっている。あまりに滾らせてしまったために表に出すことが出来なくなった想いが、舞手の指先足先からほんのり匂う程に流れ出す。無理に押しとどめようとすればするほど激しさを増し、ついには己自身をも焼き尽くしていく。とても深く、そして暗い。それなのに、作り出される世界だけがたとえようのない程に美しいのだ。

 物事は知れば知るほど、その深みにはまりゆくことになる。気付かずに通り過ぎてしまえばそれきりであっても、一度追求を始めれば限りない道程の中に途方もない時間を費やすことにもなりうるのだ。その覚悟があるか否か、人としての器量はそこで決まる。

 私はまだ、壮大な世界の入り口に辿り着いたところ。でもここに至るまでにも、若様を始めあまたの人たちの手を借りなければならなかった。そしてこの先。今度は一体どこまで行けばいいと言うの? 夢は消えても、胸を燃やす想いは残る。この炎を跡形もなく消し去る方法をもしも見つけられるとすれば、私は平穏を取り戻すことが出来るのだろうか。

 不意に笛の音が止み、ハッと我に返る。その瞬間まで、私は自分がどこにいるのかをすっかり忘れていた。息が上がり、胸が苦しい。いつの間にか一曲を終えていたのだろうか。

 続く琴の演奏は、張り詰めた緊張感が幸いして滞りなく終えることが出来た。まあそれも、私の中では最良の出来という程度ではあるが。何しろ、踊りに比べればまあモノになっていたとは言え、どちらもほとんど付け焼き刃。それなりの目のある人から見れば、すぐにぼろが出てしまうだろう。
  だけど、それでも。今自分に出来る精一杯をお見せする他にはない。私が若様に出来る恩返しとしたらその程度だ。ここまで導いて下さったことに、心から感謝申し上げたい。だって私の様な庶民が畏れ多くも女人様と対面させていただくなんて、どんなに望んだところで叶うことはないもの。
  結果がどうとか、そんなことは関係ない。ただ有り難いだけ。御領主様の御館でお仕えするなんてとても無理だし、だけどきっとこの先の人生を送る上での素晴らしい思い出にはなると思うのね。

 ―― だから……。

 

 最後の一音を静かに終えて、ちりと胸が痛む。休む間もなく続け様に行ったことで、身体はバラバラになりそう。頭の中もとっくに限界を超えて、ぼんやりと霞んできている。ああとうとう終わっちゃったんだな、とか。そんなこと考えてた。

「如何でしたか、お祖母様」

 若様は一段上にいる女人様に、にこやかに話しかける。その瞬間、おふたりと私との間に見えない線が引かれていった。これが現実ってものなんだな。先ほどまでは必死すぎて気付かなかったけど、ここもかなり立派な造りね。磨き込まれた床や柱の美しいこと、欄間に施された文様の素晴らしいこと。そして……この場所は私にとっては限りなく不似合いだ。

「ま、……まあ。如何でしたか、なんて……」

 女人様は他の何よりも若様の眼差しに戸惑っていらっしゃるご様子。このお部屋に入ったときからずっと感じている当惑の色はまだその瞳から消えていない。
  それにしても怖かったな。女人様は私が踊りや琴の演奏を披露している間、ずっと真顔で見つめていらっしゃるのだもの。なまじ整ったお顔立ちなだけに、鬼気迫るものを感じたわ。ここにお仕えする侍女の方々はみんなこの審査を経験してきたなんて、それだけで尊敬しちゃう。ちょっとでも気を抜くと、たちどころに精気を吸い取られる思いだったわ。

 今もまた扇を口元に当てて、一体何と仰るおつもりなんだろう。うう、お願いだからその目で見つめないで。

「残念ながらこの腕前では一流とは言い難いですね。一通り危なげなくこなしていますけど、まだまだ修正しなくてはならない箇所だらけです。しかし、……まあ。お前がどうしてもと言うならば、致し方ないでしょう。これからが大変ですよ、私も先の短い老体にむち打つことになりそうですね」

 短い吐息を残して、女人様が立ち上がる。すると今までどこに控えていたのか、数名の侍女が音もなく現れた。その者たちに付き添われて静かに退出なさる。その一部始終が流れるように執り行われ、まるで絵巻物の一幕であるかのように美しかった。

「貴子」

 どこからか、若様のお声が聞こえる。でも私にはそのお姿を探すだけの気力も残っていなかった。

「さあ、僕たちも下がろう。……貴子?」

 一体、どうしたというのだろう。目の前が眩しすぎて何も見えない。絞りだそうとした声も喉の奥で詰まって、そのまま何も分からなくなった。

 

◆◆◆


 その後、どれくらいの時間が経ったのか。

 何かに呼び起こされたように瞼を開けたとき、辺りはすでに闇に包まれていた。一瞬は自室のしとねに横になっているのかなと考えたのだが、何だか勝手が違う。ハッとして身を起こすと、すぐ背後で人の気配を感じた。

「ようやく気がついたか。よくもまあ、そんなにゆっくりと眠っていられるものだ」

 振り向いたすぐそこにあった几帳の端を少しめくると、その向こうに文机に座る背中が見えた。私の視線に気付いたのだろう、彼はゆっくりとこちらに向き直る。すっかりと寝装束に改められ髪も解き、そのしどけないご様子といったら目に余るばかりだ。しかも燭台が照らし出す飴色の輝きの中で、そのお姿はさらに美しく見える。

「その……ここは一体……?」

 ついさっきまでは「奥の間」と呼ばれる部屋にいたはずだ。いや違うか、もう外は夜だもの。気が遠くなって、あのまま日が落ちるまでずっと眠りこけていたの? ちょっと待ってよ。それって、みっともないにも程がある。

「まさか他に運び出すわけにもいかないだろ? 安心しろよ、ここは本館の一角ではあるけれど僕専用の対だから。呼ばなければ誰も来ないし、気楽なものだよ」

 さらにもう寝の刻を過ぎた頃だと言われ、驚きのあまり腰が抜けそうになる。ということは……そういうこと? 昨夜からの丸一日のうちに我が身に起こった物事の大きさに信じられない心地になる。うわっ、でも。これって、やばくない……!?

「そ、そそそ、そのっ。あのっ、私どこか他に行きますからっ……!」

 慌てて身支度を整えようにも、こちらもすっかりと寝装束だし。でもでも、これは絶対にまずい。だって、若様の寝所に私がいるなんて絶対に変だわ。何か、こう言うのって……。
  まさかこちらに泊まることになるとは思ってなかったもの、着の身着のままで来ちゃって何の支度もない。だいたい、今身につけている寝着だって見たこともないものよ? これ一体どこから出てきたの、本当にとんでもない感じよ。

「えー、別に構わないよ。君はこれからここで暮らすんだし。他に行くったって、今から新たに部屋を準備するのも大変だろ? 何考えてるの、使用人だって夜警の者以外ほとんどが休んでいるのに迷惑だよ」

 どこかに羽織るものはないかと慌てふためく私に対して、痛恨の一撃。色んな意味でぎょっとしたわよ、だからその気持ちをべったり貼り付けているであろう顔で振り向いてた。

「……え、ちょっと待って下さいっ! 今、何て……」

 ここで暮らすって、その……私って若様付の侍女になるの? そんなの嘘だよ、有り得ないよ。

 まあ、昼間の女人様のお言葉からも一応の評価がいただけたことが分かった。だけど、それとこれとは別だわ。どうしてよりによって。広い御館だもの、他にもいくらでも仕事があるでしょう。嫌よ嫌、これ以上お近くにいるのは。

「うーん、でも君もお祖母様のお言葉を聞いただろう? いろいろ難癖は付けられていたけど、結果としてお許しが出たんだからいいじゃない。まあこれからが大変だろうけどね、それは最初から覚悟の上だろ。約束したじゃないか、暁高を助けようって。とりあえずは目標を達成できたってわけだ。もう知らせも送ってあるしね、明日には暁高と八重も戻ってくるはずだよ」

 私の戸惑いなんて、全然伝わっていないんだろうな。どこまでも涼しげな口調で、若様は淡々と事実を並べていく。

 ……目標達成って。そりゃ、そう言うことになるのかも知れないけど……。

「いっ、いえっ! でも、いけませんよ。こう言うのって、公私混合というか何というか……ようするに」

 この人ってもしかして、いやもしかしなくても、私のことおちょくってるのっ!? だっ、だって、もしもだよ。もしも新しい生活が始まるにしても、こういうのって絶対に良くない。と言うか、若様は私の立場を分かっていらっしゃらないでしょう。こっちは田舎から出てきたぺーぺーの新入りなんだよ? いきなり特別待遇とかされちゃったら……他の皆様からどんな目で見られるか。

「何、慌ててるの? 僕たちはそんなよそよそしい間柄じゃないはずだよ」

 わーっ、だから来ないでっ! どうしてあっという間にしとねの上まで乗り込んでくるのっ!? 違うから、こんなのっ。絶対に駄目だからっ……!

「こっ、困りますっ! そのっ、そう言うことでしたら他に誰か探して下さいっ! ……私、そういうんじゃ……」

 まさか、この先は八重様の代わりをしろとか仰るんじゃないでしょうねっ!? ……いや、ちょっと待て。八重様って、実は暁高兄上と恋仲だったのよね。だったら、あの一連の思わせぶりな話って何だったのっ。あー、もうっ、訳わからない……!

「ふうん、そういうんじゃないなら、どういうのなの? 昨日はあんなに上手に出来たのに、今日はどうしちゃったのかなあ……」

 あー、だから髪っ! 髪をたぐり寄せないで。そんなことしたら逃げられなくなるでしょっ! というかこの部屋もう行き止まり。私、どこに行ったらいいのっ!

「や、やめてください! 本当、困るんです。こう言うの……!」

 このまま行くと完全に流されちゃいそうだったしね、昨日はそれでもいいかとか思ったけどそれは一度きりのことだと思ってたからだわ。いくら主従関係にあるからって、言われるがままに従わなくちゃならないってちょっと違うと思うの。世間一般的にはそれで通るのかもだけど、私個人としては絶対に受け入れられない。

 その後、しばしの沈黙が流れた。

 逃げる道がない私は、突き当たりの壁に蝉のように貼り付いている。だってだって、振り返れば目の前には若様がいらっしゃるのだ。隙をついて逃げるなんて多分無理。それに、この場をどうにかすり抜けたところで右も左も分からない御館でどうしようもないでしょう。だったらもう、ここは言葉と態度で説得する他にないと思ったのね。

「あのさ」

 ややあって、若様の方が口を開く。ちょっと揉み合ったから、ふたりの衣はしどけなくはだけて大変なことになってるけど、それでも落ち着いた口調だ。

「君は何か勘違いしてない? 僕たちのことはこの家で最強のお祖母様がお認めになったことなんだよ。今更覆すことは出来ないと思うけどなあ……そんなことしたら、それこそ御家取りつぶしじゃ済まないほど大変なことになるよ。お祖母様、恥をかかされるのが何よりお嫌いだから」

 私は壁に貼り付いたままだったから、首だけで振り返る。何か信じられないことを言ってるよ、この人。どういうこと、向かうところ敵なしの女人様は御孫様が手を付ける侍女まで自らでお選びになるの?

「……そっ、そんな風に脅したって……」

 何なの、やっぱり若様は私のことをからかっているんでしょう? 人の気も知らないで、ひどすぎる。私だってね、ちょっといい思いをしたいとかそう言うんだったら構わないわ。でも、そこに気持ちが入っちゃったらもう駄目なの。

「この期に及んで拒むこともないだろ? 何粋がってるんだよ、いい加減にしろ」

 にわかに声色が変わった。何というか、凄んだ感じ? 若様は壁に貼り付いていた私の片方の腕を掴むと強引にご自分の方へと引き寄せた。

「人がせっかく玉の輿に乗せてやったのに、文句言う奴があるか。馬鹿な奴だとは思っていたが、まさかこれほどだったとはね」

 握りしめられた腕がぎりっと音を立てた。普通の神経だったら、大声を上げていたであろう痛み。だけどその上を行く驚きに、私は囚われていた。

「……玉の輿……って? ええと、どなたの?」

 何だか話がおかしいと言うことに、ようやく気付いた。お互いの思考が微妙に食い違っている。これじゃあ、いつまで経っても平行線だ。
  私の方があまりに真顔に聞き返したからだろう、今度は若様の方が目をそらしてしまう。小さく舌打ちの音が聞こえて、そのあと聞こえないほど小さな声で呟いた。

「この部屋に、他に誰がいるんだよ」

 その瞬間、大声で叫ばなかった自分を誉めてあげたいと思う。本当に、寸前のところまで出たのを必死で飲み込んだ。だけどそうしたら今度は全身に震えが来て、もう何が何だか。どうにもならない感じ。

「な、……ななな、そんなって……ないし、有り得ないしっ……!」

 玉の輿って言ったわよね? それって、ただのお手つき侍女には使わないはず。まあ、側女とか……そういうのだったらあり得るけど。今の常識から言うとそう言うのもちょっと違う。時代は進歩しているんだから。

「有り得ないも何も、お祖母様がお認めになったんだから。言ったろ? ここまで話を持っていくのは大変だったって。文を介してじゃどうしても駄目で、仕方なく直談判に向かった間にお前がとんでもないことしでかしそうになるし。よく考えてみろ、回りくどいことをするよりも一番近道の方法じゃないか」

 もしかして、あれって侍女に上がるための審査じゃなかったんですか。ええっ、そんなのアリ?

「事前に全てを話したら、君はあまりのことにすくみ上がってしまっただろう。そんな状態じゃ、稽古の成果が出せるわけもないからな」

 ……ええと、だからつまり……。あの女人様の眼差しの鋭さって、私を一族に迎え入れるか否か推し量るためのものだったのっ!? まあ、そう言われれば納得できるわ。あの雰囲気、どう見ても異様だったもの。正直、取って喰われるかと思ったわよ。

「よくよく考えてみたならな、貴子が僕の妻になれば全ては丸く収まるってことだ。そうだろ?」

 そこでにっこりと微笑まれるのは絶対に反則だと思う。そのお顔に私が弱いって、骨抜きになっちゃうって分かっていらっしゃるんでしょう? うう、このままだと陥落しちゃう。そうしたい気持ちはやまやまなんだけどっ、でも駄目よ。

「だっ、だってっ! 私と若様じゃ、身分が違いすぎますっ。そんなの、絶対に皆が納得しませんよ……!」

 そうよ、そもそもお顔を直に拝見することだって畏れ多いお相手なんでしょう? こうして面と向かってお話しすることも有り得ないし、その、正式なお相手なんてどう考えても無理。いくら馬鹿だ馬鹿だ言われてる私だって、ものの道理はちゃんとわきまえているんだから……! お戯れで仰ってるなら、もうこの辺で止めて。これ以上、私をずたぼろにしないで欲しい。

「うーん、でもお祖母様がそれでいいと仰るなら他の誰も文句は言えないよ。君、かなり気に入られたみたいだな。先年に中の姉君が嫁いでから稽古をつける相手がいないってたいそう嘆いていらっしゃったから、いいお相手になるだろう。ふふ、存分にしごいてもらえるぞ。その上、八重も加われば最強だ。僕はもう師匠の役目を終えても平気だな」

 そんな風に仰いながら、若様は私の背中に手を回してあっという間に抱き寄せてしまう。

「じゃあ、これからは夫として。存分に楽しませてもらうことにしようか」

 耳元に妖しげな言葉を囁いて、片方の手のひらが私の顎を捉える。ああ、駄目。このままだと、また完全に若様に主導権が移ってしまう。そんなの駄目、何か一番大切なことがすっぽりと抜けているようなきがするもの。

「ま……、待って下さいっ。若様……」

 溺れそうになる意識の狭間で、必死に訴えた。この状況で止まるのも苦しいけど、だけどね。

「私、全然納得してません。何で、私が若様のお相手になるんですかっ。他にも、……そのっ、八重様が無理でも他にもたくさんいらっしゃるでしょう……? その中からお選びになった方が絶対にいいですよ。皆も納得すると思いますし……」

 腰紐が緩んで、胸元から手のひらが差し込まれる。私の「待った」なんて全然聞いて下さらない。だけど、頑張らなくちゃ。だって、私はまだ若様のお気持ちが全く分かってないもの。こんな風に流されちゃ、駄目だと思う。

「うーん、そう言われればそうなんだけど」

 目の前に剥き出しの胸元。何とも目のやり場に困る感じだ。

「何か、貴子といると面白いんだよな。他の女子って、綺麗なばかりで物足りないって言うか……皆、普通すぎてつまらないんだ。君はいろいろ足りない部分も多いけど驚くほど適応力があるし、八重みたいな気難しい相手でもすぐにうち解けるしね。そうやって考えているうちに、これ以上の相手はいないと思うようになったんだ」

 それって、全然誉めてないでしょう? まあ、両手放しで賞賛してくれるとは思ってないけどっ、……でも決定打が「面白い」とか絶対に間違っていると思う。

「それにな」

 どうして今、こんなことを話さなくてはならないのかと言わんばかりの投げやりな口調。滑らかな手のひらはこの瞬間も私の衣の内側を辿っている。

「僕の兄妹もいろいろと訳ありなんだよな。ひとことでは説明するのが難しいけど、まあ何というか……もう少しどうにかならないかといつも思っていたんだ。そんなこといくら考えたって無理だと諦めかけていたのだが、君の助けを借りたらどうにかなりそうな気がしてきたよ」

 何だか上手くはぐらかされた気がする。仰る言葉の意味がよく分からないもの、他の誰にでも出来ることなら今すぐここで降りさせていただきたい。でも……それもやっぱり、もったいないかなとも思っちゃう。この気持ち、どうにも言葉では言い表せないわ。

「ほら、そんな風にむくれるな」

 また、その笑顔。この方、絶対に分かっていらっしゃるよな。

「他の男にかすめ取られると思ったときには我を忘れた。あれだけ真剣に手綱を握ったのは初めてだ。それが……答えにならないかな。それこそ、山の頂に咲く禁断の花を求める心地だったよ」

 耳たぶに額に、頬に首筋に。次々と花びらが舞い降りる。湿り気を含んだ熱が胸元に辿り着いたとき、私は細い叫び声を上げていた。

 

「まだ、お前の返事を聞いてないな。どうなんだ、貴子」

 もう片方の頂はじらすように指の腹でさすられる。そんな状態で訊ねられても、答えなんて考えられない。だけど、……多分私の気持ちはだいぶ前から決まっていたような気もする。
  もちろん全てが丸く収まった訳じゃないし、あれこれ問題も残っている気がするけど……そこはおいおい考えていけばいいかな、とか。ああ、そろそろ限界。これ以上は難しいこと、考えられない。

「答えぬか、ならばもっとひどくするぞ」

 底意地の悪い言葉が快感に思えてくるんだから、もう末期症状。だけど、それでもいいかなとちょっと思う。私はきっと、まだまだ綺麗になる。心も体も磨き込まれて、いつかどこにも代わりの見つからないただひとつの花になるんだ。

「……貴子……」

 その囁きが私を惑わす。そしてまた、夢の世界へ。

了(080509)
あとがきはこちらから >>

 

<< 戻る    番外編・1へ >>


TopNovel玻璃の花籠・扉>花になる・21


感想はこちら >>  メールフォーム * ひとことフォーム