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「花になる・番外〜八重」

 

 広いお屋敷であるから、敷地外れまでのお使いにはかなりの暇が取られる。
 ようやく用事を終えて帰途につく頃には、日がだいぶ傾いていた。のんびりしてはいられない、夕刻になればいくつものお務めが新たに控えているのだから。
  秋の花々の咲き乱れるお庭を急ぎ進んでいく。日の中はまだ汗ばむほどの陽気であるが、それでも朝夕はだいぶしのぎやすくなっていた。ぎりぎり地に着かない長さ、くるぶしのあたりまで伸ばした髪も、爽やかな秋風に軽やかに揺れている。
  おろしたての鶸の重ねからくすんだ松葉色の薄物を覗かせ、さらに金色の差し色を入れてみた。その装いが主である女人様のお目にとまり、今朝は格別のお褒めの言葉をいただいた。そのことで、今日は一日とても気分が良い。だから面倒な用事であっても快く引き受けることができた。
  ようやく本館の近くまで戻ってくると、水場には幾人もの女子がたむろっている。それを見た八重(やえ)は、すっと眉をひそめた。
  ――また、こんなところで暇つぶし? 手元を動かすこともせずにおしゃべりに興じているなんて、見苦しいにも程があるわ。
  もちろん、そのようなことは胸の中で呟くにとどめ、決して表には出さない。それに、あの者たちと自分とでは置かれた立場がまったく違う。思いあまって注意しても、煙たがられるのがオチだ。
  背筋をピンと伸ばし素知らぬふりで通り過ぎようとしたのであるが、今日に限って顔見知りのひとりに呼び止められてしまった。
「まあ、八重様。ちょうど良いところにお出でになったわ」
  嬉しそうに微笑みかけられても、こちらはなんのことやらさっぱりわからない。それどころか急ぎの足を止められて、煩わしいばかりだ。
「また、あの方が女人様のお部屋に呼ばれたの。いったいどのようなご用なのかしら」
「……あのお方?」
  にわかにはなんの話なのかもわからず、こちらは途方に暮れてしまう。
「そうそう、春先に西の方の集落からこちらに上がった方よ。最初は下働きの扱いだったのに、いつの間にか御館への出入りを許されるなんて、もうびっくり。しかも毎回、女人様直々のお召しなのよ」
「あの気むずかしい御方がどういう風の吹き回しかと、今や屋敷じゅうの噂の的よ。ねえねえ、八重様ならいろいろとご存じなのでしょう?」
  矢継ぎ早に飛んでくる声をかろうじて受け止めているうちに、やっと話の概要が見えてきた。しかし、だからといって話の輪に加わる気にもなれない。
「さあ、わたくしも詳しいことはなにも。女人様からも、直接話をうかがったことはありませんし」
  噂話とは恐ろしいもので、瞬く間に方々へと広まってしまう。しかも行く先々で尾ひれ背びれをつけて、始めとはまったく違う内容に変わっていたりするのだから、ついうっかりと口を滑らせるのは危険だ。館仕えの身としては、極力口を慎むことが最大の処世術である。
「えーっ、またそのように仰って」
「八重様がお話くださらないと、ますます謎が深まるばかりだわ」
  ――もう、なんとでも仰い。それよりも、早いところその洗い物を片付けた方が良いのでは?
「わたくしは先を急ぎますので、これで失礼します」
  皆に気づかれぬように小さく溜め息を落とし、八重はさっときびすを返した。
「そのようにつれなくなさらないで、なにかお話して欲しいわ」
「私たち、八重様だけが頼りなのに」
  自分を見つめる者たちの顔には一様に落胆の色が浮かんだが、それをいちいち気にしていても始まらない。あとでなんと陰口を叩かれようと、こちらの知ったことではなかった。
  まったく、煩わしいばかりである。
  狭い世界であるから、あのように目新しい噂話に食いつきたくなる気持ちもわからないではない。だが、興味本位でその中に身を投じてしまえば、自分をつまらない人間に貶めてしまう結果となる。それは八重にとって、決してあってはならないことであった。

 ようやく追及の手を逃れて、ホッと一息。館の裏手に到着した八重は上がり口で草履を脱ぐと、外歩き仕様の装束を手早く改めた。姿見で全身を確かめることはできないが、そう見苦しくはないだろう。
  女人様はなによりも時間にお厳しい。お約束の刻限に遅れたりしたら、たちどころにご機嫌を損ねてしまう。少しぐらい衣が乱れているくらい、それに比べたら些細なことだ。
「八重です、ただいま戻りました」 
  板戸の外から声をかけると、すぐに中から返事が戻ってきた。
「お入りなさい」
  座したままで板戸の取っ手に手をかけ、音を立てないように注意してそろそろと開く。身体の半分くらいまで開けたらもう一方の手に持ち替え、さらに開いていく。その上で部屋の中の御方に礼を尽くすべく、深く頭を垂れた。
「ご苦労でしたね、八重。あちらはお変わりありませんでしたか?」
「はい、お返事の文を預かって参りました。こちらです」
  そうお答えしつつ顔を上げたところで、八重はこの部屋に女人様以外の人物がいることに気づいた。もちろん高貴な御方であるのだからお付きの侍女がお側に控えているのは当然であるが、彼女の目に止まったのはその者たちの姿ではない。
  部屋の隅に所在なさそうに控えるのは、およそこの場にふさわしくない粗末な衣服に身を包んだ男だった。その者が先ほど水場の女子たちが噂していた当人であることがすぐにわかる。幾度かここに出入りしていることは知っていたが、こうして鉢合わせしたのは初めてのことであった。
「ああ、そう言えば。まだあなたには、この者を紹介していませんでしたね」
  女人様はにこやかに微笑まれて、その者の方へと振り向いた。
「こちら、川中の村から出仕してきている者で、名は暁高(アキタカ)。実家は河行商で財をなした一族だそうですよ。あのような場末の出身とは思えぬほどに才があるとの噂を聞きつけ、特別に館入りを許すことにしました」
  八重はその話を神妙な面持ちで聞いていたが、内心ではとても信じられない心地でいた。
  女人様は人一倍気位が高く、また身分階級にとてもうるさい御方でもある。川行商を生業としている一族といえば、本来ならば御館への出仕も許される立場ではない。ましてや本館への出入りを許されるなど、まったく前例のないことだ。
  いったい、あの者はどのような手を使って女人様に取り入ったのだろうか。見るからに純朴そうな面持ちであるが、実はかなりの切れ者なのかも知れない。
「……どうしました、八重」
「あ、いえ。なんでもございません」
  こちらの心内を見透かされたような気持ちになり、八重は慌ててその場を取り繕った。
「そう、ならば宜しいのですけど」
  そこで女人様がすっと後ろに視線を向けると、そこに座していた年配の侍女のひとりが行李を手に前に進み出た。
「館入りを許すとなれば、相応の衣が必要になりましょう。そこで、本日はこの者に幾枚か見立ててやろうと思いましてね、こうしてわざわざ呼び寄せたわけです」
  その言葉に、八重はふたたび自分の耳を疑っていた。
  地方出の下働きに女人様自らがこのような施しをなさるとは、到底あり得ないことだ。いったい、これはなんとしたことであろう。
「そうそう、せっかく居合わせたのですから八重の意見も聞きましょう。あなたはこの屋敷に仕える者たちの中でもかなりの目利きですからね。一緒に選んでもらえると、とても心強いですよ」
「は、はあ……」
  さて、困った。
  八重は心の中でそう呟いていた。どんな感情も胸の内にとどめて決して表には出さぬよう、日頃から訓練に訓練を重ねている。そうでなかったら、一癖も二癖もあるような輩たちばかりが大勢ひしめき合う世界で生き残っていくことはできない。
  だから、ただいまも胸に浮かんだ感情をこの部屋にいる誰にも悟られずにいるはずだ。だが、困惑した気持ちを立て直すのは難しい。できればすぐにでもおいとまを申し上げたいところであるが、その先手を打って女人様に引き留められてしまった。
「この者は館では新参者ですし、あまり目立っても良くないと思い、あえて何度も水通しをした古着を用意してみました。でもどれも品物は良いのですよ。ほら、こちらの藍の衣など、なかなか趣があるでしょう」
  女人様は得意げに仰いながら、行李から次々と衣を出して並べていく。館入りを許される者は男子では侍従職以上と決まっている。その役職に就けるのは、しっかりした実家がある者に限定されていた。もちろん過去に例外がなかった訳ではないが、ここまでの扱いは本当に珍しいことである。
  見たこともないきらびやかな衣装に度肝を抜かれているのか、場違いな下男は身の置き場もなく、可哀想なくらい小さくなっていた。
  それからしばらくの間は、女人様の見立てに黙って聞き入っていた。もともとが話し好きの御方なのである、だから聞き役に徹すればたいていの場面は切り抜けることができる。
「どうでしょう、私としてはこちらの二枚が良く似合うのではないかと思いますが。八重、あなたの意見はどうですか?」
  いきなり話を振られ、八重はハッと我に返った。
「さ、左様でございますね。わたくしもそちらが宜しいのではと思います」
  とりあえずはそうお答えしたものの、そこに自分の考えなどなかった。部屋の隅にいる不届き者の存在ばかりが気になり、そこまでの話もほとんど耳に入っていなかったのである。
「そう、では直接当ててみましょうか。……ほら、暁高。そのように隅にいないで、もっとこちらにお出でなさい」
  女人様に促されて、男はおずおずと進み出た。そして、それまで俯いたままでよく見えなかった面差しがようやく八重の目の前に現れた。
「さあ、それではこの藍の衣から。ああ、いいわね。顔色にとても良く映えること」
  そのお声も、今は頭上をすり抜けていくばかりである。
  なんという涼しげな目元であろう。田舎者だからと馬鹿にして掛かっていたが、その立ち姿はなかなかに堂々として衣次第では都よりの官人かと見まがうほどであった。上背もかなりある。八重自身も女子の中では長身の部類にはいるが、それでも思わず見上げてしまうくらい高い場所に男の顔があった。
「……ですね、八重」
  また、心がどこかに飛んでいたらしい。女人様のお声が耳に届き、八重はハッとそちらを振り向いた。
「どうしました、今の話を聞いていなかったのですか」
  こちらとしてもいつにない狼狽ぶりなのである、女人様が呆れるのも無理はない。
「も、申し訳ございません」
「いいわ、今日はもう下がりなさい。いろいろ用事を頼んだので疲れたのでしょう」
  八重はその御言葉を有り難く受け取り、恐縮しつつ部屋をあとにした。しかし、胸に留まった正体のわからぬ塊は、その後もなかなか消えることはなかった。

 

つづく(111007)

    

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