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…2…

「花になる・番外〜八重」

 

 その男は、遠目でもすぐに確認することができる。
  格好ばかりを整えてみても、生まれ育ちを隠すことはやはり難しいのだろうか。いつでも身体と心が釣り合っていないような不安定さが全身から滲み出ている。
  いきなり女人様に目をかけられたことで、彼の屋敷内での立場もひどく微妙なものになっていた。
  かの御方もまったく罪なことをなさったものである。確かな後ろ盾もない者がいきなり分不相応に取り立てられれば、否応でも悪目立ちしてしまう。同じ下働きの立場にあった者からは厄介者扱いされ、その一方で以前より侍従職に就いていた者たちからは蔑みと中傷の矢面に立たされる。
  もともと大人しいたちであったようだが、今では仲のいい相手もなく、女人様のお召しがある以外はぽつんとひとりでいるのが常であった。
「もしや、あの男は女人様に情夫として囲われているのではないか」――そのような噂までがまことしやかに囁かれるほどである。
  まさかすでに老齢という御年を迎えられた御方が立場もわきまえずに色香に走るとは考えにくいが、夫君である元の御領主様の長年に渡る振る舞いへの仕返しだという意見もあった。
  とにかく元御領主様は館に使える女子たちはもちろん、近隣の村々の者たちにも次々に手をつけ、女人様はそれらの後始末に常日頃から頭を悩ませていたと聞く。
  しかし、だからといって――
  口さがない者たちの言動にはどうにも頷くことができないが、それでも八重自身、あの男に対する不信感はぬぐい去れなかった。
  八重は「大山」と呼ばれる集落の村長の家に生まれた。その地は、この「火の一族」の領地の中でもとくに豊かな土地であり、従ってかなりの権力を保持している。
  今の御領主様が都より戻られたのを機に、八重は母親と共に御領主様の御館に上がることとなった。有力者の子女が高貴な御館に出仕する例は多くあるが、八重の場合は単なる労働力として召されたわけではない。そこには大山の村長である八重の父の腹づもりがあったのだ。
  八重の実家に生まれた女子は代々、御領主様やそのご子息の元に嫁ぐべく育てられた。そして八重もまた例外ではない。今の御領主様には三人の男子があり、そのうち跡目に決まった御次男と今ひとり御三男のおふたりのどちらかに嫁ぐことを実家より熱望されていた。
  そのために必要な教養を余すことなく身につけ、また御領主一族の影の支配者と呼ばれる女人様からもたいへんに気に入られている。近頃では年齢がちょうど釣り合うこともあり、御三男の鴻羽(コウウ)様のお相手の最有力候補とまで言われるようになっていた。
  まだ具体的に話が進んでいるわけではないが、周囲の目も八重をそのように見ている。鴻羽様は御父上の御領主様に似て見目麗しく、学問にも武術にも、さらに雅楽までに秀でた類い希な御方であった。夫君としてこれ以上の存在はおいそれと見つからないであろう。
  若様とはすでに気心の知れた仲でもあり、いつ男女の関係になろうともお互いに受け入れることができそうだ。今年の春に裳着を迎え、そろそろ半年。正式にお声が掛かるのも、もう間もないのではないか。
  ――しかしながら、である。
  八重は周囲の皆が言うほどには、自分の身の上を幸福とは感じていなかった。御領主様のご子息の妻、しかも正妻ともなれば、堅苦しい立場に一生自分を縛り付けられることになる。名声を得る代わりに失うものの多さは計り知れないものがあった。常に誰かに監視され、自由を得ることもままならないであろう。
  それが生まれ落ちたときからすでに自分の前に作られていた唯一の道であると知っていても、八重は息苦しい物思いから解放されることはなかった。 
  女人様の自分に対するご執心が、ひところに比べるとだいぶ薄くなったように思う。その理由があの噂の渦中にある男にあることは明かであった。そして、この悔しさと清々しさの複雑に絡み合った心地をどう表現したら良いものか。それがわからず途方に暮れているのも、また八重自身なのであった。
  ――あの者が、真に幸せであるはずもない。
  領地内の各所から出仕する者たちは、半年か一年の任期を終えれば元どおりに里に戻るのが通例である。だが、あの男はそうはならないであろうと誰もが考えていた。
  まず、女人様がお手放しになるはずがない。近頃ではことあるごとに、ひどいと日に何度も呼びつけては話し相手をさせたり、書の代筆を頼んだりしているらしいのだ。確かにあの者はハッとするほどの達筆であり、その書き文字はただ整っているだけではなく、底知れぬ暖かみが感じられる独特のものである。
  もしも彼がしたためた文を受け取れば、どんな堅物であってもたちどころに心を許してしまうであろう。
  書き文字にはどんなに隠し立てをしたとしても、当人の人となりが色濃く表れるとされている。ならばあの男は、見た目どおりに純朴で柔らかな心根を持っているのだろうか。あざとく人の弱みにつけ込むような周到さなど、微塵もないのではあるまいか。……いや、しかし。
  初めは遠目にかろうじてその姿をうかがえるだけの距離があったが、それから八重がどんどん側に寄っても、まだその者は同じ場所にしゃがみ込んでいた。
  あまりにも長いこと動かないので、気分でも悪いのかと思ったほどである。しかしそうではなかった、彼は刈り取られた花の残骸の中から、未だ枯れていないものをひとつずつ丁寧に摘み取っていた。
「いったい、なにをしているの?」
  前触れもなく背後から声をかけたのは、八重の心にいくらかの意地の悪さがあったからかも知れない。とたんに男は驚き、その拍子に手にしていた花をすべて放り出していた。
「……あ、これは! そのっ、申し訳ございません……!」
  彼はみっともなく取り散らかしたそれらを、慌てて拾い集めている。その必死さといったら滑稽なほどであったが、八重はその姿を笑う気にはなれなかった。
  屋敷の西外れに広がる群青色の花園。向こうが見えないほどの玻璃の花が風に揺れ波のように揺れる様は、蒸し暑い夏の季節にひとときの清涼感を与えてくれる。だが、今はもう秋。すでに刈り取られた花は大きな束にされて積み重なっていた。
  八重は自分の足下に落ちた花をいくつか拾い上げ、男に差し出す。
「こんなもの、集めたところでどうにもならないと思うけど」
  男はひどく驚いた様子で、数歩後ずさりした。
「あ、ありがとうございます……!」
  まるで今にも地に額を押しつけひれ伏しそうな勢いである。これには八重も失笑するしかなかった。
「そのようにかしこまることもないでしょう。あなたも私も立場は似たようなもの、同じ使用人なのだから」
  軽い調子でそう告げてみたが、男はなおも頭を垂れるばかり。衣装だけは上等なものを与えられているだけに、どうにも態度と釣り合わない。
「いえっ、そのようなわけにはいきません。あなた様と自分では何もかもが違いすぎます」
  何故ここまでへりくだる必要があるのだろう。
  有り難くも、この屋敷の女人様に認められた身ではないか。もっと堂々としていればいいのに。
  この世の中には、思いがけない出世をしたことでいきなり自分自身までが立派になってしまったように我が物顔に振る舞い始める馬鹿者がいくらでもいる。この者の身の上ならば、そうなっても当然ではないか。
  女人様に上手く取り入ることができれば、その後はやり方次第でいくらでも道が拓けてくる。それがわかっているから、本館の周りには自分を売り込もうと躍起になる使用人たちが始終うろつき、機会をうかがっていた。中には他の者の足を引っ張ってでも、自らが上によじ登ろうとする不埒な輩もいる。
  九つの歳にこの館に上がって早四年、さまざまな人間模様を目の当たりにしてきた八重はすでに、たいていのことはやり過ごすことができるようになっていた。しかしそんな彼女も、今目の前にいる度を過ぎた臆病者には驚きを隠せない。
「せっかく綺麗にまとめてあるのに、あちらこちらから引っ張り出していては駄目でしょう。そんなことをしていたら、束が緩んで崩れてしまうわ」
  ひとつふたつならまだしも、抜き出す数が多くなればきっちり巻いた束が歪んでしまう。それではいざ運び出す段階になって、困ったことになりかねない。
「で、でもっ……まだこんなに美しく咲いているのに、あまりに可哀想です。どうしてこんなひどいことを……」
  男はまるで自分自身が刈り取られたかのように惨めにうなだれている。これには八重も呆れてしまった。
「なにを言うの、いつまでもそのまま咲かせておいては来年の花色が悪くなってしまうでしょう。きちんと土を掘り起こして休めないと見事な花は咲かないのよ」
  どうしてそのようなことも知らないのだろう、少し考えればわかりそうなものを。
  だが、強くそう言い切ってしまうことが躊躇われるほどの必死さに、八重はいささか戸惑っていた。
「そう……なのですか」
  彼は悲しげに自分の手に抱えた花を見つめた。
「でも、やはりこの花たちを黙って見過ごすことはできません。他のものよりも少し遅れて咲いただけなのに、最後まで命を繋ぐことも許されないなんて――」
  しかし、男はそこでハッと我に返り、口の奥で小さく「すみません」と詫びてきた。そしてそそくさと立ち上がると、慌てて八重の前から立ち去ろうとする。
「ちょっと待って」
  こちらに一度背を向けた男がもう一度振り返るのを待ってから、八重は言葉を続けた。
「その花、いったいどうするの。持って帰ったところで、あなたの寝床では置き場にも困るでしょう」
  地方から出てきた男衆は、屋敷表の「寄り所」と呼ばれる小屋に寝泊まりすることになっている。そこはしとね一枚と少しの場所がひとりぶんとして与えられているだけだということを、八重は知っていた。
「それ、わたくしが預かるわ。綺麗に乾かせば、ずいぶんと長持ちするのよ」
  花などは今年枯れても来年にふたたび咲くもの。長いこと、そのように受け止めてきた。だがこの者の話を聞いているうちに、自らの考えに疑問が芽生えてしまう。
「で、ですが、そのようなご面倒をお掛けしてしまうのは……」
  なおも躊躇う男の手から、八重はもぎ取るように花を受け取った。
「わたくしの申し出に異を唱えるつもり? その方がよほど失礼なことよ」
  呆然と立ちすくむ男をその場に残し、彼女は一足先に西の庭をあとにした。

 

つづく(111009)

    

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