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「花になる・番外〜八重」
互いに足繁く本館に出入りするふたりである。その後も折に触れ、顔を合わせる機会が多くなっていた。
「おはようございます、八重様」
初めのうちこそはおどおどと腰が引けていたこの者も、朝な夕なと出会うごとに次第にうち解けてくる。一月ほどが過ぎる頃には、挨拶の際にもはにかんだ笑顔を見せるようになっていた。
「おはようございます、今朝はどのようなご用で?」
彼が女人様に気に入られた本当の理由が、八重には少しずつわかってくるような気がする。
この者はとにかくとても温かい、側にいるだけでゆっくりと日溜まりの中に取り込まれていく。それは八重にとって、生まれて初めて味わう不思議な心地であった。
それまで八重の周りにあったものは、地位や名誉ばかりを追求する生き方ばかり。蹴落とされたくなければ他人を踏み台にしてでも自らが上に登れ。男子であれ女子であれ、心の芯にあるものはそう変わりないように思われた。
いや、彼女自身であっても、それは例外ではない。
誰もが羨む確実な実家を持ち、その権力を最大限に利用して自分の立場を確実なものとしてきた。もちろん相応の努力があってこそではあるが、なにも持たないただ人では到底成し得なかったことである。
もしも自分が今ここにいなければ、他の誰かがこの場所にいた。自らの意志ではなかったにしても、傷つけた相手もいるであろう。
「本日は、文の代筆に参りました。近頃ではずいぶん長い文章も手がけるようになりましたので、とても気が張ります」
そう言いつつも、男の表情には以前はなかった誇りが感じられるようになっていた。
自分の施しが誰かのお役に立つ。そのことを心より喜んでいる様子である。
「そうですか。女人様のご期待に応えられるよう、精一杯励んでください」
八重も彼につられるように微笑み返しながら、同時にたとえようのない空虚な気分も味わっていた。
自分にはこの者のように心が満たされる瞬間があるのだろうか。何年もの間、同じような毎日を繰り返すうちに、なにもかもを惰性でやり過ごすようになってしまった気がする。どうしたら、ふたたび温かい気持ちを取り戻すことができるのであろうか。そう願えば願うほど、知らず心が乱れてしまう。
近頃では身支度をするために姿見に我が身を映してみても、浮かない表情ばかりに出会うようになっていた。そうしているうちに、日々のお務めにも支障が出てくる。
「どうした、近頃はなにを訊ねても生返事ばかり。いつもの八重の覇気は何処へ行ったのだ」
主である若様、つまり鴻羽様にまで注意を受ける始末。これではあまりに情けない。
「わたくしにもいろいろ考えるところがあるのです。若様のように気楽にばかり過ごしてはいられませんわ」
取って付けたように言葉を返しながら、更なる虚しさが心を埋め尽くしていた。
あの男のように日々の暮らしを瑞々しい気持ちで受け止めることなど、自分には望むだけ無駄な話だ。大山の村長の娘として生まれ、幼き頃からさまざまなしがらみにがんじがらめになって生きている。この先、十年二十年、……もしくはそれよりも長く生きながらえることがあったとしても、今とたいして変わらぬ毎日を送っているであろう。
幸福のかたちはひとつではない。そして、他人の目から見れば、八重自身はいくつもの幸せを掴んだ女子である。お仕えする主様からの覚えもめでたく、美しい衣に手入れの行き届いた豊かな髪。珍しい化粧道具を揃え、また暇を見つけては書物と親しみ、我が身を外から内から磨くことにも余念はない。
自分は精一杯の努力をしている、そしてそれなりの成果が上がり、周囲にも認められている。ならば、なにを憂う必要があるのか。
なにもかもが、あの男のせいだ。あの涼しげな目をした田舎者が、すべて悪い。そんな風に考えなければ、とてもやっていけない。
羽振りの良い商家の息子とはいえ、実家はすでに上の兄弟が継いでいる。彼は十三になり成人となったのを機に、村長の館に行儀見習いに出されたのだという。そこで主の目に留まり、昨年の暮れよりこちらに出仕することとなった。もちろん、外仕事に携わる下男としてである。
真面目に仕事をこなす気だての良い男だといつの間にか使用人の中で評判となり、その話が女人様のお耳に届いたことで予期せぬ運が拓けていった。とんとん拍子の大出世であるというのに、彼は今でも慎ましい態度のまま、周囲の者たちの目に留まらぬように過ごしている。
あのようにされては、後ろ指をさされる理由もなくなってしまう。どこまで、巧みに立ち回る男なのだろう……。
腹立ち紛れに湧いてくるそんな感情も、当の本人を前にすれば、あっという間に消えてしまう。その事実さえ、口惜しくてならなかった。
そのような折のことである。
八重は女人様の名代として、一山越えた里まで出向くこととなった。女人様が以前から懇意にしている御方の元に、祝いの品を届けに行くのである。道中は足場の悪い箇所が多いため、通常の場合は馬を使うが、このたびは壊れやすい品を持参するために徒歩(かち)で行かなくてはならない。手荒に扱ってはならないため、女子の手が不可欠であった。
夜明けを待たずに出立すれば昼過ぎにはどうやら目的地に到着すると思われたが、戻り道で日暮れに間に合わなくなればかなり厄介なことになる。かといって、途中で宿を取るには微妙な距離だ。
「供には暁高を連れて行くといいでしょう。あの者はかなりの物知りですから、もしものときにはとても頼りになりますよ」
最初にお話を頂いたとき、女人様があまりにもあっさりとそう仰るので、八重は仰天してしまった。
とんでもない、あのような者と長い道中を共にしたら、息が詰まってしまうではないか。ただでさえ気の張るお務めなのだ、さらなる苦労はご遠慮したい。
お役目を頂いたときから、同郷の女の童をひとり同行させようと決めていた。しかしその者が直前になって具合が悪くなってしまう。今更新しい者を探すのも面倒であったので、女人様にはなにも告げぬまま単独で行動することにした。
女子のひとり歩きは物騒であると眉をひそめる輩も少なくないが、もともとが男勝りな性格の八重はまったく平気である。この先、堅苦しい地位に就いてしまえばそのような気楽な振る舞いも叶わなくなる。そう思えば、このような機会を逃す手はない。
当日は昼過ぎから急に天候が悪くなった。無事に届け物を済ませて帰路につくが、山道に差し掛かったあたりでひどい荒れに巻き込まれてしまう。行くにも引き返すにも微妙な距離にあり、八重は途方に暮れてしまった。歩き慣れていない土地では、どのように進めばいいのかも判断がつかない。
とにかくは、どこか安全な場所を見つけ、そこに身を寄せなければ。嵐が通り過ぎるまでは、闇雲に動かない方がいい。
自分が機転の利く女子であるという自覚はあった。最後に我が身を守ることができるのは自分自身しかいないということも承知している。野歩き仕様にまとめた髪を結び直し、八重は慎重に周囲をうかがった。
荒れ狂う気の轟きが、まるで女子の悲鳴のように聞こえる。不思議なほど美しく赤々とした天、その下を黒い靄が次々に通り過ぎていく。衣がはためき、大きな帆のように膨らんだ。
――わたくしは、少しも恐ろしくなどないわ。
別に強がりと言うわけでもなく、八重は淡々とそう考えていた。
普通の神経を持つ女子であれば、大声で泣き出してしまうほどの状況なのかも知れない。しかし自分はこれくらいのことで、弱音を吐くわけにはいかないのだ。
このたびのお役目であっても、女人様の覚えめでたい我が身だからこそ任されたのである。これでまた、八重の父は他のあまたといる村長よりも一歩先に進むこととなるのだ。館務めの女子は、男顔負けの気丈さを見せなければならない。それがわからぬ馬鹿者は、あっという間に失脚するだけだ。
「……あ……」
遠目にキラリと光るものが見えた。瓦屋根だろうか、人が住まっているか否かはここからでは判断がつかないが、少なくとも雨風をしのぐ建物があの場所にはあるようだ。茂みを越えた、その向こう。そこまでの道のりが平原なのか湿地なのか、それすらも判断できない。
ただ、ひとつ確かなのは、この状態で急ぎ先を行くべきではないということだ。このくらいならどうにでもなるという過信から、命を落とすほどの大事になる例がいくらでもある。
――とりあえずは夜明けまで。
足下にすべての意識を集中させて、八重は一歩ずつ慎重に前に進んだ。そうしているうちにも目の前を何度も荒れが通り過ぎる。途中、幾度となく蔓草に足を取られたが、気持ちを強く持てば、どうにか歩き続けることができた。
ようやくたどり着くことができたそこは、しんと静まりかえった廃寺。人の気配はまったく感じられず、戸も全て開け放たれたままで、お堂の中も吹きっ晒しである。だが、山裾にあるために、他の場所と比較すれば幾分しのぎやすいだろうか。
八重は建物の一番奥の柱まで進むと、そこに腰を下ろした。
身体が鉛のように重い。このまま朽ち果てかけた板間の中に身体がずぶずぶと沈み込んでしまいそうだ。灯りもない。ただ、もしも火をともす手段があったところで、あっという間に吹き消されてしまうだろう。
とにかくは、休みたい。だが、荒れに濡れた身体が凍えて、震えが止まらない。
負けるものか、こんな場所で挫けてたまるものか。歯を食いしばり、唇を噛みしめる。手のひらに息を吹きかけてみたが、そこに温もりはなかった。
建物の外は、木々も草も大きく揺れ、この世界のすべてが歪んで見える。天と地の場所も定まらず、どこまでも流れていくようだ。
――代わりなど、いくらでもいるのだ。ひとりの者に固執する必要など何処にもない。
忘れたくても忘れられない言葉。
それは、先日実家にあまり気の進まない里帰りした折。偶然、耳にしてしまった家族の会話であった。
久方ぶりに舞い戻った娘を、父は満面の笑みで迎える。様々なねぎらいと賞賛の言葉を浴びせかけられ、大いに勇気づけられた。
しかしながら。
その夜、なかなか寝付けぬままに縁に出たところで、ひそひそ声が耳に飛び込んでくる。そこで話されていた内容に、八重は我が耳を疑った。
「八重だけではどうにも心許ない。近々新たな手を打とうと思っている」
それは間違いなく父の声。一族の間では、八重の他に新たにもうひとり、御領主様の御館に女子を送り込もうという話でまとまっていたのだ。
白羽の矢が立ったその者は、父が側女(そばめ)に産ませた腹違いの妹。自分にとっては、まったく馴染みもない娘である。なんてことだろう、父は八重の血の滲むような努力を知りもせず、ただ己の欲を満たす道具のひとつとして考えていた。
そんな事実を知ったところで、別になにが変わるわけでもない。
八重はその後もなにも変わらなかった、誰から見ても今までどおりだった。
今、自分がここで朽ち果てたとしても、悲しんでくれる誰もいない。だからこそ、生き続けなければならないと思った。他の誰でもない、この世にひとりしか存在しない自分自身のために。
つづく(111012)
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