TopNovel玻璃の花籠・扉>君に咲く花・4


…4…

「花になる・番外〜八重」

 

「……さま、……え、さま……!?」
  荒れ狂う気の向こうから、切れ切れになっている声が聞こえてくる。初めは空耳かと思った、さもなくば木々が泣いている音なのかと。
  ぼんやりした意識から浮かび上がり、八重はのろのろと身を起こした。いつの間にかまどろんでいたようだ、こんな状況で休むことのできる自分に驚いてしまう。
  ――誰……?
  黒い塊が、少しずつこちらへと近づいてくる。あれは人の影なのだろうか、それとも魂を喰らう魔物なのだろうか。それが確認できないまま、八重は目をこらす。
「……あ……」
  喉の奥から、絞り出すような声が出た。
  吹きさらしのお堂の中、八重の髪も衣も右へ左へと揺れている。それをどうにか取り押さえようとするが、指先に触れたあまりの冷たさに驚いた。
「ああ、八重様っ! やはり、こちらにいらっしゃいましたか……!」
  ――何故、この者が。
  誰かが自分を探しに来るとは、まったく考えていなかった。闇雲に歩けば我が身の安全も危うくなる、今夜の荒れはただごとではない。そして、ましてや、この者が目の前に現れるとは、到底思いつくことではなかった。
「ご無事ですか、どこか痛むところなどございませんか」
  いつにない軽やかな身のこなしで、男はさっさと建物の中へ立ち入ってきた。そして、八重が身を置いているお堂の一番奥までどんどん進んでくる。そして、目の前に立ちはだかった男が、驚くほど大きな荷を背負っていることを確認した。それがすぐ側の板間に降ろされる。
「まずはこちらに着替えてください、濡れたままの衣服を身につけていてはお身体にさわります」
  何重にも包まれた布袋の中には、驚いたことに一抱えほどもある行李が入っていた。彼はそれの上蓋を開くと八重の方へ差し出す。そして、自分はくるりとうしろを向いてしまった。
「慌てていたので、上等な品ではございません。しかし、濡れた衣よりはいくらかマシです。お脱ぎになったものは梁に掛けておきましょう、朝になる頃にはあらかた乾いているはずです」
  行李の中には肌着から小袖に袴、そして重ねまでがすべて揃っていた。短い間で集めたとは思えぬほどの品である。どうしてこの者にここまでの行動力があるのか、八重にはさっぱりわからなかった。
「そちらの着替えは……よろしいのですか?」
  返答にはいささか間が抜けているかとも思ったが、それが一番気になった点であった。行李の中にあるのは女子の衣類ばかり、男の着替えはどこに見あたらない。
「あ、いえっ。自分は頑丈にできてますから、平気です。里ではこの程度の荒れは珍しくもございませんでしたし、使いの帰りに動けなくなり野宿した経験も一度や二度ではありませんから」
  そう言い切ると、彼は着ていた衣を次々に脱ぎ捨てた。そうして、それらをまとめるときつく絞り、身体を拭いていく。日頃の野良仕事で鍛えたその体躯は想像以上に逞しかった。骨格なども官人のそれとはまったく異なっている。
「さあ、早くお召し替えを。……このままではこちらまでが凍えてしまいます」
  行李を包んでいた布を身体に巻き、それで暖を取ろうということなのだろうか。彼の考えはわからないが、せっかくの好意を無駄にするのも悪い。そう思って、八重は手早く衣を替えていく。指先がかじかんで普段どおりには動かないが、それでもどうにか型どおりの着替えを済ませることができた。
「……もう、よろしいですか?」
  十分な間合いをとってから、男がゆっくりとこちらを振り向く。
  その後は、自分の衣が梁に吊られていく様をぼんやりと眺めていた。腰紐を器用に梁に回し、垂れてきたもう一方を器用に操っている。それを不安定な行李の上に乗った状態で行うのだから、まるで曲芸師のようであった。
「自分の実家は、河行商で生計を立てておりますから。船上ではこれより不安定な足場でさまざまな作業をしなくてはなりません。まあ……普通に生活しているぶんにはあまり役には立ちませんが」
  八重があまりにも驚いた眼差しで見つめたからか、彼は恥ずかしそうに告げる。
「……そうでしたか」
  そういえば、最初の頃に女人様からそのような話を聞いた。つい一月か二月前のことがとても遠い出来事に感じられる。
  八重は手持ち無沙汰なままに自分の髪に手をやった。荒れ狂う気に晒され、あまりにみっともなくほつれてしまっている。このままでは人前に出ることもできない。だが、この男の前では不思議とどんな姿でも平気であった。
  男がひととおりの作業を終えて板間に腰を下ろすのを見て、八重は再び口を開く。
「余計な手間を取らせて、申し訳ございませんでした」
  別に助けを求めていた訳ではない。自分ひとりであっても、どうにかやり過ごすことはできたのだ。だが、面倒を掛けてしまったことへの感謝の気持ちは伝えるべきだと思う。
「いえ、これは自分の一存で行ったことですから」
「――暁高様がこちらにいらっしゃったのは、女人様のご命令ではなかったのですか?」
  当然この者はかの御方の御指図で動いたのだとばかり思っていた。そうでなかったら、このような場所にわざわざやってくることはないはず。
  男は八重の言葉にふっと目を細めると答えた。
「人づてに、あなた様がおひとりでお出かけになったということを聞きました。それならば、この荒れの中、さぞお困りかと思いまして……」
「べ、別に……困ってなど。ただ立ち往生していただけですわ」
  それも自分でこれ以上進むのは困難だと見極め、判断したことだ。夜が明けて、この荒れが収まればすぐに戻るつもりだった。
「ええ、それは承知しております」
  彼はなんでもない様子で答えると、行李を包んでいた布を自分の肩に掛けた。先ほどよりもさらに荒れがひどくなっている。なるべく壁際に身を潜めているのだが、それでも時折髪が煽られた。
  最初は人が変わったようにあれこれと話しかけてきていた男であったが、そのうちに八重が気のない返事をするのに気づいたのか、いつもどおりに口が重くなってきた。そうなると、耳に届くのは荒れ狂う気の叫びだけ。次第に気が滅入ってくる。
「どうして、この場所がわかったのですか?」
  とうとうしびれを切らして、八重の方から口を開いていた。男が静かに答える。
「それは……このあたりで休める場所といえば、この古寺しかありませんから。仕事の合間に暇ができると、あちこちを散策しているのです。他にやることもありませんし」
「……そう」
  御館務めが四年になろうという八重であっても、このような場所があることを知らなかったのだ。それなのにこの者は一年も経たずにもっと多くのことを知っているのか。なんだかひどく、口惜しい気分になる。
「わたくし、本当に少しも困ってなどいなかったのです。無理に来ていただかなくても、良かったのに」
  そこまで告げてから、言葉が足りなかったかと反省する。
「いえ、あなた様は、暁高様は女人様のお気に入りですし。もしものことがあったら、私が叱られてしまいます」
  慌ててそう付け足したのだが、かえって言い訳がましくなってしまっただろうか。
  彼はふっと溜め息を漏らした。
「八重様」
  ふたりはいくらかの間を置いて座っていたが、不思議とかすかな気の揺れが感じ取れる。
「自分には里に残してきた妹がひとりおります。こちらでは館の方々に大変良くしていただいて、それはとても光栄なことではありますが……少し時間ができたときなどには、どうしているかと気になってなりません」
  そして、男が途切れ途切れに話してくれたこと。
  彼は裕福な河行商の一族の出であったが、母親は父にとっては三人目の妻。もちろん正妻の他にも囲った女子は数知れず、血を分けた兄弟は両手に余るほどいる。だが、同じ母から生まれたのは自分とその妹のみ。すでに母は亡く、彼女は長兄の妻が仕切る実家で肩身の狭い思いをしているらしい。
「里で村長様の御館に奉公している頃には、月に何度も顔を見に行くことができました。しかし、こちらに上がってからは……折に触れての文は届きますが、ずいぶんと寂しい思いをしているようです」
  ふと、隣の様子を見れば、彼は布きれにくるまり膝を抱え、ぼんやりと自分の手のひらを見つめていた。
「このようなことを申し上げては、ひどくお気を悪くなさるかと思いますが……実は八重様のお姿を拝見していると、里の妹が重なって見えて仕方がないのです」
「……え……」
  それはあまりにも意外すぎる言葉であった。 
  八重の声に非難めいたものを感じ取ったのだろう。男は慌てて取り繕う。
「あ、いえ……もちろん、自分の妹のような田舎育ちの娘と八重様を一緒にすることはできません。しかしながら、自分にはどうしても……いえ、すみません。このような話はもう止めにしましょう」
  男はそう言って言葉を切ると、膝を抱えてうずくまってしまった。自らの言葉をとても恥じている様子である。
「……その妹君のお歳は、いくつ?」
  用意してくれた衣は大変温かかった。この荒れの中、よくもまあここまできちんとした状態で運ぶことができたものだ。
「え、その……年が明ければ十三で、実家ではかたちばかりの裳着を執り行うはずです」
「そう、ならば、わたくしよりもひとつ年下になるのね。やはりお美しい方なのかしら」
  ここにいる暁高も田舎者には珍しい端整な顔立ちをしている。それならば、妹の方もかなり期待ができるのではないか。
「いっ、いえ、……そのような。こちらの館の皆様と比べたら、あまりに情けなく心許ない次第です」
  男は慌てて首を横に振る、まるで八重の言葉のすべてを跳ね返すように。
「まあ、そのように謙遜する必要などないではありませんか」
  ――少なくとも、その者は自分よりは恵まれている。何故ならば、心からその身の上を案じてくれる兄がいてくれるのだから。
  そう思った途端、身体の奥からぞくぞくとした寒気が上がってきた。いったい、どうしたことなのだろう。
  ――代わりなど、いくらでもいるのだ。ひとりの者に固執する必要など何処にもない。
  あの夜の父の言葉が、氷の刃になって胸に突き刺さっている。そのことに、今の今まで気づかないでいた。
「八重様、……いかがなさいましたか?」
  男の声が、すぐ近くで聞こえる。八重は目の前に差し出された腕に夢中ですがっていた。

 

つづく(111020)

    

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