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…5…

「花になる・番外〜八重」

 

 明け方には、荒れが嘘のように静まった。夜明けを待たずに古寺を出て、急ぎ御領主様の御館に舞い戻る。髪を清め身なりを整えると、すぐに本館の女人様の元に出向いた。
「お役目ご苦労様でした、先方からはすでに御礼の文も届いておりますよ。あちら様もあなたの堂々とした振る舞いにたいそう感心してお出ででした」
  昨夜のうちに帰館を告げなかった不義理に対する責めのお言葉もなく、八重はそれ以上の言い訳を並べる必要がなくなった。正直、詳しいことを訊ねられたらどうしようかと不安に思っていたのである。それだけで、肩の荷がひとつ下りた心地になった。
「それにしても、今朝はずいぶんと晴れやかなお顔ですね。なにか良いことでもありましたか」
  さらにそのように指摘され、驚いて頬に手をやる。その仕草がたいそう可笑しかったらしく、女人様は声を立ててお笑いになった。
「まあ、あなたのような方がそのように慌てるなんて。不思議なこともあるものですね。……いいでしょう、それでは今日のお務めに入りましょうか。まずは正月用の晴れ着の確認からいたしましょう、そちらの行李をすべて運んでいただける?」
  話はすぐにすり替わり、八重はホッと胸をなで下ろす。
  女人様の関心は、つねに御自身とその周りの方々に向けられている。だから執拗に追求されることなどあり得ないとは予想していたが、今朝は思いがけなく些細なことに気づかれるので驚いてしまった。
  ……一目でわかってしまうほど、昨日までとはどこかが変わってしまったのだろうか。
  そう思うと、やはり動揺は隠せなかったが、それもその後の女人様とのやりとりに紛れて、いつか気にならなくなっていった。

 それから半月ほどは、穏やかな日々を過ごしていた。
  あの者とは、日に何度か顔を合わせる機会があるが、以前と変わらず挨拶程度のやりとりのみである。秋は日に日に深まり、赤とんぼの姿が消えると、気も早く遠くの山々が白い帽子を被った。
  そろそろ、冬が訪れる。
  それはすなわち、新しい年が間近に迫っていることを意味していた。毎年のことであるが、正月は気が重い。御領主様の御館で新春の行事を執り行うまではまだいいのだが、そのあとは使用人に少し遅い里帰りが許される。
  ほとんどの者がその日を心待ちにしているのは知っていたが、もともと実家になんの思いも抱いていない八重にとって、たった数日だけのその期間が溜まらなく苦痛であった。

 ある日、いつものように通りすがった男は、変わらずはにかんだ笑顔を八重に向けた。
「おはようございます、今朝もずいぶん冷えましたね」
  しかし応える八重の表情は堅かった。もちろん男は、不思議そうに見つめてくる。
「……先日」
  そこまで言いかけて、躊躇いが口を塞ぐ。
  このまま話を続けるべきか、それとも何事もなかったかのようにやり過ごすべきか。いくらかのせめぎ合いを心の中で続けたあと、八重は再び口を開いた。
「今宵、先日の館に忘れ物を取りに行こうと思っています」
  それだけ言い終えると、八重は男の視線を振り切って先へと進んだ。
  短い言葉がどのように伝わるか、それを懸念しなかった訳ではない。だが、自分の意が正しく届かずとも、八重にとってはどうでもいいことであった。
  先日とはうって変わった静かな夜。あの日は難儀に思えた山道も、あっという間に越えることができた。
  そして、男もまた、八重よりも少し遅れて古寺へとたどり着く。ふたりの姿は、すすきの群衆に密やかに隠された。
「……なにか、お辛いことがございましたか」
  八重は、そう囁く男の胸に抱かれていた。そして、静かに顔を上げる。
「わたくしはなにも。暁高様こそ、なにかおありなのではありませんか」
  その言葉に、男は黙ったまま寂しい笑みを浮かべる。
  互いの身の上話を切々とするわけではない。あの夜と同じように、ただ互いの温もりを感じている。
  嵐の夜、八重をしっかりと抱き留めた男は、そのまま静かに涙を流していた。その姿を静かに見守っているうちに、己の胸にも温かいものが溢れてくる。
  この者とふたりきりになったときにだけ、八重は自分が小さな子供に戻った気がした。自分を包む光も人々も、そのすべてが味方だと思っていた頃。もう二度と帰ることはできないのだと思うと、溜まらなく悲しかった。
  そんな風にして、何度の密会を続けたことだろう。
  とはいえ、人の噂に上るようなやましい行為など一切なかったが、もしもこのようなことが明るみにでれば、互いにただでは済まされぬ事態となる。
  それはわかっていた、だから毎回のようにこれきりにしようと心に誓うのではあるが、すぐにまた新たな気の迷いが生じてしまう。
  彼は八重の中に、なかなか会うことのできない妹の姿を重ね合わせていた。それならば、自分も彼に「兄」としての愛情を求めているのだろうか。それはわからない、だが男の胸の中は温かい。そこにすっぽりと包まれていれば、面倒なしがらみもなにもかもを忘れ去ることができた。
  一夜を共に過ごしたのち、八重が一足早く古寺を出る。夜明け前の白い靄が立ちこめる山道を進みながら、何気なく目に付いた咲き遅れの花枝をひとつふたつと手折って足下に落とした。
  そして、同じ日に女人様の元を訪れれば、かのお人は満面の笑みで床の間を指し示す。
「ご覧なさい、八重。今朝、暁高がこのように見事な枝を集めてくれました。この花は険しい山道にしか咲かないもの、あの者は本当に律儀者ですね」
  女人様がどのように解釈しようと、八重にとってはそう重要なことでもなかった。ただ、ふたりの密やかなやりとりが、このように堂々と女人様のお部屋に飾られているのはとても不思議な気がする。耳元で内緒話をするようなこそばゆい幸せが、その後もしばらく八重の胸に宿っていた。

 そして、年が明けてしばらくが過ぎた頃。
  いつものように女人様の元へと呼ばれた八重は、そこで思いがけない話を聞かされた。
「そろそろ暁高にも良き伴侶をと考えていましてね。それでこちらの娘など、なかなかお似合いと思っているのですよ」
  女人様が振り返ってその者を指し示すと、奥に控えていた娘は恥ずかしそうに俯いてしまった。その顔には覚えがある、つい半年ほど前に向こう村から出仕してきた者である。なかなかの器量よしであったために、久々にご隠居殿も目の色を変えたが、お手が付くよりも早く女人様がかくまってしまわれた。その評判が広まり、使用人たちの間でも「高嶺の花」と呼ばれている女子である。
  まあ、そうはいっても、八重などとはまったく格が違う者なのであるが、彼らとしてみれば「かろうじて腕を伸ばせば手の届く花」ということなのであろう。
「この娘の実家も裕福な絹問屋を営んでいるそうですし、まさに良縁だと思いますよ。近々、正式に話を進めようと思っています」
  女人様がここまできっぱりと言い切られるのであれば、この話はほぼ本決まりだと思って間違いない。この館にあっては、今の御領主様よりもご隠居様よりも発言力のある御方。その方が右と言えば、誰もその意に背くことなどできないのだ。
  ――そうか、このようなことも当然あり得ると考えなければならなったのか。
  それまでの八重は、我が身の振り方のみに心を悩ませていた。御領主様の一族にあっては、跡目に決まった御方が妻を娶り、次はいよいよ八重のお仕えする鴻羽様が身を固める番だとまことしやかに囁かれている。そのことにより、八重の周辺もにわかに騒がしくなっていた。
  いつ正式なお話があるのか、そうなった場合にはもう、自由に動き回ることもできなくなる。今までのようにあの男との密会を続けることも叶わなくなってしまう。
  そもそも若様とのことは最初から決まっていたことであったし、いまさら異を唱えることなど許されることでもない。八重としても、自分のために実家のために、最善の道を進むべきだとは思っていた。
  しかし、である。
  二度とあの者と同じ時を過ごせない、ぬくもりを分かち合うことのできない事実を自分は果たして受け入れられるのだろうか。そのことにばかり思い悩み、始終胸を痛めていた。
  だが実際は、我が身よりも早く、相手の男が自身の進むべき道を歩み出してしまう。本人が望むか望まないか、それはたいした問題ではない。女人様のお言葉は、この屋敷にあっては神の声に等しい。
  そうなのだ、いつかは必ず断ち切らなくてはならない関係。だとしたら、傷は浅い方がいい。もしも互いが互いを離せなくなるところまで進んでしまったら、その先には破滅が待っているだけである。
  お互いのために最善の道を選ぼう、八重はそう心に決めた。彼のことなどきっぱりと忘れて、元のとおりに気丈に生きてゆけばいい。少しの間は甘え心が顔を覗かせて辛いだろうが、それもしばらく経てば慣れるはずだ。
  ――そう、今までも長いこと、そんな風にして生きてきたのだから。
  男があの娘と仲睦まじくしている姿を、このごろではしばしば見かけるようになった。人目もはばからずに立ち話をするなど高貴な御方の屋敷にあってはあまりにはしたないことであるが、すでに女人様により許された仲なのであるから陰口を叩く者もいない。
  誠に幸いなことではないか、あの者も良き妻を娶れば郷里の妹への思慕も薄れるだろう。いつまでも実家のことに心を病んでいても仕方がないのだ。いくら血を分けた妹であったとしても、彼自身がその先々の面倒を見るわけにもいかないのだから。
  そして、八重自身にとってもまた、このたびのことは自分の気持ちを奮い立たせるための大切な材料となろう。
  いつまでも「逃げ道」を作っておいては、なかなか踏ん切りをつけることができない。他にひとつの道もないと決めたときに、人は覚悟を決めることができるのだ。
  ――だが、しかし。
  八重の心は揺れた。揺れに揺れて、いつしか自分でも手の届かないところまで行方知れずになってしまった。

 

つづく(111022)

    

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