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「花になる・番外〜八重」
なにもかもが凍り付いてしまったかのような、音のないひっそりした夜だった。
いつもの古寺にたどり着くと、八重は一番奥の柱に寄りかかって腰を下ろす。そして、静かに目を閉じた。
かすかに気が揺れ、手入れの行き届いた髪が舞い上がるのがわかる。
どんなときにも女子としての自分を見失わず、誰に見られても恥ずかしくないように身なりをしっかりとしていなければならなかった。美しい衣も、髪に染みこませる香油も、そして口元を彩る紅も、我が身を奮い立たせるための防具でしかない。だが、そのような「鎧」に身を包むことこそ、女子が身ひとつで行き抜くたったひとつの手段である。
待ち人のない今夜は、自分なりの別れの儀式だった。
今までの逢瀬は、いつでも八重の働きかけにより実現していた。何気なくすれ違うときの目配せで、彼はすべてを察してくれる。まるで長い間の知り合いのような、心の疎通がそこにあった。
だが、今宵あの者を呼び出すわけにはいかない。
せっかく、真の幸せを掴みかけているところなのだ。だとしたら、黙ってその道を進ませてやらねばならない。自分でも愚かだと思うが、変なところで生真面目さが顔を出してしまったようだ。情けを売る相手でもないと思いながら、ギリギリのところで我が心を制してしまう。
今宵はひとり。誰にも悟られぬよう、この心を凍てつかせてしまおう。花開く季節が我が身に訪れないように、堅く封印してしまえばいい。
女人様の覚えめでたく、ゆくゆくは御領主様のご子息のの正妻の座につくことがほぼ確定している。誰もが羨む最高の地位にありながら、自分の心はふたたび芽吹くこともないのだ。
――もしも、この想いを余すことなくすべて伝えることができたなら。
刹那、あり得ない願いが胸を過ぎり、次の瞬間には全力で打ち消していた。
人は己の進むべき道を見誤ってはならない。もしも、想いのすべてがそちらに傾いていたとしても、耐えるべきところは耐えなければならない。それができない馬鹿者が、破滅の道へと進むのだ。
自分たちの間にはなんの約束もない。ただ、お互いの中にある嘆きを共有し、重ね合う温もりで分かち合っていただけだ。彼が八重の中に求めたものは、里に残した妹の形代。本物は他にあるのだから、関係を絶つことになんの迷いもないであろう。
指の先が冷たい、足の先からも凍り付いてきそうである。もちろん、身体にさわりのないように、温かくはしてきたが、どんなに衣を重ねたところで、心根を温めることは叶わない。
八重はいよいよ耐えきれず、息を指先に吹きかけた。でも、温もりを覚えたのはほんの一瞬。そのすぐあとには、わずかばかりの湿り気がさらなる凍えを運んでくる。
――もういい、すべてを忘れて寝入ってしまおう。
人の気配のすべて消えたこんな場所ならば、無に帰ることができると思った。でも、心が研ぎ澄まされるごとに、一番奥にある真実が明らかになってしまう。
そして、そのとき。
どこかで、ことりと小さな音がした。
「……?」
見ると、その方向に頼りない灯りが見える。かすかに身じろぎをすると、黒い闇が少しだけ揺れた。
「……八重様?」
沈みかけた心が、一気に浮かび上がる。その響きは、するりと心に忍び込み、一番深い場所までたどり着いた。
「どうして――」
まさか、あとから追ってるとは思わなかった。誰にも行き先を告げることなく出てきたのだから、自分がここにいることをこの者が知るはずもない。ならばどうして。使いの途中に偶然に立ち寄ったというのか。
「夕刻、通用門から出て行くお姿を見ました。もしかしたら、こちらにいらっしゃるのかと思いまして」
男はいつもどおり、こちらになんの断りもないままに、板間を進んでくる。このような行為、御領主様の御館ではおよそ許されることではない。同じ使用人という立場であっても、ふたりの間には目に見えない隔たりがあった。だがこの場所では、そんな堅苦しい関係もなくなる。
「……そう」
呼びもしないのに勝手にやってくるなんて。八重は男の行為に少なからず腹が立った。
「わたくしにも、ひとりでいろいろ考えたいことがあるのです。あの館にいては、始終騒がしくて気の休まるところがありませんから」
別にあなたに来て欲しいなんて、そんなこと思ってもみなかったのです――そんな気持ちをきつい口調に乗せてみた。
「そうでしたか」
男はそう答えると、八重の前に手にしていた灯りを置いた。頼りない炎ではあったが、それでもあたりの気がほんのりと温んでゆくような気がする。そして彼は、八重と少し離れた場所に陣取ると腰を下ろした。
「自分も今宵は少しばかり考えごとをしたくて参りました。天があまりにも眩しくて、どうにも寝付くことができないと思いましたので」
ふと振り向いて見れば、男の口元がほんの少しだけ歪んでいる。それがなにを意味しているのか、八重にはよくわからなかった。
そうしているうちに、男はふたたび口を開く。
「近頃、お声が掛からなくなったので、どうなさっているのかと案じておりました」
彼の瞳が自分をじっと見据えていることに気づき、八重は慌てて顔を背けた。
「そ、そりゃあ……わたくしもいろいろ忙しいのですから。いつまでも、ひとつのことに拘ってはいられませんわ」
静かすぎる空間で、男の落とす吐息が切なく伝わってくる。しかし、それを受け止めるのは自分ではない。八重はきつく唇を噛んだ。
「そのとおりですね、あの御館はいつでもひどく騒がしい。しかし、その一方でとても冷たい場所ではございませんか」
ふたりの間を気が通り過ぎていく。わずかばかりの間合いが、ふたりをもどかしく包んだ。
「あの場所には、たくさんの心が置き去りになっています。それがこのような澄んだ夜には、月明かりの中に浮かんでくる気がするのです。……いえ、そのようなこと。自分の錯覚であるのかもしれませんが」
もしかしたら、この者は常人よりも数多くのことを知っているのではないか。
ふとそのような想いが浮かび、一瞬だけ身が震えた。
「……すみません、おしゃべりが過ぎましたね」
男が短く詫びたあと、あたりにはまた静寂が戻った。
あの豪奢な館にあって、ふたりともとても寡黙な存在である。不用意なひと言が自分の足下を掬い取ることは知っているから、その手に乗らないように慎重に過ごしているのだ。
自らの欲はあまりない、ただ流れのままに漂っていくのみ。
しかし、このまま行方知れずの人生でいいのかと、もうひとりの自分が冷たく問いかけてくる。
「他の者の嘆きにまで気を取られているなど、あまりに愚かなことだわ。あの館に、そのような弱者が生き残る場所はないのですから」
気丈な想いを言葉に乗せてみると、何故か空間が鈍く歪んだ。
「……お強い御方なのですね、八重様は」
これがこの者と過ごせる最後の夜になるのだろう。その事実を冷静に受け止めながら、まだ彷徨っている心がある。
「強くなどないわ、ただ愚かなだけ」
父親の、そして一族の欲を叶えるために「駒」となることを決めたその日から、自らの意思などどこかに無くしてしまった。幼き頃より見えない手枷足枷をはめられ、それでもまだいつか羽ばたく日を夢見ていた。
しかしそのような幸運が、我が身に訪れることなどあるはずもない。誰もが羨む地位を手に入れたとしても、そこに残るのはただ虚しさだけだ。
若様と、鴻羽様と自分の間にあるものは、はっきりした主従関係のみ。それがこの先、変わることは永遠にあり得ないと思う。なにかが自分に欠けているのかと思い悩んだ日もあった、だが今はわかる。このような感情が理屈では説明の付かないことであるのだということを。
出会わなければ良かったのだ、気づかなければ幸せなままでいられた。互いの呼吸が、会話の間合いが、そして確かな温もりが伝えあうものこそが真の心が求め合うすべてである。この者から感じ取る安らぎを、この先ほかの誰が与えてくれるだろうか。――否、そのような存在がふたたび現れるとは到底思えない。
「愚かなのは、……自分も同じです」
あの夜と同じように、ハッとするほど近くで声がした。そして、気づいたときにはすでに、懐かしい温もりにすっぽりと包まれている。衣を重ねたその上からでも確かに感じることのできる体温に、逃れる術さえ忘れてしまっていた。
「言い訳など必要ではありません、ただあなた様にお目に掛かりたかった。……決して許されることではないと、承知してはいたのですが」
「どうして……」
八重は男の胸で、小さく頭を振る。そうする間にも、ときめきが次から次へと胸より溢れ出でてきそうだ。
「あなた様には、すでに大切な方がいらっしゃるでしょう? ですから、このようなことはなりません。どうかお止めになって――」
この腕を振りほどくことなど、自分には不可能だ。だから、相手に懇願するほかない。
誰かを蹴落としてでも高い場所によじ登ろうとするならば、ときとして男を手玉に取ることも必要かも知れない。だが、ほかの誰ならともかく、この者では駄目だ。
「大切な方? それは、女人様よりお話のあった、あの者のことですか?」
もう少し、曖昧に濁した言い方をしてくれればいいのに。あまりにはっきりと言葉を返されて、八重は黙って頷くことしかできなかった。
その態度を見て取ったのか、男が喉の奥で小さく笑う。あまりにも失礼だとは思ったが、未だ返す言葉が見つからなかった。
「……あの者は、里に想い人がいるのですよ」
「え?」
「本人の口から直接聞きましたから、間違いはありません。すでに仮祝言は済ませた身で、近々里に戻り正式に所帯を構えるそうです」
あまりにも潔くそう告げるので、八重は少なからず驚いていた。
「で、でもしかし……このたびのお話は、女人様直々のお言葉であるのに」
使用人の身で、主の意向に背くことなどあってはならない。もしもほかに好いた相手がいたとしても、諦めるしかないのが道理ではないか。
「ええ、ですからその話は伏せて、私の口から直々に女人様にお断り申し上げました。私には生涯を掛けてお慕い申し上げている御方がいるので、ほかのどなたとも縁づくつもりはございません、と……」
さらに信じられないことを告げられ、八重の心の臓は今度こそ止まりそうになる。
「ご安心くださいませ」
震える指先が八重の頬に掛かる。その導きには従うほかなかった。
「この恋は、決して叶うことはないのですから」
柔らかく重なり合う唇。すべての言葉は、そこで途切れた。
つづく(111024)
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