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…7…

「花になる・番外〜八重」

 

 八重が湯屋から戻ったとき、男はいろりの前で文を広げていた。
「すべて首尾良くいった様子ですよ」
  そう言って差し出されたのは、八重にとっても目の前の男にとってもお馴染みとなったお手蹟(て)である。達筆であっても解読しやすい字面であるから、あっという間に読み進めることができた。
「まあ、誠におめでたきこと。しかしここまで上手くいくとは、とても予想できませんでしたわ」
  歯に衣を着せぬ物言いに、男はくすりと忍び笑いを漏らす。
「これもすべて、八重殿のご尽力によるものでしょう。妹になり代わり、自分からも礼を申し上げますよ」
  そう言って、言葉どおりに深々と頭を垂れるのだから驚いてしまう。八重は慌てて彼の身体を元のとおりに起こした。
「ま、まあっ、なりませんわ。ご立派な殿方が女子に軽々しく頭を垂れるなど。暁高様、あなた様はもう少しご自身の立場をわきまえてくださらなくては困ります」
  そしてふたたび顔を上げた人としっかりと向き合う。
「奥ゆかしきことは美徳と申しますが、あまりに度が過ぎては周囲より失笑を買ってしまいます。どうか、常に堂々としていてくださいませ」
  あれから一年と少し。
  今では正式に侍従職を与えられ、誰にも憚ることのない堂々とした身分になったというのに、この人の真心は今も変わらない。頂いた役職にすがり、我が身をさらに大きく見せようとする輩が多い中で、この者はあまりにも控えめすぎるのだ。
「そうですか、ではまず八重殿にお手本を見せていただきましょう。あなたほど、すべてに精通した心強いお師匠はおりませんから」
  さらにそのようなことを言う。半分からかわれているとは知りながら、やはり面白くない。
「嫌ですわ、暁高様は。すぐそのように仰るのだから」
  できることなら、可愛い女子になって甘えてみたい。そう思うのに、ついつい気位の高さが先に出てこのようなやりとりを繰り広げてしまうのだ。
  ……それでもまあ、だいぶうち解けたと言ってしまっても良いだろう。
「本当に、憎めない御方だ。……八重殿に敵う者など、果たしてこの世に存在するのでしょうか。もしも名乗りを上げる者がいれば、是非その顔をしかと拝んでみたいものです」
  そして後ろから静かに抱きすくめられる。ここは温泉宿であるから、ふたりの身体からはほんのりと同じ花の香りがした。この海底の地にはある特定の職に就く者を除いては湯船に浸かる習慣はないが、このような湯治場では特別である。八重にとっても、今宵が初めての経験であった。
「まあっ、なんとひどいことを仰るのでしょう。それでは、わたくしがまるで鬼か化け物のようではございませんか」
  そんな風に強がりながらも、八重は自分を包む男の腕がひどく震えていることを知っていた。
  未だに信じられない心地でいるのであろう。それも無理はない。
  最初に若様からこのたびのお話を伺ったとき、八重自身もあまりの無謀ぶりに開いた口が塞がらなかった。主に対する態度としてはおよそ褒められないものではあったが、それほどの驚きぶりだったというわけである。
  自分の恋人であるこの人に、里に残してきた妹がひとりいることは以前から聞いていた。この世でふたりだけ、同じ母から生まれたかけがえのない存在。彼がその者を心より愛し慈しんでいることは、言葉尻からでもはっきりと感じられた。
  あの口うるさい女人様のお眼鏡にかなうほどの男の妹なのだ、いったいどのように優れた心映えの女子なのかと内心とても期待していた。だが、蓋を開けてみればびっくり。場末の田舎者だとは聞いていたが、基本の「き」の字もなっていない悲惨な有様には、目を覆いたくなるほど驚愕した。
  どうしたらあのようにお育ちになれるのか。御母上を早くに亡くしたとは聞いていたが、それでもあれだけの豪商ならばしかるべき世話役をつけてしっかりとしつけるのが当然のことであろう。
  しかもそのような情けないなりでありながら、恐れ多くも兄上と同じ御領主様の御館に出仕しようと願っていたと言うのであるから言葉もない。
  このたび、若様から仰せつかったのは、その娘子を立ち振る舞いから日常の細々とした所為、そして手習いの数々までを女人様にどうにか合格点がいただけるまでに身につけさせることであった。だが、これではあまりに荷が重すぎる。すぐにご辞退申し上げようとしたが、それでも引くに引けない事情があった。
  ――あの者が見事女人様の目に留まった折には、お前たちが一緒になれる手はずも整えてやろう。
  あまりに分の悪い賭であったが、そう言われてしまえば従うほかなかった。
  八重としては自分の実家にはなんの義理もないし、いざとなれば愛しい御方とふたり、手に手を取り合っての逃避行も悪くないと思っていた。その話を実際に若様に申し上げたところ、「女子の夢物語にはついて行けない、そのようなことは絵巻物の世界でしか成立しない話だ」とか、一笑に付されてしまったが。
  ただ、恋人の立場になればそれも微妙である。ただ人の、それも流浪人となれば、仕事を探すのも大変であろうし、ふたりして苦労するのは目に見えていた。もしも、なにか勝算のあるものがあるのだとしたら、それにすがってみるのも悪くない。
  それになにより、あの女子と出会ってからの若様はそれまでの世捨て人のような顔向きが嘘のように、生き生きとなさっていた。それはお仕えする者としても誠に喜ばしいことだと思う。このたびすべてが上手くいったとして、一番の苦労を背負うことになるのは当事者の娘子ではあるが、そんなことこちらの知ったことじゃない。
  もしも大儀を成し得たかったら、そのためにいくらの苦労も背負わねばならない。それは、当然のことである。こちらとしても乗りかかった船だ。もしも正式なご要請があれば、今後とも直接の手ほどきをしようと考えている。
  なにより、このたびのことで皆が一様に幸せになれるのだ。こんな喜ばしいことがほかにあるだろうか。女人様は未だに八重と男の仲を少しも疑ってはいらっしゃらないが、若様から直々にお話くださればそう悪くない縁だと応援してくださるに違いない。
  本日早朝に、若様はその娘子を伴って御領主様の御館へと舞い戻った。そこで早速、女人様との謁見を済ませ、その場で相応の手応えを得たということである。
  火事場の馬鹿力とはよく言ったもの。今回、その言葉どおりのことを目の当たりにして、この世には常識では計り知れない強い力に支配される瞬間が確かにあるのだと悟った。
「……お疲れになりましたか? 本当に、このたびは八重殿の大手柄でございました」
  この男の腕の中は変わらず心地よい。確かな役職を与えられ皆から一目置かれるような身分となろうとも、自分を慈しんでくれる気持ちがそのままなのが嬉しい。
「まあ、……ご本人の兄上からそのように労りのお言葉をいただけるのはとても幸いなことですわ。わたくし、とにかく必死に頑張りましたもの」
  これは少しばかり行き過ぎた発言かも知れない。
  正直、自分ひとりの力ではこのような大儀を到底やり遂げることはできなかった。やはり、当人の心の中にはっきりした信念があったからこそ叶ったのではないか。もしかすると、自分では気づいていないかも知れない。だが、人を愛する気持ちは、なにごとにも勝る強き力を宿しているのだ。
  ――そしてそれを、八重はすでに身をもって知っている。
「それで、……今宵もこれでおしまいにするおつもりですか?」
  女子の身でここまで挑発めいた言葉を投げかけるとは、あまりにはしたなく嘆かわしいことである。しかしながら、この男は互いに想いが通じ合ってからも決して一線を越えることがなかった。そのあまりに強靱な自制心には、八重の方がしびれを切らしてしまったほどである。
「そのように言われましても。未だ、八重様の御父上よりお許しがいただけていない身の上でありますから……」
  まったく情けない男だと思う。好いた女子が手に届く場所にありながら、どうしてここまで自分を抑え込むことができるのだろう。
「もうっ、暁高様はわたくしよりも、わたくしの父の方がお好きなのですか? もったいなくも若様がこのようにお膳立てをしてくださったのに……あんまりでございます」
  少しばかり芝居じみてしまっただろうか、だがそれも許される範囲だと思う。
  本来ならば、使用人の立場として主殿と行動を共にしなければならないところ、特別のお計らいでねぎらいの宿を提供されたのだ。たぶん若様は、ふたりがとっくに男女の仲にあるとお思いなのだろう。
「しかしながら、……八重殿」
  男の腕が少し緩む。そして、静かに身体の向きを変えさせられ、互いに向かい合うかたちとなった。
「自分も、今までずっと堪えて参りました。いよいよそのときが来たのだと思うと、自分を抑えることができません。そのお覚悟は……宜しいですか?」
  そして交わされる口づけは、今までになく熱く濃厚なものであった。それはまるで、なにかの始まりを告げるかのように――
「あ、いえっ……その」
  男の瞳に今までにない色を見つけ、急に心細くなってしまう。
「あまり乱暴なのは困ります。わたくし、その……初めてなのですから」
  彼は喉の奥で低く笑うと、再び唇を重ねてきた。甘やかな語らいに我を忘れているうちに、自分を包んでいたはずの心許ない寝装束が見る影もなくなっている。
「……わかっておりますよ」
  男は八重を軽々と持ち上げると、その胸元に愛おしげに顔を埋めた。
「自分はこれから、八重殿をこの世で一番幸せな女子にして差し上げます」
「まあ……それはずいぶんと自信がおありなのですね」
  八重も負けじと男の首に腕を回す。だけど、そこまでが彼女にできる精一杯であった。
「もちろんです、あなた様をいただくからにはそれほどの覚悟が必要ですから。これから、誠心誠意をもって尽くさせていただきます」
  どうして、ここまでの男に出会えたのだろうか。ここに来るまでのすべてが、都合の良い夢だったのではないかと不安にすらなってくる。
  しかし、それを打ち消してくれるのが、男のくれる熱さ。それを求め続けることで、なにかが変わっていく気がする。
「……暁高様っ……!」
  愛おしい人の名を呼び、その腕にしっかりと抱き取られるとき、八重の中に静かに宿っていた蕾が静かにほころび始める。やがて匂やかに花開くときを待ちながら、ふたりは柔らかな鼓動を重ね合っていった。

 

つづく(111026)

    

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