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「花になる・番外〜八重」
天を染め上げる夕暮れの朱が、板間を明るく照らしていた。
艶やかに磨き込まれたその場所に長く伸びた影法師。冴え冴えとした琴の音に合わせて、右へ左へと移動する。しかし、八重は突然、爪弾く指先を止めた。
「今、足が逆でしたね。それから、右手の角度も正しくありません」
淡々とそう告げてから、ゆっくり顔を上げる。その眼差しの先には呆然としたまま立ちつくす、今ひとりの女子の姿があった。
「……何故、そのようなことがおわかりになるのですか。一度もこちらをご覧にならなかったのに」
八重は少しばかり眉をひそめると、変わらぬ口調で言い放った。
「その程度のことでしたら、直接拝見せずともわかります」
どうしてこのようにわかり切ったことを聞いてくるのか、それが謎である。
ただいま稽古をつけている「梅香の舞」、踊りの道では初歩の初歩と言える作品。目を瞑ったままでも、気のささやかな変化で正しく動けているかどうかくらい感じ取れる。
しかしながら、多くの事柄においてそうであるように、この舞もたいそう奥深い。正確に踊ることは誰にもできても、ただ型どおりにするだけではただの薄っぺらい仕上がりになってしまう。踊り手の人となりがすべて表れる、隠し立てのできない演目である。
「さあ、それでは最初からもう一度。途中、足が遅れる部分がありますから、そちらも十分にお気をつけくださいませ」
すると、たちどころに悲痛な叫びが上がる。
「ええっ、もうこれ以上は無理です! 私、足がフラフラで……」
そう言いながら板間に座り込んでしまった娘に、八重は大きなため息をついた。
「……そのように悠長なことを仰っている暇などございません。本番は明後日、明日の通し稽古までに完璧な仕上がりにしておかなくては。皆様の前で恥をかかれるのは、ほかの誰でもない、貴子様御自身なのですよ」
まったく、女人様にも困ったことだ。
近隣の者たちをあまたと招いて執り行われる本館の春花の宴、そこでは今の季節にふさわしいこの舞を披露するのが毎年の恒例になっている。今年の舞姫として白羽の矢が立っていたのは八重だったのだが、直前になってそのお役目がこちらにいる貴子様へと変更になったのだ。
ご婚礼の儀に先立ち、新しく一族に加わるこの人を皆にお披露目したいという腹づもりなのだろうが、このままでは目も当てられぬ有様である。どうにかかたちだけでも整えたいと思うが、肝心のご本人が音を上げているのだからどうにもならない。
「このたびは鴻羽様の御兄上である春霖様も、奥方様やお子様方と共に都より里下がりをされます。さらに南峰の上の姫君様や西方にお出でになっている中の姫君様も、わざわざお越しになると聞いております。久方ぶりにご兄弟が一堂に会するのですから、ここで手を抜くことは許されませんよ」
さらなる重圧を与えるのも可哀想かとは思うが、これも事実なのだから仕方ない。当日になって慌てるよりは、前もって情報として伝えておいた方が良いだろう。
「そっ、それは……重々承知しておりますが」
素直に美しく伸ばした髪も花色に染まる頬も、それはそれは愛らしい。他人を蹴落としてでも上を目指してゆく者ばかりがひしめき合う屋敷においては、稀少な存在とも言えるだろう。
しかしながら、この方はこれから先、あまたの困難を越えて行かなくてはならないのだ。そのためにも、第一関門は無事突破して欲しい。
「貴子様」
突然慣れない場所に連れてこられたのだから、たいそう気疲れなさっているとは思う。しかし、甘い顔をしている暇などないのだ。
「お立ちくださいませ。そして、扇を前に。最初の一呼吸で、流れに乗ります。さあ――」
そう言って、八重が琴の弦に指を置いたとき、何の前触れもなくひょっこりと顔を覗かせた御方がいらした。
「相変わらずかなりの鬼師匠ぶりだな、八重も」
ハッとして声のした方を振り向くと、そこにはこの対の主である御方が立っていた。出先からお戻りになったばかりで、まだお召し替えも済ませていない。ご隠居殿へのご挨拶もそこそこに、こちらにお出でになったのであろう。
「まあ、これは若様。お帰りなさいませ」
まずはその場で座したまま頭を垂れ、礼を尽くす。そして、そのすぐあとで、後ろにいらっしゃる方に声を掛けた。
「貴子様、主様のお戻りです。まずは、お出迎えのご挨拶をなさってください」
今はもう、この対の女主人となられたのだから、そのお立場としてふさわしい振る舞いをして欲しいものだ。いくら田舎暮らしが長かったとはいえ、早くこちらのやり方に慣れてくださらなければ。
「あ、はいっ!」
彼女はすぐさま立ち上がって前に出ようとしたが、あまりに慌てていたのか袴の裾を踏んですぐに転んでしまう。これでは女の童の方がまだマシである。
「いたたたた……っ……」
すぐさま駆け寄って手を貸して差し上げても良いのだが、八重も、もうひとりの御方もそうする素振りはない。当人もそのことは最初からおわかりになっているご様子で、さっさとご自分で体勢を整え直した。
「お、お帰りなさいませ、……殿。長らくのお務め、誠にお疲れ様でございました」
しかも転んだ拍子に鼻の頭をすりむいたらしい。どうして咄嗟に手をついて身体を支えることができないのか、それが不思議である。
「ただいま、留守の間になにか変わったことはなかったかな」
表向きはお優しいお言葉をかけているように見えるが、その口元は笑いを必死で堪えている。すでに、このたびの宴の話もお耳に入っているのであろう。
「良いところへお戻りになりました。この先は若様にも同席していただいて、稽古を続けましょう。どうぞこちらへ、すぐに敷物をご用意いたします」
哀れな女主人が途方に暮れた顔をするのも構わず、八重はそそくさと立ち上がる。すると、すぐに主殿の声がした。
「いや、今日はこれくらいにしておかないか」
そして、鴻羽様は開いた扇を口元に当てる。
「三日ぶりの帰館だ。いつまで八重をここに引き留めていては、僕が恨まれてしまうからね」
仮祝言を済ませたあと、ふたりは屋敷表に独立した居室を与えられていた。本来ならば所帯用の長屋暮らしが当然であるから、これも格別の計らいである。
「やあ、八重殿。お帰りなさい」
居室にはすでに灯りがともっている。慌てて戸口から中へ入ると、すぐに声をかけられてしまった。
「そこの桶に水を汲んであるから、使ってください」
そう言って、手ぬぐいまで差し出してくれる。これでは立場が逆ではないか。八重は恥ずかしさのあまり、俯きながら足を清めた。そして板間に上がると、そっと前に進み出る。
「お帰りなさいませ、暁高様」
このたび夫は鴻羽様のお伴で領地の見回りに出ていた。広い土地をくまなく回るため、一度の務めに幾日も掛かってしまう。今宵はようやくふたりきりになれるが、明日はまた宴の準備で忙しい。そうなればお互いにいつになったら戻ってこられるのか見当がつかなかった。
「ただいま、八重殿。宴のことは女人様に伺ったよ、妹のことでいろいろと世話をかけてしまうね」
すまなそうに告げられると、それだけでもう胸がいっぱいになってしまう。
「いえ、これも大切なお務めですから。この先もできるかぎりのことをさせていただきます」
「それは頼もしい限りですね」
彼はそう言うと、少し目を細める。そして、なにかを含んだ眼差しで八重を見つめた。
「実は今日、こちらに戻る途中で八重様のお父上とお目に掛かりました」
「え?」
思いがけない言葉に、八重は驚いて言葉を返す。
「若様と妹との婚礼の儀が執り行われたあと、俺たちも正式にお披露目となるようです。今は、その準備に掛かりきりだとか」
そのときのやりとりを想像するのは容易い。あの父のことだ、若様が同席してくださったとはいえ、一筋縄ではいかなかったはずだ。
鴻羽様の正妻に別の女子が決まったと聞いても、それならば側女として取り立てて欲しいと恥ずかしげもなく言ってのけたほどの人だ。女人様のお口添えもあり、夫を婿に迎えることを渋々同意した様子だが、内心はまだ面白くないのだろう。
「そのようなお顔をなさらないでください。八重殿が憂うことなど、なにもないのですよ」
夫はそう言って、八重を抱き寄せる。最初の頃こそは躊躇いがちな行為であったが、近頃ではその手つきにも迷いがなくなっていた。
「俺は八重殿とこのように過ごせるだけで、夢のようです」
わたくしも、と言いかけた言葉が唇で塞がれる。しばらく甘やかな語らいに酔いしれたあと、彼はふと思い出したように告げた。
「そう言えば、本日女人様よりお話がありました。西の領地境の分所で欠員が出たそうなのです。しばらくそちらに出向いてはどうかとのことだったのですが……」
八重が大きく目を見開くと、夫はすまなそうな眼差しになった。
「そのような寂れた場所に八重殿をお連れするのは気が引けますね。やはりこのお話はお断りした方が――」
「いいえ」
首を大きく横に振って、八重は彼の言葉を遮った。
「有り難いお申し出ではございませんか、是非参りましょう。きっと新しい地でも、素晴らしいことがたくさんあると思います」
「しかし……八重殿はそれでよろしいのですか?」
その問いかけにはすぐに答えず、八重は彼の胸へ顔を埋めた。
「わたくしは暁高様のお出でになるところ、どこへでもお伴いたします」
あの日、預かった花たちはそのまま八重の手元に置いていた。手のひらに包めるほどのささやかな幸せがあれば、十分に暮らしていける。そのことをすでにふたりは知っていた。
背に回った夫の腕に、ぐっと力が籠もる。その愛おしい息苦しさに酔いしれながら、八重は静かに目を閉じた。
了(111028)
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