TopNovel花染めの指先・扉>花なんて、いらない・1


「花染めの指先」番外
…1…

 

 

 今年の春は嫌い。

 薄桃色に染まった懐かしい風景も、私の心を少しも和ませない。それどころか、さらにイライラが募って、こめかみの辺りがじんじん痛くなる。

 だからきっと、来年も、その次も、ずっとずっと好きになれないままだと思う。

 

「あーあ、何でこんなことになるのよ……!」

 本当に、ここ数ヶ月は何もかもが信じられないばかりだった。悪い夢を見ただけと気持ちを落ち着かせても、いくら新しい目覚めを迎えたところで事態は好転するどころかさらにひどいことになっていく。挙げ句の果ては不眠症。じりじりと一睡も出来ないままに朝を迎えることもたびたびだった。

 ―― こんなはずじゃ、なかったのに。

 何度そうひとりごちしたことだろう。胸の中にはどろどろした澱(おり)が溜まっていて、それを吐き出すあてもない。
  だって、おかしいの。ちょっと前までは、私はいつもたくさんの人に囲まれていて話し相手には事欠かない感じだった。なのに、どうしたことなの。今となっては三度の食事に部屋に戻らなくても、心配してくれる人はひとりもいないわ。
  こんなのって、ひどすぎる。絶対に納得できない。ほんのちょっとばかり立場が変わっただけじゃない、それなのにどうしてみんな手のひらを返したように冷たくなるのよ。
  親しくしていた頃にはね、かなり良くしてやったと思う者もいるのに。彼女たちも、今では近寄ってすら来ない。何なの、あれ。

 ―― ま、いいのよ。もともと、それほど好きだった相手でもないんだし。

 屋敷の裏手は小高い丘になっていて、この土地一帯をくまなく眺めることが出来る。
  遠く向こうはぼんやりと霞んでよく分からない。だけど、世界は私が思っている何倍も広くて思いもかけないことがたくさん起こっている。楽しいことも面白くもないことも、いっしょくたになって。
  そんなことを考えるようになったのも、先の一年を違う土地で暮らしたからだと思う。訓練校での課題は腹が立つほど退屈で少しの興味を持てなかったけど、それも凱の近くにいるためだと思えば我慢できたわ。

「何だ、またこんなところでサボっていたのか。さっきから伯母さんが探していたよ?」

 ―― と。

 背後からいきなり声をかけられても、すぐには振り向く気にもなれなかった。分かっているのよ、急に現れて私を驚かせようとしていることくらい。本当に子供っぽいんだから、こういうところは全然変わってないのね。

「いいわよ、母上のことなんて放っとけば。下手に相手をしたりしたら、また山ほどの愚痴を聞かされるわ」

 本当に煩わしいばかりなんだけど。今の私の話し相手と言ったら、その母上くらい。とりあえず私を産んでくれた人で、この敷地の所有者の姉に当たる人なんだけど。もう、一緒にいると胃がムカムカして気分が悪くなるほど愚痴っぽいんだから参っちゃう。
  このところの騒動もようやく鎮まって私の心も少しは落ち着いてきたかと思っていたら、突然やってくるんだものね。あの人はずっと田舎に引っ込んでいればいいのよ。いくら羽振りのいい実家が好きだからって、こうちょくちょく来られてはいい迷惑だわ。

「また、そんなことを言って。わざわざ遠くから出てきてくださったのに、伯母さんが可哀想だよ」

 そう言うと。男は私に断りもなく、さっさとすぐ隣に腰を下ろした。こういうふてぶてしいところもすごく嫌い。どうしてこの人、私がむかつくことばかりしでかすのかしら。

「そう、ずいぶん優しいことをいうのね。それなら、私の代わりにあんたが母上のお相手をして差し上げればいいのよ。ま、せいぜい頑張って」

 全く、そこまでする気はさらさらないくせに、人に説教するなんて十年早いわ。だいたいね、私よりも三月も遅れて生まれたのに偉そうな口をきくのは止めて欲しい。

「だいたいあんただって、まだ昼前の仕事が残っているでしょう? こんなところでサボっていていいの」

 人のことをとやかく言えるほど、こっちも真面目にはやってないんだけど。とりあえず私の従弟に当たるこの男は、すべてにおいて情けない。
  幼い頃から親元を離れてここの屋敷で生活しているのは私と一緒。上に跡目に決まっている兄がいて、実家では用なし。それなら手に職を付けて一人前になってもらおうということらしい。右肩上がりの売り上げを続け人手がいくらあっても足りないここの工房では、優秀な人材の育成が急がれていた。そんなわけでこの男にも白羽の矢が立ったらしいが、当の本人は全く乗り気ではない様子だ。

「いいんだ、俺が下手に手を出すと他の職人たちの仕事が増えるだけだから」

 まあ、残念ながらこの男の言い分は正しい。すべてに付け凱―― この屋敷の跡目であり私たちにとっては従兄でもある―― と比べ続けられるのも可哀想だが、血筋のことを差し引いてもこの者にはたいした才能も技術もない。ある程度真面目に訓練すればそれなりの仕事はこなせるようになるかも知れないが、人の何倍も努力するだけの気力も残念ながら持ち合わせていないようだ。

「ふうん、よく分かっているじゃないの」

 そうは言っても、この男はこれからさきもずっと、あまり身が入らないままに日々の作業を嫌々続けていくんだろう。
  そして私も。いくら当初の目的がなくなったとはいえ、今更尻尾を巻いて田舎に戻るなんてまっぴら。あっちで親に言われるがままに、適当な男と縁づくなんて考えただけで気分が悪くなる。

「まあね、良くも悪くも自分のことはだいたい承知しているつもりだし」

 自嘲気味に笑う、こんな表情は結構いいかなと思う。すべてに対し投げやりになっている、そんな似たもの同士の私たちだ。

「そうね、それを言うなら私も同じようなものだわ」

 

 私の母上は、この染め絵工房の総領娘として生まれた。
  しかし思うように縁談がまとまらず、他の弟妹よりも嫁ぎ遅れてしまう始末。しかしどうやら私を産んで、ホッと一息。そしてその頃にはもう、彼女の次の野望が一人歩きを始めていた。
  幼い頃から親元を離れて私がここにやってきた理由は、何も一人前の職人を志していたからではない。自分よりも二年先に生まれて年回りも合う従兄と将来は一緒になることを約束されていたのだ。とかく結婚となると、そこには色々と面倒ごとが起こりやすい。しかし身内同士であればそのような煩わしさもないと大人たちは考えたのだろう。
  もちろん、最初のうちはそんな大人の事情など知るはずもない。でも多くの従兄弟や工房で働く職人たちの子の中でも、凱はすべてにおいて頭ひとつ抜けていた。そんな彼の妻となり、ゆくゆくはこの屋敷の女主となる。私には最初からそのような未来が待っていたのだ。周囲の者たちもそれを当然と思っていたし、凱だって異存はなかったと思う。

 ―― なのに。

 あの思い出すのも忌まわしい訓練校で、凱はひとりのみすぼらしい女子に夢中になった。最初は彼もそのことを周囲にも相手にも気づかれぬように過ごしていたと思う。でも、そんな下手な演技で私の目を誤魔化せるわけもない。私はずっと彼の側にいた、だから些細な心の揺らぎにもすぐに分かってしまうのだ。
  だけど、それも一時のこととタカをくくっていた。私たちにはすでに約束された将来がある、里では皆が祝言の支度を進めてくれている。望まれた縁談をフイにするほど、凱は愚かではないはずだ。
  あの女と自分自身を比較して、何が負けているとも思わなかった。少しくらい染色の才能があったからといって、それが一体何になるの? 女子に余計な技量があったって邪魔になるだけじゃない。本当に馬鹿な女、そんなことじゃすでに話の決まっている許嫁とだって上手くいくはずもないわ。

 自分のことは、よく分かっているつもりだった。残念ながら服飾に関する技量は何ひとつ持ち合わせてはいない。でもものを見る目は確かだったし、自分や周囲の人々を一番美しく見せる技も承知していた。
  だから訓練校で知り合った他の候補生たちからはとても頼りにされていたと思う。課題の色彩についても、日々の衣の合わせ方についても、皆は先を競って私に質問を浴びせかける。
  顔かたちだって悪くない。それに、手入れを怠ることのない金の髪は南峰の民の誇り。常に美しくいよう、常に愛らしくあろう。誰よりも凱の隣にいることがふさわしい女子であること、それこそがただひとつの目標だった。
  私があの女子に負けるはずはない。凱も男だ、たまには変わった女子に心を動かされることもあるだろう。でもそんなのは一時のこと、最後は必ず私の元に戻ってくる。

 揺るぎない自信があったはずだ。なのに、何故か心のどこかで不安がつきまとっていた。自分にはない才能をやすやすと手に入れているあの女子が疎ましい。しかも憎らしいことに、ある日を境に彼女は自らを美しく調えることを思い出していた。どうして以前のように我が身のことなど顧みずに一心不乱に課題と向き合わないのだろう。急に色づくなど、信じられない。それとも、あんたも凱を意識しているというの……!?

 ―― 違う、そんなはずはあるわけない。凱は私のもの、誰にも渡すわけにはいかない。

 そう思ったら、もう必死だった。良い嫁、良い妻になれる絶対的な自信はある。だってそのために、人生のほとんどを費やしてきたのだもの。里の皆も、そう信じている。なのに……今更、それを覆すことなんて出来っこないじゃない……!

 最後の方は自分でも一体何をしているのかよく分からなくなっていた。でもひとつ確かだったのは、凱と自分の将来を絶対に守りたいという信念。それなのに、凱の心はどんどん私から離れていく。どうにかして繋ぎ止めたいと思えば思うほど、彼はあの女子の方へと想いを強く募らせていった。

「悪いが、今までの話はすべてなかったことにしてはくれまいか」

 訓練校でのすべての課程を終えて、里に戻ってから数日後。館主である叔父上にそう切り出されたときには、目の前が真っ暗になっていた。

「麻未、何もお前に落ち度があるわけではない。今まで本当に良くやってくれたと思う、それにこれからだって儂たちの娘同然にここで暮らしていて構わないのだよ」

 その言葉を持って、私は体のいいお払い箱となってしまった。もう誰も顧みてはくれない。以前は私を持ち上げてちやほやしてくれていた安っぽい者たちも、あっという間に去っていった。輝かしい将来を失った女子になど、もう用はないと言うのだろう。

 

「この先、どうするつもりなの? あと一月足らずで祝言だろう、それまでここに留まり続けるのかな」

 頭上に広がる天はぼんやりと霞んで、どんな色を乗せてもすべて滲ませてしまうように思われた。その問いかけに、私は改めて隣に座る男を見た。
  彼の名は稜(リョウ)という。従兄である凱を実の兄のように慕ってはいたが、この者にはどこか軽々しいところがあり、人当たりは良いのだが職人としては落第と言うしかなかった。

 ―― 全く、この飄々としたところは一年経っても少しも変わっていないのね。

 少しは大人になったと思っていたのに、相変わらず子供っぽくてつかみ所のない男。たまにこんな風に話し相手になるのは悪くないが、そうすることによってお互いに得るものは何ひとつない。

「さあ、どうかしら。結局のところ、なるようにしかならないのよ」

 きっと、もうしばらくしたら。嫌でも今後の身の振り方を考えなくてはならない日が来るのだろう。こんなところでいつまでも腐っているわけにはいかない。ましてや、幸せな夫婦(めおと)となったふたりの姿など、一瞬だって視界には入れたくないと思う。

 でも、今は。こうして頼りにしていた糸を無惨にも断ち切られてしまった凧は、導いてくれる流れもないままにただ泥の中に無惨に落ちていくだけだ。

「だったら。……実はひとつ、提案があるんだけど」

 稜はそこまで言いかけると、静かに立ち上がった。そして小袴に付いた枯れ草を払うと、もう一度こちらに向き直る。

「ここを脱出するのを手伝ってはもらえないかな。これは君にとっても、そう悪い相談じゃないと思うよ」

 

 それは突然のこと。

 訳の分からぬことを言われて呆気にとられているうちに、男はさっさと行ってしまう。後に取り残されるのは、私ひとり。そしてどこまでもぼやけた、今は大嫌いになった季節が目の前に続いていた。

 

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