TopNovel花染めの指先・扉>花なんて、いらない・2


「花染めの指先」番外
…2…

 

 

 久しぶりに本館(ほんやかた)から呼び出しがあったのは、その日の午後。

 ここを訪れることも正直気が重かった。以前は足繁く通っていた場所が、今では驚くほどに他人顔に見えている。渡りを過ぎていくあたりから、すでに頭痛がして引き返したくなっていた。

「……その、もう一度仰っていただけますか?」

 前にも話したように、こんなことになるまでの私は本館の叔父夫婦、つまり凱の両親から実の娘同然の扱いを受けていた。娘に恵まれなかったことをとても残念に思っている叔母は、何かに付け私を呼びつけ相手をさせていた。季節ごとの衣の入れ替え、仕上がったばかりの反物の吟味。それだけではない。買い付けに訪れる仲買の方々や上客の接待の席にも、私の存在は欠かせなかった。

「ああ、お前が驚くのも無理はない。だが悪い話ではないと思うよ、このたびのことは本家から直々に申し込みがあった話であるのだから」

 この「本家」という言い方も気に入らない。どうしてあの女の実家のことを、格上に扱う必要があるのだろう。もともとはこちらが分家であったのかも知れない、だが今の両家の勢いの差を考えればいつまでも些細なことにこだわり続ける必要はどこにもないと思うのに。
  呼び方だけの問題ではない、人のいい叔父は自分の代で川向こうの染物屋との親戚関係を復活させたいと切に願っていた。先代から家督を継いだときに始まり、それから十数年ものあいだ無駄なばかりの努力が続いていたのである。そしてこのたび、思いがけなく親密な関係が戻ろうとしていることを叔父は心から喜んでいた。

 でも、そんなこと。私の立場から言わせてもらえば、どうでもいいこと。それどころか、至極迷惑なばかりの話だ。

「縁談の話が来ているんだ。本家の養子となった御方に、適当な相手を見つけて欲しいとのことでね。そうなると年回りもちょうど良いお前が一番の適役だとふたりで話し合っていたのだよ」

 ―― 何それ、馬鹿も休み休み言いなさいって……!

 川向こうの染物屋に養子に入った男といえば他でもない、元はあの女の許嫁であった者ではないか。どうしてこの私が好きこのんであんな女の「お下がり」をいただかなくちゃならないの? そんなの、絶対に嫌よ、断固拒否するわ……!

「そうよ、麻未。とても良いお話だと思うわ。そういうことになれば、せっかく用意したあなたの支度も無駄にしなくて済みますしね」

 ひどい、叔母上までそんなことを言うなんて。何よ、ついこの間までは「麻未、麻未」って、鬱陶しくなるほどの執着ぶりだったのに。それが今では手のひらを返したようになっちゃって。
  そりゃあね、後ろめたい気持ちはあるでしょう。口では「とても残念だわ」とか仰ってもくれている。私はずっとこの夫婦の可愛い可愛い娘だった。いつか本当の娘となると信じていたから、頑張ってその期待に応えようと努力してきたわ。

「もちろん、わたくしたちもいつまでもあなたをここに置いておきたいわ。でもそれでは、あなたの為にならない。やはり女子は良き伴侶を得て子を産み育てることで真の幸せを掴むものなのよ」

 ほらまた、善良な館主を気取っちゃって。

 もうとっくに、あんたたちの本性なんて見抜いているんですからね。そりゃ、口ではどうにでも言えるでしょうよ。でもはっきりした態度で示してくれないことには、こっちはどうにも納得することは出来ないの。
  そんなに私が可愛ければ、どうしてもっと強く凱を説得してくれなかったのよ。おふたりが気を確かに持ってくれれば、こんなことにはならなかった。本当に口惜しいったら、ありゃしない。私、信じていたのに。夫婦揃って腰抜けなんて、全くおめでたすぎるわ。

「で、でもっ……まだ私は……」

 だって、考えてもご覧なさい。いままでずっと、凱の妻になること、この家の女主人になることだけを夢見て生きてきたのよ。それなのに何? それが出来なくなったから、さっさと次に決めろってどういうこと。

 しかし叔父の方は私の態度を、ただの恥じらいであると考えたらしい。にこやかな表情はそのままで、さらに話を続ける。

「実はもうすでに、お前の母には話を通してある。姉上も大変お喜びであったよ。お前さえ良ければ、明日にでも本家に挨拶に行きたいとのことだ。本当に良かった、これで私も肩の荷が下りたというもの……」

 ―― 何それ、最低すぎっ! 人の承諾も得ないで勝手なことするんじゃないわ、いい加減にしてよ。

「そうよ、麻未。いつまでもこんな風にしていても良くないわ。あなたの気持ちも分かるけど、せっかくのご縁ですもの、大切にしなくては」

 何よ、体裁ばっか取り繕って。そんな言葉で騙される私じゃないわ、これでいい厄介払いが出来たって思っているんでしょう。そんなの、絶対に許さないから。

「い、いいえ! でもっ、……でも私は……」

 凱が良かったのよ、凱じゃなかったらいらない。その上、あの女のおこぼれを頂戴するなんて、まっぴらごめんだわ。どうして分かってくれないの、適当に話を進めようとするの。私はおふたりが自由に動かしていい「もの」ではないのですからね、ちゃんと血の通っている人間なんだから……!

「―― 麻未」

 そのとき、不意に叔父の声色が変わった。今までの優しい包み込むような響きではない、凛として有無を言わせない「家長」としてのそれである。

「あれこれとここで難しく考えるより、一度相手の御方にお目に掛かってはどうだ。話はそれからでいいじゃないか」

 じょ、冗談じゃない! それって、もうほとんど話も決まったと言うも同然じゃないの! 嫌よ、嫌、絶対にお断りする! 何言ってるのよ、駄目なものは駄目なのっ。

「でっ、でもっ―― 」

 もう、ほとんど半泣きの状態だった。どうしてここに凱がいてくれないのか、私のことをしっかりと守ってくれないのか、それが分からない。今までの私のたゆまぬ努力は一体何だったの? あっという間に全部帳消しにするんじゃないわよっ。

 ―― と、そのとき。

 遙か後方から荒々しい足音が響いたかと思ったら、背後の襖がすっと開く。もちろん、私は絶対的な期待を込めて振り向いたわ。でも、そこに立っていたのは予想とは全く別の人物だった。

「どうしたんだ、稜? 今、大切な話をしている最中だ。何かあるなら、後にしてくれまいか」

 叔父の視線は私を通り越して、鋭くその者を睨みつけていた。すでに心得ている者でなくても、このふたりの間に横たわる隔たりは一瞬のうちに理解できると思う。親孝行で頼りにされている凱とは似ても似つかない稜は、叔父夫婦にとっても悩みの種だったのだ。

「い、いえ! 後にされては困ります、今すぐにお目通りいただかなければと失礼を承知で参りました」

 そこまで言い終えると、稜は私を押しのけるようにして叔父の目の前を陣取って座った。彼は昼前と同じ安っぽい作業着に身を包んでいる。髪が後ろで無造作にまとめられているのもそのまま。ひどく急いでいるらしく、座してからも肩で大きく息をしていた。

「自分のしていることが誤りだと分かっているのなら、潔く出直したらどうだ。そのような態度、私は認めるわけにはいかないぞ」

 叔父の容赦ない厳しい言葉はさらに続く。しかし、一度頭を深く下げた稜は、それに従うことはなかった。

「いえ、今ここでどうしても俺の話を聞いてもらいます。話は聞きました、麻未を川向こうにやるというのは本当ですか? そのようなこと、勝手に決めないでください」

 ……え、ええとね。

 正直ね、ちょっとは嬉しかったのよ。こうして私の味方をしてくれることだけで。でも、いくらなんでも相手が悪すぎるわ。私がこれだけ渋っても無理矢理押し切られてしまいそうな勢いだったんだよ? それを、指の先程も信頼されていないあんたが、どうにかできるはずないじゃない。

「ばっ、馬鹿者! この役立たずが、偉そうな口を叩くではない! ええい、さっさと出て行け。お前、誰に向かってものを言っているのか分かっているのかっ……!」

 やおら立ち上がった叔父は、台座の上から、稜の頭上をかすめて蹴りをいれた。この態度も正直、褒められたものではないと思う。でも、今まであまりにもいい加減な生き方をしてきた稜にはそれくらいがちょうどいいと思っているのかも知れないわ。

「も、もちろんにございます……! でもっ、それでも……これだけは、どうしてもお話ししなくてはなりませんっ!」

 驚いたことに、いくら罵倒されても稜は少しもひるまなかった。この奥の間に入ってきたときの勢いはそのままに、しっかりとした目で叔父を見つめている。そのふたりの間で、叔母はただただおろおろするばかりだ。
  その後もしばらくはにらみ合いが続いたが、いつまでもそうしていても仕方ないと悟ったのであろう。最後に折れたのは叔父の方だった。

「―― では、話とやらを聞こう。その代わりお前の話が終わったなら、すぐに出て行ってもらうぞ」

 叔父はやれやれといった感じで座り直すと、額に軽く指を当てた。少しばかり頭に血が上りすぎたのであろうか、叔父にしては珍しいことである。

「はい、……ありがとうございます」

 稜は今一度、床に額が付くほどに頭を深々と下げた。そして大きく一度深呼吸して、再び顔を上げる。

「叔父上に折り入ってお願いがございます、どうか麻未を川向こうにやらないでください。この通りにございます」

 ―― え、何よ。そんなことを頼んでくれなんて、言った覚えもないけれど。

 思いがけない助け船に、心躍るどころか途方に暮れる想いがした。いきなりやって来て話に割り込んだかと思ったら、一体どういうこと?

 すると。彼は一度、こちらを振り向いた。そして、目で何かを合図する。残念ながら全く心の通い合っていない私たちでは、それが意味するものが全く分からない。でも、何となく、頷いていた。

「それは、どういうことだ? この話は、すでに麻未の母上も承諾したこと。今更、覆すわけにはいかないのだぞ」

 叔父も思いがけないことに呆然とした様子である。しかし、他の者たちが呆気にとられている中で、稜ひとりだけが毅然とした態度を守り続けていた。

「どういうこともこういうこともございません。俺と麻未はすでに将来を約束している仲、近々叔父上にもご承諾いただこうと思っていたところです。それなのに、このようなお話は困ります。ここはどうか、あちら様にお断り申し上げてはいただけませんか?」

 今度こそ、私は驚きすぎて腰が抜けるとのかと思った。だって……だって、こんなのってない。約束? そんなことした覚えはないわよ。それにどうして、よりによって私が稜と一緒にならなくちゃいけないのっ!?

「そっ、……それは誠か。そうなのか、麻未?」

 ほらほら、叔父上だって驚きすぎておろおろしているじゃないの。これって、悪い冗談もいいところよ。何なのっ、一体どうしたいというの……?

 稜は再びこちらを振り向くと、今度はしっかりした声で伝えてきた。

「そうだよな、麻未。お前からも叔父上にちゃんとお伝えしてくれよ。どうも俺の言葉じゃ、ご納得いただけないみたいだから」

 ……そんなこと、言われたって。一体どうしろって言うのよ? 

 でも、彼の真剣な眼差しを見ていたら、ここでちゃんと応えなくちゃという気持ちになってきた。どうしたのかしら、私。

「えっ……ええ、稜の言う通りです」

 きっと彼には何か考えがあるに違いない。今はそれが分からないけど、あとで説明してもらえばいいや。難しいことはそれから考えたって遅くないよね?

 そして。

 そう告げた瞬間に、叔父が見せた途方に暮れた顔がたまらなく可笑しくて、そこでようやく胸がすっとした。

 

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