「お帰りなさいませ」 昨日と同じ居室に帰り着いたとき、すでに寝の刻を遙かに過ぎていた。幼子を寝かしつけるために一足先に退出した人が、語り尽くせぬ感情を隠した笑みで迎えてくれる。 「お疲れになりましたでしょう。さあ、おみ足をこちらへ」 上がり口には足洗の水桶や手ぬぐいが前もって準備されていた。夜更けを過ぎて戻るときには、侍女にしとねの準備だけをして先に休むようにと伝えている。このように世話を焼かれることも久しぶりであった。 「……あなたこそ。今日は一日中歩き続けて、さぞ疲れたことでしょう。先に休んでいて良いと申したのに」 一度手を止めてこちらを見上げた彼女は、ゆっくりと首を横に振る。柔らかな後れ毛が辺りに舞い上がり、そこに控えめな燭台の輝きが流れてゆく。 多くは語らない、だがそれだけで十分であった。
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「順番が逆になってしまいましたが、こればかりは致し方ないでしょう。まずは今まで気を揉ませた方々にしっかりとお詫びすること、そこから始めないとなりませんよ」 何か大事が起こったときに臆することなく鮮やかに機転を利かせてくれるのが母の凄いところだと思う。一筋縄ではいかない者たちばかりが集まった都にあって竜王様の跡目となる若君を乳母という立場で立派にお育てした、そこで得た様々な教訓が今の父の領主としての地位を影でしっかり支える柱となっているのだ。 「あなたにここまで大胆な一面があったとは意外ですが……この先のことを思えば頼もしい限りですね」 この人はやはり表に出さない部分まで深くお見通しであるような気がしてならない。膝の上で握りしめた拳の内側がしっとりと汗ばんだが、それは一歩後ろに控えていた彼女も同様であったことだろう。
「……ははさま……!」 幾度となく訪れたことのある、山表の長の館。門番に用件を告げ、がっしりした門構えを気を引き締めてくぐると、彼女の父親である家主よりも早く庭に飛び出してきたのは美しく着飾ってすっかりと見違えたあの幼子であった。 「これ、うごきにくいです。でもおじいさまがきていないとだめって、たいせつなおきゃくさまがいらっしゃるからっておっしゃるの」 視野の狭い子供であるから、母親の後ろに控えている人影に最初は気付かなかったのだろう。他にもしゃべりたくて仕方ないことがたくさんあるらしく、ぱたぱたと両手を振って訴えようとする。 「亜津」 いくらかの混乱はあったのだろう。でも今この館で、この子がとても幸せに暮らしていることはすぐに分かる。バラ色の頬、きらめきを増した瞳。かつての暮らしの中でも決して失うことのなかった気質はさらに美しく磨き上げられていた。 「お……い、ちゃん?」 幼子の目に始めに映ったのは、光り輝くばかりの装束であった。普段はあまり派手な装いを好まない楸陽であるが、本日は妻問いに参ったのだから仕方ない。 「おいちゃん、おいちゃんっ! どうして、あづのあたらしいおうちがわかったの? あづ、おいちゃんにあいたいからずっとあのこやにいようとおもったんだよ。よかった、ちゃんとわかってよかった……!」 大粒のしずくがその瞳からこぼれ落ちるよりも早く、柔らかな身体をそっと抱き上げていた。そして衣が濡れるのも構わずに、しっかりと我が胸に抱きしめる。堪えていたものが全て解かれたように、しばらくは庭中に響き渡るような泣き声が続いた。 「おいちゃん、もうどこにもいかないで。あづ、おいちゃんがいないといや。もっといいこになるから、だからどこにもいかないで」 綺麗に整えられた髪も、すでにあちこちがほつれてしまっている。だがその中で、変わらぬ美しい輝きが楸陽をまっすぐに見つめていた。 「そうだな、……出来ることなら私もそうしたいものだ。あんな素晴らしい豆を育てた亜津に、今度は私が作り方を教わらなくてはならないな」 すべては、ひとつの出会いから始まった。もしもあのときに自分が通りかからなかったら、今もまだただひとりで闇の中を彷徨っていたのだろうか。 「亜津、私の館に来るか? そうすれば、ずっと一緒にいられるよ」 信じられない誘いに、幼子は母親とこちらとを交互に見つめる。一体何がどうなっているのか、それが分からないのだろう。こんな夢のような話を素直に信じろという方が無理だ。 「おいちゃんの、いえ? ……どうして?」 幼子は心細そうに母親の元に腕を伸ばす。小さな手のひらをそっと握り返しながら、優しい人はゆっくりと言い含めるように告げた。 「これからは、父上とお呼びしなさい。わかりましたね?」 そして、楸陽の腕から亜津を受け取ると、彼女は一歩先を歩き出す。 「さ、父の元へご案内致します。……どうぞ、こちらへ」
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「……納得したようですか?」 この子が一番の爆薬だと言うことは、楸陽も彼女もしっかりと心得ていた。利発なたちなだけに、簡単に言いくるめることは出来ないだろう。だが、そうは言ってもこのまま曖昧に済ませていてはいつか全ての源からほころび始めてしまう。愛らしいばかりの小さな口元。その場所から真実が暴かれることがあってはならない。 「さあ、どうでしょうか。でも心配には及びませんでしょう」 彼女は静かにそう告げると、半開きになった小さな手のひらを指さした。 「……春になったら、父上と一緒に畑に蒔くのだそうです。そのときまで、なくさないようにずっと握っているんだとか」 ―― この子も、また遠い未来を夢見ている。 楸陽は自分の胸の奥に温かいものが降り積もっていくのを感じていた。にわか親子の自分たちが、いつか本当にひとつになれるまで。心に蒔いた幸せの種を、ゆっくり静かに育んでいこうと思う。 「それはまた、気の長いことだね」 まくれ上がった上掛けを直してやっている彼女の手に、自分の手をそっと重ねていく。言葉のないまま、秋の長夜は静かに更けていった。 了(070907)
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