TopNovel玻璃の花籠・扉>あした語り・8


…8…

「玻璃の花籠・新章〜楸陽」

 

 ―― 今度こそ、全てが終わってしまったのだ。

 力なく開かれた手のひらには、やはり何も残っていない。不思議なほど安らかな心地で、楸陽は何よりも恐れていた事実を受け止めていた。年齢に似合わぬ深い皺が幾重にも刻まれた不格好なその場所を、日に何度改めていることだろう。
  最後に自らの手で関係を断ち切る。その方法として、あれほどまでに効果的な手段は他になかったと思う。この姿をひと目見れば、あまたの者たちが驚きの表情を隠すことも出来ず、あるいは眉をひそめて足早にその場を立ち去る。ただ人であれば、ここまで見てくれで蔑まれることはなかっただろう。あの両親や他の兄妹がいなければ、周囲の者たちの目も少しは柔らかいものに変わったかも知れない。
  幼き頃から朝な夕な己の頭上を通り過ぎた大人たちの不躾な視線たち。やり過ごす術も知らぬままに人知れず堪えることしか出来なかった長き日々が、積もり積もって彼の臆病心に拍車を掛けた。そのうちのほとんどは竜王様の都にあって異例の出世をした両親たちへの妬みの気持ちがかたちを変えたものに相違ない。そのことにようやく気付いたときには、もう後戻りが出来ぬところまで落ち込んでた。
  しかし突き詰めればやはり、何もかもが自分の弱さから生じたもの。今更、誰を責めることも出来ないのだ。
  彼女の隣にはおよそ似合わない姿であったのだから、諦めるしかなかった。あの美しい人も今度こそはこちらの思いを分かってくれたであろう。必ずそうであって欲しい、そして自らの手で新しい幸せを掴んで欲しいと思う。

 父の館に戻ってからすでに半月。領地が秋の収穫を全て終えるまでは取り急ぎの仕事もなく、朝餉の後に足を運ぶ本館でもただ暇を持て余すばかりであった。このように身体の空いた時にこそ、積もり積もった課題をゆっくりと紐解けばよいのだ……頭では分かっていてもなかなか行動に移せない。
  明るい日の中にあって、わざわざ部屋奥の薄暗い場所に机を移していた。そこで小さな灯りを頼りにひとり物書きをするのが一番はかどる。騒がしい場所もどうにも苦手であった。政(まつりごと)の取り決めで座を取り仕切らなければならないとき以外は、出来ることならばひとり静かに過ごしたい。

「だが、……それも我が儘と言われてしまうのだろうな」

 思わずぽつりと出た彼の独り言を耳にしたのは、我先にと咲き誇る秋の花々たちであった。隠居した祖父は若い頃から庭を整えるのが好きで、ことに自分が住まう本館から眺める見栄えには年老いた今もあれこれと口を出し手入れを怠ることがない。集落のどこかで珍しい花が咲いたと聞けばすぐに取り寄せ、目新しさも大切にしていた。
  薄紫の五弁花が、東からの気の流れにゆらりと揺れる。そろそろ夕刻が近い。静寂の中にあれば誰に告げられるよりも早く己の肌で刻限を知ることが出来るのだ。

「―― 楸陽様」

 障子戸の向こうから、聞き慣れた声がする。楸陽は手を止めてそちらを窺った。本館で自分に仕えている初老の侍女。笹谷同様に長きに渡り身の回りの世話を頼んでいる馴染みで、彼が構えなく接することのが出来る数少ないひとりである。

「何かな。奥の対からの呼び出しであれば、今は手が離せないからと断っておくれ」

 取り急ぎの用事以外は声を掛けないようにと前もって申し伝えてある。ならば、彼女の告げようとしている用件は十中八九祖母が絡んでいると判断した。夏の忙しさが通り過ぎたことで、手も口も早い「本館の女人」が俄然張り切りだしている。祖母付きの侍女たちの慌ただしい動きを見れば一目瞭然だ。
「何が何でも年の瀬までには」と意気込み、近隣の村々や西南の他の領主の元にもたびたびの文を送っているという。もちろん話の本題は、この家の跡目である楸陽の嫁選びにある。有り難いと思わなくてはならない立場にあるのかも知れぬと思うが、もうしばらくはそっとして欲しいと言うのが本心だ。祖母の気持ちも分かるが、ここに来て悪戯に慌てても良い結果は得られないと思う。

「いえ、そうではございません。先ほど早馬の文が参りましたのでお届けに上がりました、……こちらです」

 控えめに開かれた戸の隙間から差し込まれたものを、数歩前に進んで受け取る。その表書きを見れば、差出人が誰であるかすぐに分かった。渡りで控えている侍女も同様であろう。文を広げ読み出す彼の瞳にも輝きが戻ってきた。

「少し早いが、今日はもう居室に戻ろう。夕餉の膳もそちらに運ぶように申し伝えておくれ。それから、……少しばかり酒の支度もお願いしようかな」

 

◆◆◆


「おかげさまであちらもすっかりと片付き、懐かしい地へと舞い戻って参りました。やはりこちらは自分めの第二の故郷、表の門が見える頃には道中の疲れも吹き飛んでおりました」

 すでに日は落ち、薄暗くなった部屋には燭台の柔らかな輝きがひときわ眩しい。楸陽は祖父母の住まう本館から南に少し下った場所に独立した居室を持っていた。元服した歳に与えられたもので、以前父が使っていたものをいくらか手直しした建物である。
  仮にも直系の男子が住まう場所、古いものを壊して新たに建てても良いのではとも言われたが、長年廃屋になっていた割りに柱などはまだしっかりしており自分にはこれで十分だと思った。後々のことを考えて奥にもう一間建て増ししてもらったが、そこは今ではすっかり物置になっている。

「長い間、苦労を掛けたね。しばらくは大きな行事もないからゆっくりと休むが良い。骨休めを終えたら、お前にはまだまだやって欲しいことがたくさんある」

 主からの酌を笹谷は謹んで受ける。旅疲れにやつれた姿にも大仕事をやり遂げた晴れ晴れしい気持ちが宿っているように思われた。

「だが、お前も相変わらずの律儀者だね。一度里に立ち寄ってからでも一向に構わなかったのだよ。ここから改めて出向くとかなり遠回りになってしまうだろう」

 街道を南に徒歩(かち)で二刻ほど進んだところで東西に延びる細道とぶつかる。そこからであれば、笹谷の生まれ里は目と鼻の先であった。彼の息子夫婦や病弱な妻もそこに住んでいる。これだけ長きに渡り地方に滞在したのであれば、家族に会いたい気持ちは相当なものだと思う。

「もったいないお言葉にございます。しかしながら、取り急ぎ若様にお届けしなくてはならないものがございました故。無事にお渡しした後に、ゆっくりと帰郷させていただきます」

 笹谷は一度盃を膳に戻し、静かにふところを探る。やがて現れたのは何かを包んで膨れた懐紙であった。

「こちらにございます」

 恭しく差し出されたそれを、不思議な面持ちで受け取る。大人の手のひらよりも一回りほど大きな包み。見た目よりもしっかりとした重みを感じた。

「どうぞ、中身をお確かめくださいませ」

 促されるままに、懐紙の端を持って開く。穏やかな瞳の供はそれ以上は急かすこともなく、主の震える指先を温かく見守っていた。

「これは……」

 懐紙の上に艶々と若緑色の豆がぎっしりと並んでいた。否、大人しくその場に留まっているはずもなく開かれたその隙間から膝の上に床の上にと落ちて転がり出す。あっという間に楸陽の周りは緑色に染まっていた。

「もうしばらく枝で熟すべきでしたが、あいにく時間がありませんでした。こちらを是非、主様へと。幼き御方から申しつかりました」

 言葉が出なかった。問いかけに返答するべきだとは思うのだが、頭の中が真白になり全ての思考が吹き飛んでしまった心地である。これはまさしく、あの村を去る前日に愛しい幼子と共に土に植えたもの。やがて芽吹き花が咲き実を結ぶと分かっていたが、それだけ長い時間が己の隣を通り過ぎていたことに驚かされる。

 何もかもをなくした空虚な日々、しかし明日を夢見る命は健やかに天に向かって伸び続けていた。強く願えば必ず道は拓ける、不可能な未来など存在しないのだと。

「『念ずれば通ず』ということでしょうか。田舎育ちの手前もさすがに驚きました、まさかあのような荒れ果てた土地でこれだけの実りがあるとは。やはり人も作物も愛情を持って育てるのが一番です、慈しむ心こそが最大の栄養になるのですね。たった一握りの豆から教えられたものははかり知れません」

 笹谷は静かにそう告げると膝の近くまでこぼれてきた豆をひとつひとつ丁寧に拾い、主の手のひらの上に静かに戻した。

「何もかもをおひとりで守りきろうと気負われなくても宜しいのでは? 若様だけに重き荷を押しつけるのは手前どもの望みではございません」

 元の場所に戻り、笹谷は盃に残っていた酒をゆっくりと飲み干した。それから、自分の背後に向き直る。

「実は……山表の村長に頼まれてご息女をお連れしました。是非、直接お目に掛かりたいとのことです。手前の一存で、本館の方々にはまだお伝えしておりません」

 呼びかけに応じるように、静かに戸が開く。旅装束を簡単に改めただけの装いで静かに頭を下げる女人。柔らかな赤毛が床に扇の如く広がり、そこから春の匂やかさが立ち上ってくるようだ。
  しかし、楸陽の視線は全く別の場所に釘付けになっていた。淡い橙に茜の色を重ねたその衣には確かに覚えがある。

「……どうして」

 ゆっくりと女人の面(おもて)が上がったとき、楸陽は次の言葉を失っていた。

 

◆◆◆


 山表の村の長といえば、領主である父も一目置くほどの存在である。厳格な人柄で領民からの信頼も厚く、その一方で己の信念を決して曲げない強情な一面もあった。つい先だっても村の境界線のことで揉めたばかりである。父も仲介に入ったものの、生半可な助言では首を縦に振らずかなり骨が折れたとぼやいていた。

 あまり懇意にしているとは言えない間柄で、その名を聞いたときにも思い当たる節が何もない。しかし、まさかこのような偶然が起こって良いものなのだろうか。

 細く開けた障子戸の隙間から、涼やかな夜の気が迷い込んでくる。「後はご本人同士で」と笹谷が下がってしまい、何とも気まずいままのふたりだけが残された。

「……」

 ここに来た理由をまずは問わなければならないのだろう。それは分かっている。しかし、目の前の現実があまりにも信じられず、一体どのように切り出したらいいのかすら思い当たらない。何故、この期に及んで彼女が自分の前に姿を見せるのか。これが悪夢でなくて何と言おう。

「……お陰様でようやく父の元に戻ることが出来ました。自分から勝手に飛び出しておきながら今更と、長らく気を強く持てずにおりました。お心遣い、誠に感謝しております」

 朽ち果てた廃屋の中で見たか細い気配はどこにも感じられない。そうなのだ、この人はどこまでも頑なに強い女人であった。だからこそ厳しい現実にも堪え、幼子とふたり慎ましく生きていたのである。

「いや、……私は何も」

 わざわざ礼を言うために訪れたというのか、甚だありがた迷惑な話である。ようやく心が平穏の中に戻ろうとしているこのときに、再び余計な感情を波立たせて欲しくはない。

「いえ、何もかもがあなた様のお陰ですわ。娘も初めはかなり戸惑っておりましたが、あっという間に実家の両親に馴染むことが出来ました。長いこと意地を張っていたのはわたくしひとりだったのですね、目が覚めるとはこのようなことを言うのだと思い知った次第です」

 どうして、このように穏やかに微笑むのであろう。このように向き合えば、全てを包み隠さず見ることが出来るのに。しっとりと潤いを得た肌が、あの夜に増して美しい。自分はまだ、この人を諦め切れてはいなかった。それなのに何故、さらなる痛みを胸に受けなければならないのだろうか。

「それは……良いことをしました」

 今度こそ、この人は幸せになるのだ。震える胸で、しかし切なる願いが叶えられたことを喜ばずにはいられない。あの廃屋にふたりを取り残して行くことは、やはり不安であった。これからは両親の元で過ごすことが出来るのであれば、何事にも勝る幸いである。

 いつ、いとまを願おうか。平静を装いながらそればかりを考えていた。退出をしたものの、笹谷は必ずこの居室の表で控えているはず。彼にこの女人を託し、無事実家まで送り届けてもらわなくては。
  そうは思うものの、なかなか意を告げる言葉が続かない。この期を逃せば、再び語り合うこともなくなってしまう。この人は、自分の見立てた衣にわざわざ袖を通してくれた。柔らかな肌色に明るい陽の輝きが何と似合うのであろう。だが、これ以上の躊躇いは良くない、どうしても断ち切らねばならない。

「いえそれが……、全てが丸く収まったとは言えないのです」

 こちらの意が伝わったのだろうか。彼女は、しっかりと面(おもて)を上げてそう言った。

「わたくし、両親にひとつ嘘を申しました。ですから、……あなた様にもそのことをご承知いただかなければなりません。娘の、亜津のためにもどうかよろしくお願いいたします」

 つう、とまた一筋の気がふたりの間をすり抜けた。今宵は少し外が荒れている様子である。立ち上がって自らの手で障子戸をしっかりと閉じようとした楸陽の動きが、彼女の次の言葉で止まった。

「お許しくださいませ、わたくしは亜津をあなた様の御子だと両親に伝えました。共に逃げた男にはすぐに捨てられ途方に暮れていたところで出会い、わたくしどもはもう数年来の恋仲であったと。さすがに両親もにわかには信じられないと申しました。
  しかしわたくしは諦めませんでした、あなた様は素性も分からぬわたくしどもにとても親切にしてくださいました。ですから、……この先はどうぞ存分に恩返しをさせてはいただけませんか? いいえ、わたくしども母子のために、一番幸せな明日を与えてくださいませ」

「……」

 一体、この人は何を伝えようとしているのであろう。亜津が自分の子供? もしも紛れもなき真実ならば、これ以上の嬉しいことはない。しかしそれは違う。だが、真実を告げればようやく元の鞘に戻った彼女を再び路頭に迷わすことになってしまうのか。

「楸陽様」

 これほどに待ち望んだ呼びかけが今までにあっただろうか。偽りの素性のまま彼女の心に触れることがいつも心苦しくてならなかった。しかし真実を知ることで、この人の得になることはひとつもない。そう信じていたからこそ、堪えるしかなかった。

「父の元にも、こちらのご隠居殿の奥方様より文が届いているそうです。実家にはわたくしの他に女子がおりませんから、父も内心とても困っていた様子でした。わたくしが出奔したことも、体裁が悪いからと家人に口止めし内密に過ごしていたそうですし。
  しかしそうであっても、このような身の上で多くは望みませんわ。この先はこちらにお仕えして、身の回りのお世話などをさせていただけたらと思っております。そのことを、どうかお許しいただけませんか?」

 彼女は再び両手を膝の前に置き、頭を低く下げてその場にひれ伏した。細い指先が小刻みに震えている。女子の身の上で、ここまでのことをしでかすのはどんなにか恐ろしかったことであろう。嘘偽りで周囲を誤魔化すなどと言うことが、この人の得意であるはずもない。あのどこまでも純真で清らかな幼子を育てた人だ、類まれなき才に満ちた心映えを持っているに違いない。

 その一番奥にある心は、いったい何であろうか。

「志津殿、……どうぞ面(おもて)を上げていただけませんか?」

 静かに歩み出て、ようやくそう告げることが出来た。だがまだ、心がひどく震えている。それでもこちらの問いかけに応えてくれた彼女の濡れた頬を見たときに、どうにかして自分を強く持たなければと覚悟を決めた。

「初めからとても不思議に思っていたのです。どうしてあなた方母子は私を見ても、それほどまでに平然としていられるのですか? 亜津ほどの幼子であっても、なかなか側には寄ってきたりしないものなのに。まるで……夢を見ている心地でした」

 己を卑下する弱い心をいつか突き破りたいと夢見ていた。だがそれは想像以上に難しく、決して越えられない頂として今も目の前にある。誰からも忌み嫌われるのだと思っていた、だから陰に隠れて生きていかなければならないのだと信じていた。だがもしも自分ひとりの力では無理だとしても、どうにか乗り越えられる方法があるのかも知れない。

「それは……わたくしにもお答え出来ませんわ」

 彼女は真っ直ぐに楸陽を見つめながら、そう告げた。

「初めてお目に掛かったとき、わたくしの目にはわずかばかりの光しか判別することが出来ませんでした。でもその一方ではっきりと心の目を持っていたように思います。あなた様はとてもご立派で、そして温かくお優しい方でした。どうかすると薄暗い心に巣食われそうになっていたわたくしどもを、明るい場所に導いてくださった。わたくしはそれがあなた様の真のお姿だと信じております」

 膝の上で握りしめられた手が未だに震えている。とてつもない恐ろしさの中に、彼女は今も置かれているのだろう。それでもなお、前に進もうとしているのか。

「長いこと、わたくしは娘の幸せ以外に何も望むものはございませんでした。あの子さえ、明るい場所で生きていけるならわたくしなどどうなっても構わないとまで思い詰めておりました。でも……あなた様にお会いして、もう一度わたくし自身の幸せを思い出した次第です。
  あなた様はご自分の進む先が茨の道だと仰いました。しかし、わたくしにとってはその場所すらもこの上なき輝かしい場所に思えてなりません。どうにかして少しでもお側にいきたい、お顔を拝見できる場所にいたい。そう願ったからこそ、泥沼のような生活に別れを告げることが出来たのだと思います」

 何故、この人は自分をここまで信じてくれるのだろう。誰も与えてくれなかった勇気を思い出させてくれるのだろう。振り切りたくても、振り切れない。この切なる想いを、苦楽を共にしてきた侍従は全て知っていたのではあるまいか。

 絶え間なき不安も振り払えない心細さも、互いがしっかり寄り添えば越えていける。まずは信じることから始めなければ、何も起こらない。部屋中に広がる若緑の豆がそれを教えてくれる。

「志津殿……その」

 一体この気持ちをどう伝えたら良いのだろうか。一番良いやり方も思いつかないままに震える細い手をそっと握りしめた。

「明朝、あなたのことを祖母に伝えます。その上で、ご実家に亜津を迎えに行きましょう。ですから……その、今宵はこのまま―― 」

 言葉にならない想いごと、愛しい身体を抱きしめていた。

 

◆◆◆


 誰が活けてくれたのだろう、この夜を祝うように赤い花が窓辺に揺れている。何度も夢見た、そして諦めた。その切なる想いの果てが意識の狭間で見え隠れする。

「あっ……、はぁっ……っ!」

 かすれるふたつの吐息が絡み合い、さらなる深い場所にたどり着こうとする。夢にまで見たその柔肌に触れる指先が次第に痺れて感覚をなくしていく。どこまでが現実でどこからが幻覚なのか、いや目の前の全てが残らずつかみ所のない霞の如き願いなのか。

「志津殿、……志津殿っ……!」

 狂おしいほどに欲しかった、だからこそ諦めなければならないと思った。この人に自分と同じ苦しみを味わわせてはならない。そう信じたからこそ。

 乱れたしとねの上に、美しい肢体が跳ねる。何て綺麗なのだろう、こんな光景を今まで見たことがあっただろうか。男女のことなど、自分にとっては忌み嫌うだけの出来事でしかなかった。相手が嫌々相手をしてくれているのだと思えばどうしても積極的になどなれず、ただ己の生理現象を素直に受け入れるだけにその場を保たせようとしてきた。
  しかし、この人は違う。この人は真に自分を受け入れてくれる唯一の人だ。そう信じる気持ちが楸陽の身体をますます滾らせ、味わったことのない欲求に翻弄されていく。
  いきり立った自身を潤った場所に埋めた瞬間には温かいもので胸がいっぱいに満たされ、ようやくこの世の極楽を知った気すらした。こんなにもこの人を求めていたことに、今更ながら驚愕する。もう後戻りは出来ない、だが今はそのことが何よりも嬉しい。やはり諦めることなど出来なかったのだ、この人がいない世界は永遠に闇が続くばかりである。

 我を忘れて隅々までをむさぼるうちに、ふと場違いなすすり泣きの声を聞いた。ハッとして動きを止め、訪れた静寂に耳を澄ます。確かにその声は自分の下から聞こえてきた。

「如何しました?」

 何かやり過ぎたことがあったのだろうか。無我夢中だっただけに、何も気付くことの出来なかった自分が恨めしい。こんなに急ぎすぎてはいけなかったのか。そうだ、思えば今宵彼女がこのような成り行きを認めてくれるのかすら確認してなかった。

「……え……?」

 こちらの問いかけに、彼女の方がむしろ驚いている様子であった。ゆっくりと確認するように柔らかな頬をぬぐう。ひときわ大きなしずくが、そのまま首の付け根まで流れ落ちた。

「あの、……わたくし」

 小さく頭を振って、彼女は口籠もる。しかしそれ以上の言葉はもう聞く必要はないと思った。

「……あ」

 首筋から顎へしずくを舐め上げ、そのまま震える口元を強く吸う。堪えきれない感覚が彼女の中に生まれ、細い肩が大きく跳ね上がった。

「忘れましょう、何もかも。あなたも私も、大切なのはこれから先のことです。私は明日から、全く別の男に生まれ変わりたいと思います。どうぞ見守っていてください、あなたたちのために何事にも負けない強い男になって見せます」

 どんな綺麗事を並べたところで、そこに真実は見つけられない。己の記憶から過去をすっかりと消し去ることは出来なくとも、明日への希望でいっぱいに満たすことは可能だろう。決死の覚悟で再び目の前に現れてくれた人のために、自分に出来ることはただひとつだ。その真心に応えるために、また精一杯の心を伝えていくだけ。

「……ああ……」

 緩い動きで浅くかき混ぜて、少しずつ動きを早めていく。彼女とふたりで辿り着きたい場所がある、そこにいざなうために心をしっかりとひとつにたぐり寄せていかなくては。ひとときのぬくもりだと諦めていたあの空間を永遠のものにするために。

「これからは……ずっと、一緒に……!」

 細い指が自分の頬に触れ、さらに腕が首筋にしっかりと絡みついてくる。一番深いところまで突き立て、そこで全てが弾けた。今まで己をがんじがらめにしていたしがらみから、一気に解放されていく。しっとりと汗ばんだ背中を抱き寄せ、互いに言葉もないまましばし喜びに浸った。

 

◆◆◆


「きっと、あの子は今頃ひどくむずかっているのではないでしょうか?」

 ややあって、彼女がぼんやりと呟く。愛しさを全てしっかりと懐に抱き寄せたまま、余韻に浸っていた。その頬を、また優しい指先が辿る。

「明日、お目に掛かったら大変なことになりますね。それこそ一晩中、あなた様を手放さないかも知れません」

 口元に淡い笑みを浮かべ、楸陽は彼女の手をゆっくりと絡め取った。

「……それはどういう意味かな?」

 何でもありません、と赤くなる人を強く強く抱きしめる。彼の背の下で、固い豆がきりりと音を立てた。

 

 夢をあしたへと繋ぐ架け橋は、愛しい人と心をひとつにした今いつも目の前にある。大丈夫、必ず手に入れてみせる。指先に届かない希望など、初めから抱くはずもないのだから。

 

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