山麓に続く道はすっかりと秋の色に変わっている。 二月ぶりに見上げる天は遙かに遠く、その澄んだ青さに己の心を巣くう不安までもが吸い込まれていくようだ。一歩また一歩と進む足取りが重い。まるで草履の底に鉛を仕込んでいるようであった。 谷底の河から上がる外れ道を選んだ。ここならば、村人と顔を合わせることなく目的の場所に辿り着くことが出来る。もしも偶然誰かに出くわしたとしても、これだけ身なりが違っていれば別人と思ってもらえるだろう。
あまりにもめまぐるしく移り変わる周囲の動きに、父の館に戻ってしばらくはただ周囲に振り回されるばかりであった。右に流れたと思えば、次は左へ。すでに領主の跡目としての座は彼が望むと望まざるとに関わらず準備が整っていた。 以前の彼ならば、与えられた立場が恐ろしく裸足で逃げ出したく思うだろう場面も多かった。だが、長すぎる領地巡りからようやく戻ったかつての小心者は、人が変わったように何事にも堂々と振る舞っている。しっかりと顔を上げて胸を張り歩み出すその姿は、己の行く末をしっかりと受け止めているように見受けられた。そのせいか、体つきも一回りか二回り大きくなったように周囲からは感じられる。 「これならば御領主殿にいささかのご心配もあるまい。やはりお血筋でございましょう、将来が誠に楽しみな跡目殿だ」 領下の者たちからも、安堵と賞賛の言葉が口々に囁かれるようになった。それが巡り巡って当人の耳に届くこともある。だがしかし、彼自身はそれを気にする素振りもなくただ黙々と日々の雑務をこなしていくのみであった。 夜明けと共に床を出て夜更けに寝所に戻るまで、言葉通りに息つく暇もないほどの忙しさ。目の回るような日常が、少しも辛くなかったと言えば嘘になる。しかし少しでも心にゆとりが生まれれば、その空いた部分にたとえようのない寂しさが流れ込んでくるのだ。いくら腕を伸ばしても決して届かない場所に全てを置いてきたのだから、諦めるしかない。そう自分に言い聞かせてきた。 ―― いずれは己の内側から、崩れ落ちてしまう日が来るかも知れぬ。だがその瞬間まで、与えられた仕事をひとつひとつこなしていくだけだ。過去と未来を繋ぐ架け橋になること、それこそが己の務めだと信じている。 もともとが必要以上の痛みを自分ひとりで抱え込む性分であった。立場柄厳しい決断を強いることになれば、苦境に立たされた相手の心内までを己の中に取り込んでしまう。領主の跡目らしく、その思考までを改めようとした時期もあった。しかし生まれ持った性格を変えるのは、決して容易いことではない。理想の自分に生まれ変わる前に、彼の精神の方が先に壊れてしまうだろう。 何も知らぬままならば良かったのだ。あの出会いこそが全ての間違いだったとも言えよう。手のひらですくい取った水が指の隙間から流れ落ちてゆくまでの間合い、そんなひとときにでも与えられたぬくもりは他の何ものにも代え難いものであった。 それでもなお、彼は耐えることを選んだ。自らの進む茨道に、大切な人たちを巻き添えにしないために。
「ようやく夏のお務めも一段落しましたね。たまにはゆっくりと羽を伸ばしてみてはどうですか、賑やかすぎる場所はあなたにとって気苦労ばかりが積もっていくご様子ですし」 大臣家への出仕から戻り、報告がてらに足を運んだ両親の居室。歳を重ねてもなお柔らかな美しさで対する者を魅了してしまう母は、穏やかな口調でそう告げた。 「笹谷をあちらに残したままではありませんか。報告の文などはきちんと届けられているようではありますが、やはり一度自分の目で現状を確認した方が宜しいでしょう」 一体、この御方はどこまでをご存じなのだろうと不思議に思ってしまう。多分、何気なく告げられたひとことなのであろうが、聞く者にとっては様々に色を変える魔法の響きである。 「ああ、そうであったな。ならば丁度良い、出掛けついでに集落境まで足を伸ばして花豆を土産に持ち帰ってはくれないか。あれは貴重な品で、なかなか手に入らない。無理を言えば特上のものが届けられるが、それもどうかと思うしな」 領主としての表向きの務めは祖父母に任せ、両親は外れの居室でひっそりと暮らしている。もちろん決められた政務はこなしているが、決して祖父母を差し置いて前に出たりはしない。その鮮やかな駆け引きにはどのように経験を積んでも敵わないと思う。他の兄妹もそうであろうが、やはり両親は人として尊敬してやまない身の上だ。しかし優れた手本が側にいても、自らがそうなれる保証はない。 ぐずぐずしていては隠居した祖母がまたあれこれとうるさく口を挟んでくるだろうと父からの配慮で、その日のうちに旅支度を整えた。そうは言え、たいした荷が必要なわけでもない。領地内を巡る際には滞在場所が決まっており、そこにあらかじめ必要な品は一通り揃っているのだ。それでもこのたびは小振りの行李を背負うことになる。夏の間に集めた品を残さずその中に詰めた。
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途中までは馬に乗り、それでも一夜の宿を借りて目的の村へ辿り着いたのは翌日の昼過ぎであった。このように長い道中であったのかと、改めて驚かされる。 「若様も一段とご立派になられました、大臣様の御館や都にお上がりになった時の話は人づてに聞いております。このたびはご一緒することが出来なかったことが残念でなりません」 都から父の館に戻ったその時から、ここまで長期間に渡り互いが離れて過ごしたことはない。この者を村に残して戻ることは、楸陽にとってもとても辛い決断であった。もちろん、笹谷も同じ気持ちでいてくれたと思う。しかし自分以外の誰かにこのたびのことを託すとすれば、誰よりも信頼できる彼に頼む以外に考えられなかった。 「一体、どの筋からそのような話を聞いたのやら。別にたいしたことをした訳ではないよ、お前がいなくてはやはり何をやっても上手くいかない。こうして思いがけなく仕事が早く進んでいて嬉しいよ、冬支度の前には館に戻って来られそうだね」 私腹を肥やしていた村長はすでにその地位を追われ、新たにこの地をまとめることになったのは分所からも推薦された者であった。生まれは山また山を越えた遠き地で土地の事情には明るくないが、その分公平な立場で村人と接することが出来るだろう。 「そうですね、でもあまり大風呂敷を広げて待ち構えないでください。また、命を受け遠き地に飛ばされることがあっては老いぼれの身には辛うございます。しばらくはゆっくりと孫の顔など見て過ごしたいものです」 軽い笑い声を上げてそう告げた後、笹谷はふっと真顔に戻る。ここまでの説明を受けるまでにも、幾たびか同じような間合いがあった。しかしそのたびに話題を変えて、はぐらかしていたのは実は楸陽の方である。 「……若様」 年老いた侍従が低い場所からこちらの顔色を窺う。その瞳が何を語ろうとしているのかをとうに気付いていたが、しかし素知らぬ振りで過ごした。感情を表に出すたちでなかったことも幸いしたと言えよう。 「隣のことは如何いたしますか? 先立っての文で申しつけられた通りこのたびのことはあちらに話してはおりませんが、やはり……顔も見せずにお戻りになるのはどうでしょう。息災に暮らしていることは手前からの文ですでにご承知でしょうが、……しかし」 彼も何かを深く悔やんでいるのかも知れぬ。言葉を選びながらの問いかけは、そう思わせるだけのものがあった。主としてはその意を汲み取り、少しでも家臣の心配を取り除くのが本来取るべき道であろう。 「お前の言いたいことはよく分かった。だが、このたびはこのまま戻ろう。私が二度とこの地を訪れないと分かれば、彼女も今度こそ覚悟を決めてくれるだろうからね」 彼らには戻るべき場所があるのだ。亜津の母親が本当に我が子の幸せを願うのであれば、そこに辿り着かなければならない。どうしてもっと早くそのことに気付かなかったのか、口惜しいばかりである。多少の困難は伴うだろう、すぐには上手くいかないかも知れない。だが、永遠に戻ることのない人間をひたすらに待つよりはいくらか良いと思う。 「しかし……あの者は想像以上に頑なです。自分も色々と言葉を変えて説得してみましたが、どうしても戻る気はないと言い切ります。誠に……これ以上の手段には思い当たりません」 ―― 若様からあの者を説得していただけませんか? 笹谷の眼差しはそう告げているように思えた。しかし、楸陽はやはり首を横に振る。 「すまない、お前の頼みであってもそれは出来ないよ」 傍らに置いた行李をちらと見て、深い息と共に言葉を吐き出す。やはり無理だ、再会はあの幸せな思い出までをあっという間に塗りつぶしてしまうだろう。会いたい、でも会いたくない。彼女には決してこの姿を見られてはならないのだ。かつての女子たちのように失望させないためにも。 「さあ、これで用は済んだ。新しい村長にわざわざ挨拶に行くのも大袈裟だろう、新年の宴の時にでも改めて声を掛けるとしようか。まだ日も高い、私はこれから一度手前の村に戻って分所の者と話をすることにしよう」 己の心には数えきれぬほどの傷が残っている。幼い頃からさえない見てくれて蔑まれ、次第に臆病になっていった。両親のように他の兄妹のように、誰からも羨まれるような容姿を持っていれば良かったのにと思った日もある。だが、ないものをいくらねだったところでそれが手に入らないこともすでに知っていた。 「若様……」 夢は夢のままで終わらせたい。それが自分の中で、永遠に眩しい記憶として残っていくために。彼女の心に一点の曇りも残したくはないと思う。 素性を隠したまま滞在したのも今となっては好都合であった。分所の名代という肩書きは、実際には存在しないもの。門前に出向いて問い合わせたところで、何の情報も得られないであろう。もちろん彼女にそこまでの強い意志があれば、の話であるが。 「私のために重き荷を背負う者がひとりもいなくなれば良いと思うよ」 それが容易には果たされぬ希望であることは百も承知。だが、諦めることなく理想を追い求めていきたい。祖父のように権力の上に胡座をかくことも、父や兄のようにその姿で周囲の者たちを魅了することも不可能な自分である。ならばこの上は誰かの真似をするのではなく、独自のやり方で道を切り拓いて行きたい。
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「ははさま、ははさま! はやくはやく!」 刹那。隣の小屋から懐かしい声が上がり、楸陽は慌ててその身を柱の影に隠した。山吹色の新しい衣、綺麗に手入れされた髪があの頃よりも少し長くなっている。 「ははさまもごらんになったでしょう? けさもあんなにたくさんみがつきました。このさきおおきくみのるには、たくさんのみずとひりょうがいるそうです。だからはやく! もうっ、あづはさきにいきます!」 抱えるのがやっとの水桶を手に戸口から飛び出そうとする背中を、もうひとつの影が後ろから呼び止める。柔らかく気が流れ、その先にこの二月決して忘れることの出来なかった姿が現れた。幸い、こちらには気付いていない様子である。そうは分かっていても、楸陽はさらに自分の身を壁に強く沿わせた。 「お待ちなさい、そのように急ぐとぬかるみに足を取られますよ?」 思い出の中の輪郭よりもさらに美しい横顔である。見つめていれば、胸の奥がじんと熱くなるほどの。 この人の目が元通りに光を取り戻した朝、物陰からそれを確認した後に別れも告げずに出立した。世話になった礼も告げぬまま、不義理をしてしまったとは思う。しかし何もかもが元通りに見えるようになったと嬉しそうに薬師に告げる人の前に、我が姿を晒すことはどうしても出来なかった。 「ぜったいにたくさんのみをとって、おいちゃんにみせてあげるの! めがでたときもつるがのびたときもはながさいたところもみせられなかった。だから、こんなにたくさんとれたっておどろかせてあげたいよ! ちゃんとめんどうみるってやくそくしたんだから、あづは」 ふたりの背中が丘を下りて見えなくなるまで、楸陽は目頭を押さえたまま動くことが出来なかった。すぐに忘れてもらえるだろうとのもくろみは大きく外れた。だが、どうしてこんなにも胸が喜びを訴えているのだろう。 ―― 否。 どうして、そのような無責任なことが出来る。自分が道を外れることで、迷惑を被る者たちはあまりに多い。決められた道を決められたやり方で進んでいくことだけが、領主の跡目としての使命である。 用意してきた行李を小屋の前に置く。出先で目に付くたびに買い求めてしまった彼女たちに似合いそうな衣と小物たち。まともな生活に戻った今ではこのような品を恵まれるのは不本意であろう。だが、このまま手元に置いたところで役に立つものでもないから仕方ない。 そして、彼は。少しばかり遠回りになるが彼女たちとは別の道を渓へと下りていった。己の信念だけは決して変えぬと自分自身に言い聞かせながら。身体の脇で強く握り拳を作り、それが胸の痛みと共に大きく震えた。
どれくらい歩みを進めたのだろう。一度も振り返る勇気もなくいたために、その距離を測ることも出来ない。軽やかな草履の音が初めは小さく、次第に大きく背後から楸陽の耳に届いてきた。 「お待ちくださいませ」 それは軽く息の上がった問いかけであった。聞き違えることなどあり得ない、愛しい調べ。しかし、どうしても振り返ることは出来なかった。一瞬足を止め、しかしすぐに何事もなかったかのように歩き出す。このまま自分は立ち去るべきなのだ。背中にしっかりと届いている眼差しには捉えられてはならない。 「その……名代さまでいらっしゃいますね? ええ、間違いはございません。わたくしにあなた様を見誤るはずがございませんもの」 再び足が止まる。だが、やはり振り向けない。 「先ほど、何か胸騒ぎがして急ぎ戻って参りました。お戻りになっていたなら、どうして私たちの元にお寄りくださらないのです。娘が、……亜津はあなた様のお帰りをずっと待ち望んでおりましたのに」 何かに怯えるようなかつての心細さは、微塵も感じられなかった。「お人違いでしょう」と返答すれば良いのだろうが、それではわざわざ彼女の予想を確信させることになる。 「いいえ、娘だけではございません。わたくしも、……わたくしも始終お待ち申し上げておりました。それなのに、何故。わたくしどもがそれほどに疎ましく思われるのですか? 違います、あなた様はそのような御方ではございません。ならば、……どうして」 大きく、息を吐き出す。たとえようもなく辛かった、真の心をこの人に伝えることが出来ないことが。 「これ以上は、いけません。私の進むのは茨道、あなたや亜津が歩むべき場所ではありません。どうかそれを……ご承知ください」 自分は今の身分を捨てられない。だから思い切るほかに方法はないのだ。ざり、とひときわ大きな草履の音が聞こえる。もう背を向けてくれたのだろうと信じ、思わず振り返ってしまった。 「……あ……」 しかし彼女は、まだ立ち去ってはいなかった。美しい双の目は真っ直ぐとこちらに向かっている。楸陽は雷にでも打たれたように、動けなくなった。 「やはり、……思った通り。何てお優しいお顔、ようやくお目にかかれて嬉しく思います」 その眼から、大粒のしずくが次から次へとこぼれ落ちてくる。心にもないことを、と吐き捨てることはどうしても出来なかった。真実の欠片もない言葉でも、何故か静かに胸に降り注いでくる。 「も……う、宜しいでしょう。亜津にも伝えてください、供の者が申した通り私は二度とこの地には参りません。この先もどうぞ、末永く息災に過ごしてください」 魂の抜けた声ではあったがかろうじて告げることが出来たのは、それからしばらくの間を置いてからであった。 元通りに向き直り、ゆっくりと歩き出す。どうか幸せになって欲しい、己の踏み出すその歩みひとつひとつに切なる願いを込めながら。
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