このような状況に置かれるのは、何も今が初めてのことではない。 楸陽は西南の集落でも屈指の家柄の生まれであった。当時はまだ兄が家督を譲り受けることになってはいたが、それでも元服後ほどない時期に女子を知るのはそう珍しいことではない。 「い……けません、そのような……!」 すでにはだけかけている衣の前を整えるのが先か、あるいはしなだれかかるぬくもりごと払いのけるのが先か、それすらもすぐには判断がつかない。半ば腰の抜けた状態でうろたえつつも後ずさりし、どうにか難を逃れる。頭で考えるよりも身体が動くのが早かった。 のんびりとした日々にすっかり警戒の心を解いていた自分が恨めしい。相手はその姿を一目見た瞬間から、強く心を惹かれていた女子である。あまりに眩しく胸をかすめていった一瞬のきらめきは、その後さりげない毎日を共に過ごしていくことでさらに奥深いものに変わっていく。 「あら、嫌ですわ。そのようにご遠慮なさらずとも宜しいのに」 せめてこの瞬間に、青ざめきった己の顔色だけでも悟ってもらえたらと思う。だがその願いが叶うこともなく、彼女は微かな物音からこちらの所在を確かめていた。 「一度夫を持った身であることは、とうにご承知のことでしょう。それだけではございません、村の隅々まで広まっている噂話があなた様のお耳に入らぬはずがないでしょう。名代様のようなご立派な方にお情けをいただけるのなら、場末の女子として身に余る光栄にございますわ」 当然のことながら、薄い寝着の下には夢のような柔肌が待っている。彼女はその存在を知らしめるが如く、しっとりと寄り添ってきた。ほのかに匂い立つ香りの中に、確かに女子としてのたかなりを感じる。普段の控えめな態度からはとても想像できないほど、迷いのない行動であった。 この人はこちらが全てを承知であると分かっているのだ。だから、ここまで大胆な行為に出てくる。あのような噂、耳に入れたくなどなかった。全てを知ってしまった後も、それがただの作り話だと信じていたかった。 「いっ、……いえ……!」 背後にはあばら屋をかろうじて支える柱が控えており、逃げ道はすでに塞がれていた。己の意志とは関係なく熱く滾る欲情、しかしその波に呑まれることは決してあってはならない。 「お気を……確かに、志津殿」 触れればしっとりと手のひらに吸い付いてくるに違いないぬくもりを、ようやく引き剥がす。手を添えた細い肩は想像以上に痩せ衰えており、この人が十分な食事を長いこと摂っていないことを改めて実感した。 「あなたが、そのような悲しいことを言ってどうします。亜津は、あなたの娘は、少しでも多くあなたの役に立ちたいと、小さな身体で必死に頑張っているのではありませんか。どうか幼い真心に報いてあげてください、投げやりにならず前向きに明日のことを考えましょう」 必死に平静を装いながら、未だに先走りそうになる鼓動とその瞬間にもなお戦っていた。幸せはいつも自分の手の届かない遙か遠い場所にある、それが分かっているから無理に追い求めることもなく今までを過ごしてきたのだ。そしてこれからも、一番大切な想いは誰の目にも決して晒されることはない。 「……名代様?」 楸陽が自分の誘いを断るは思ってもみなかったのであろう。彼女は中途半端にはだけた寝着の前を押さえることもなく、呆然と宙を見ていた。心細く震える肩があまりにも愛おしく、思わず引き寄せてしまいたくなる。しかし、そうなってしまっては今度こそ後戻りが出来なくなってしまうのだ。 「大丈夫ですよ、あなたはきっと良くなります」 幕は自分の手で下ろすのだ―― そう決めた刹那、我が身が真ふたつに裂かれるような痛みが走る。だが、もうこの先はただ前に進むしかないのだ。 「山向こうの村にたいそう腕のいい薬師がいます。私も良く知っている者ですから、すぐに来てもらえるよう手配しましょう。素人目で見る限り、あなたの目はまだ回復の余地があると思われます。ただ期を逃して手遅れにならぬうちに、看てもらう必要があるでしょう」 彼女は一度何かを言い掛けて、またすぐに口をつぐんでしまう。天の輝きを浴びたその姿は、この世のものとは思えぬほどに美しかった。 「さあ、……早く休まないと明日に差し支えますよ? どうぞいつも通りの温かい粥の香りで、私を目覚めさせてください」 決して届くことのない微笑みをその頬に浮かべて、楸陽は彼女ひとりを縁に残してしとねへと戻っていった。
◆◆◆
ひと組の男女がこの村に流れ着いた。見るからに素性がおかしいと皆が思ったが、女子の方はすでに身重であり無碍に追い出すのも良心が痛む。とは言え、どの家も家族が食うに精一杯の身の上であり、とても余所者にひさしを貸す余裕はなかった。押し問答の末、最後に名乗りを上げたのが当時はまだ健在であった丘の上の宿の主人。どうせ取り壊しが決まっているのだからと、ただ同然であばら屋を提供した。 村人たちは夫に捨てられた彼女に、さらに非情な現実を突きつけてくる。 宿のおかみなどは身の置き所のない彼女の心情を逆手に取り、主亡き今では泊まり客があるごとに夜の相手をすることが当然であるように強要してくると言う。他に行く当てもない彼女であるから、その申し出を断れる訳もなかった。場末の村であるから毎晩のことではないまでも、人道に外れた行為であることには違いない。黙って申し出を受け入れていることで、「男に飢えた淫乱女」とさらに陰口を叩かれることになった。 どこかで断ち切らねばならない不条理な歯車を、長い間誰も止めることがなかった。頼る身よりもない母子にとって、どこの村に流れ着いたとしても同様の結果が待っていたことであろう。男なら誰でも思わず手を伸ばしたくなるような儚く美しい容姿を持っていたことも災いしたと言っていい。 もっと強い意志を持っていれば、あるいは避けることが出来たかも知れない。ただ、不自由な身体になってしまった以上、彼女には選ぶべき他の道がなかった。誰かに助けを求めたくても、その当てはない。 あばら屋の母子に楸陽が必要以上の想いを寄せていることに気付いた笹谷に言葉を選びながら説明された時にも、最後まで黙ったまま何も答えることはなかった。
「さあ、これで宜しいでしょう。あとは貼り薬を日に一度取り替えてください。くれぐれも安静に願いますよ、ここで無理をしては治る病も治らなくなってしまいます」 薬師は楸陽の願いを受けて、翌日の夕刻には村にやって来た。すぐに診療は行われ、失明は栄養失調から来る一時的なものだろうと結論づけられる。しばらくの治療ですっかり良くなると太鼓判を押され、ホッと胸をなで下ろした。 亜津の母・志津の両目は特別の薬に浸した薄い布で閉ざされ、それを固定するために上から幾重にも細布が巻かれていた。その見た目はごっこ遊びで鬼に当たった子供の様子である。今までは微かな光だけは感じ取っていたのがすっかり暗闇の中に入ってしまい、彼女は動揺を隠せない様子であった。 「ははさま、よかったね! じきによくなるとくすしさまがおっしゃったよ」 その喜びを素直に表に出す幼子は、しとねに休んだままの母親の元を行ったり来たりしながらおしゃべりを続けている。どこまで続くか分からぬほどの長い洞窟の出口がようやく見え始めたと言ってもいいだろう。楸陽としても初めからそうであって欲しいと予想してはいたが、思っていた以上に順調にことが運びそうである。 「それまでは、あづとおいちゃんがしょくじをつくるよ。ううん、だいじょうぶ! ははさまのやりかたをあづがちゃんとおいちゃんにおしえるから!」 戸惑う母親の心中を察するかのごとく、亜津は努めて明るく振る舞っている。そのいじらしいほどの姿には親を慕うこの気持ちが溢れていた。やはりこの母子を引き離すことがあってはならない、たとえ母親の方がそれを望んだとしても受け入れることなど出来るはずもない。 次に薬師が訪れると約束したのは七日後。その日が来れば貼り薬は必要なくなり、彼女の生活は全て元通りになる。それでもまだ村人たちの気持ちがすぐに変化するとも思えないが、あとはゆっくりと時が流れるのを待つしかないだろう。一度は我が子を手放す覚悟を決めた彼女だ、その辛さと比べれば愛し子と共に歩む未来が暗いものであるはずはない。 ようやく倉の鍵も戻り、内密のうちに帳簿の再点検が進んでいた。あまりに巧妙に細工されていたため、ぱっと見にはどこもおかしくないように思われてしまう。そのために問題の箇所を幾度も繰り返して検証し、事実と照らし合わせていった。 「後のことは分所の役人に任せましょう、若様がわざわざお手を汚すことはございません。私腹ばかりを肥やし、村人たちを窮地に追い込むなどおよそ上に立つ者のすることではありませんよ。全く腹立たしいばかりです」 笹谷はいつになく強い口調でそう告げると、これ以上の言葉はまずいだろうとぐっと押し黙った。良い供を持ったと思う。彼がいたからこそ、今までずっと自分の出来る限りの仕事をこなしてくることが叶ったのだ。野歩きの辛いような歳になり、そろそろ楽をさせてやらねばと思う。だが、やはりまだ彼には甘えてしまいそうだ。 「そうだね、全くその通りだ。これで当座は良くなるだろうが、首から上をすげ替えたところですぐに体勢は元に戻らぬかも知れない。今しばらく村の動きを監視していく必要がありそうだな」 こちらの言葉を先回りしてか、彼の顔色がふっと暗くなる。楸陽はそんな優しい人を気遣うように、ゆっくりと首を横に振った。 「心配には及ばないよ、私は予定通りに父の館に戻ることにする。それについてはもう何もかもを手配済みだ。だから、―― 申し訳ないがお前にその役目を与えたいと思う。もう……二月三月、この地に留まってもらえないだろうか。もちろん、父には格別の配慮を願い出ておくから」 ―― これこそが、最良の方法なのだ。 膝の上で握りしめた手のひらの奥で、楸陽はもう一度自分にそう言い聞かせていた。もうこれ以上、あの母子に関わってはならない。何故ならこれ以上の深入りは、彼女たちを不幸にするだけだからだ。もしも真の幸せを望むなら、己の手でつながりを断ち切らねばならない。
静かな時間は瞬く間に過ぎ去っていく。 夕刻に全ての荷造りを終え、楸陽は何食わぬ顔で母子の住むあばら屋へ戻った。すぐに幼子が飛び出してきて嬉しそうに出迎えてくれる。その柔らかな髪を撫でてやりながら、思わず胸から突き出てきそうになる悲しみをかろうじて抑えていた。 「おいちゃん、はやくみずくみにいこう! そうしたらゆうげのしたくまでに、いつもみたいにしょをおしえてね。あすはくすしさまがおいでになるのでしょう? ははさまにあづのじをみせてあげられるね! きっとびっくりするよ」 明日も明後日も、そしてその次の日も。この子の明るい毎日が続いていく。しかしその風景にもう自分の姿はない。 「亜津、ちょっと手を出してご覧?」 袂の奥を探って、小さな麻袋を取り出す。そして、必死にこちらに差し出された小さな手のひらにそれをちょんと乗せた。 「なぁに? これ」 ころころとした感触に期待しながら、小さな指が袋を開く。出てきたものを見て、彼女は大きな歓声を上げた。 「わあ、まめだ! こんなにたくさんっ、すごいよ! こんやのかゆにいれるの? ねえそうだよねっ!?」 期待に頬を染める幼子に、楸陽は小さく首を横に振って答える。 「違うよ、これは畑に蒔くんだ。やがて芽が出て、食べきれないほどのたくさんの実を付けるよ。さあ、水を汲んできたらふたりで植えよう」 前もって、庭先のささやかな畑は耕してあった。初めての経験で、借りた鍬を上手く使うことが出来ずに手こずったが、どうにか畝のようなものが仕上がってホッとする。そこに何を植えたらいいのか思案した末に、痩せた土地でも上手に育つという豆の種を選ぶことにした。 「毎日こんな風に水をやるんだ、大変だけど必ず忘れないようにしないとね。一度にたくさん上げてはいけない、少しずつ欠かさず世話をすることで大きく育つんだ。もしも雑草が生えてきたらきちんと抜こうね」 黒々とした土が眩しいばかりで、まるで大仕事を終えたように晴れやかな気分になる。しかし傍らにいる幼子は自分と同じ気持ちではなかった様子だ。つついてはいけないと知りながら、豆に土を被せた辺りを名残惜しそうに指先で辿っている。 「でも、あのままたべてもよかったのに。どうしてつちのなかにかくさないといけないの? もしもうまくみがつかなかったら、みんなむだになってしまうよ」 楸陽はその質問にすぐには答えず、その代わりに立ち上がってゆっくりと丘の向こうを見渡した。谷底の川へと続く急な坂道。その距離は近いように見えて、あまりに遠い。 「亜津。穀物の種はね、明日のために植えるんだ。もちろん、今日食らって腹を膨らますことも大切だ。だけどそれでは何も残らないだろう。これからは毎日がきっと楽しいよ、芽が出て葉が出て茎が伸びていく。やがてその先に可愛らしい花が咲くだろう。この豆は育ちが早いからね、夏の終わり頃にはもう収穫が出来るそうだよ」 それは確信ではない、でも希望はある。今までは辛いことも多くあっただろう、周囲の皆が敵に見えて苦しかっただろう。だが、これからは違う。そのみずみずしい愛らしさで、周囲の誰もを幸せにしてやって欲しい。この子にはきっとそれが出来るはずだ。 「あすのため、に……?」 大きく目を見開いて、彼女はもう一度土の山に向かい合った。 「そう。今日植えて水をやったから、明日はきっと土の中で種が水を吸って大きく膨らむ。その次の日には固い皮を破って小さな芽が出てくるかも知れない。そうして五日もすれば、土の上に顔を出すよ。ああ、楽しみだね。だからちゃんとお世話をするんだよ」 谷底を染める夕焼けが、いつになく切なく瞳に映る。静かに吹き抜ける気が、楸陽の胸奥を静かにさすって通り過ぎていった。
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その声を、夢うつつの中で聞いた。思いがけなくふわりと意識が浮かび上がる。もう夜明けなのかと瞼を開ければ、目の前には漆黒の闇が広がっているだけであった。 「志津殿、―― 如何しましたか?」 いつにない様子に、慌てて起き上がって幼子の向こうにあるはずの彼女の姿を探す。闇になかなか目が慣れず、ようやくその影をぼんやりと捉えたのは幾らかの時間が過ぎてからである。視界を閉ざされたままの彼女はこちらの姿を探すこともせずに、ただ上体を起こした姿勢のまま俯いていた。 「いえ、……すみません。もうとうにお休みであったのですね」 躊躇いがちなやりとりの下に、小さな寝息が聞こえる。母親と楸陽と、ふたりのしとねの両方をしっかりと握りしめて、亜津が深い眠りについていた。 「どこか、……具合でも悪いのですか?」 夕刻、普段通りに貼り薬の取り替えをしたはずであったが、そのときに何か手違いがあったのだろうか。あるいは夕餉に与えた薬湯が少し濃すぎたのだろうか。そんな不安が胸をかすめ、一瞬のうちに眠気が吹き飛んでいた。 「……いえ……」 彼女は今一度、小さく首を横に振る。少しやつれた髪が、それでも柔らかく彼女の動きに従った。きちんと手入れをすれば、目映いほどの美しさなのであろう。その姿は楸陽にも容易に想像することが出来た。 「いけません、しっかりと身体を休めることが一番だと薬師も申したではありませんか。さあ、もう休みましょう。まだ夜明けは遠いですよ?」 療養中の彼女の世話をすることになってから、それまでの躊躇いが嘘のように引いていった。彼は志津の傍らまで歩み出ると、当然のようにその細い肩に手を添えてゆっくりと横たわらせようとする。しかしいつもは大人しく従ってくれる彼女が、今宵に限って強い抵抗を見せた。 「お待ちくださいませ」 一度は解かれた腕を、志津は必死に探している。少し離れたその場所から、楸陽は彼女の姿をぼんやりと見つめていた。 「そちらにいらっしゃるのですね? ……ああ、良かった。何か胸騒ぎがして……ご迷惑をお掛けしました」 小さく小首をかしげて、彼女の口元に微かな笑みが宿る。しかし次の瞬間に、その表情がまた凍り付いた。 「恐ろしい……夢を見ておりました。何もなくて、どこまでも闇が続いているのです。もしも、明日になってもこの目が元に戻らなかったら、一体わたくしはどうなってしまうのでしょう……? そう思うと溜まらなく恐ろしくて、でもその一方で明日が待ち遠しくてならないのです。可笑しいですね、こんな気持ち―― 」 努めて明るく振る舞おうとする、しかしその指先が小刻みに震えている。それは彼女にとって、想像以上の恐怖であろう。十中八九大丈夫と言われていても、やはりどこかに間違いはある。その場所に足を取られてしまっては、長い療養の甲斐もなくなってしまうのだ。 「何を言うのです、必ず良くなると薬師も申しました。あなたはその言葉を信じて明日に臨めば良いのです。そう、簡単なことですよ」 思わず進み出て、その震える手に自分の手を添えていた。心よりも身体が先に動いた、そんな行動であった。 「ええ、……それは分かっています」 彼女の身体がぴくりと硬くなる。介添えのためではなくその身体に触れることは、あの夜以来のことだ。お互いに忘れたふりをしていた因縁の夜。彼女にとっても思い出すことも恥ずかしい出来事であるに違いない。 「……志津……殿?」 あの夜と全く同じように寄り添ってくる細い肩。しかし、その仕草の中に禍々しいものはひとしずくも感じなかった。そう、まるで幼子が親を慕って寄り添うが如く。 「申し訳ございません、どうかしばらくこのままで。このようなこと、お願いしてしまって良いものか分かりませんが……どうかお許しくださいませ」 手のひらの震えが、やがて全身に広がっている。彼女の中には今、底知れぬ恐怖が潜んでいるのだ。そのことを楸陽は包み込んだ全身をもって感じ取る。 「ご心配には及びません。明日になれば、全てが良くなります。そう……今までのことが全て幻だったように、あなたは何もかも元通りになれるのですよ」 本当にそうであって欲しいと祈りながら、柔らかい身体を崩れないように支える。力の限りに抱きしめることの叶わない我が身が恨めしかった。何があっても、この人を巻き添えにすることは出来ない。どうか明るい道を幸せに歩いて欲しい、そのためにはこの身に宿る願いなど明日の朝には露と消えてしまわなければならないのだ。 「そのように……お慰めくださるのですね」 祈りとも落胆とも思える響きで、彼女は小さく呟いた。ささやかな気の揺らぎとともに、抑えきれない欲情が堰を切りそうになる。そう、この静かな瞬間でさえも、楸陽はまだ祈っていた。もしもこのまま、なにもかもを忘れてこの地で暮らせるのならば、と。しかし、それが決して叶わぬことをまた肝に銘じていた。かりそめの幸せを知ってしまったものは、そこに何も残さぬままに過ぎ去るしかないのだと。 「わたくしは亜津がとても羨ましいです。あなた様と毎日笑ったり微笑み合ったり、わたくしには決して行き着くことの出来ない場所でいつもふたりだけで内緒話をしているように思えていました。 宙に浮いたままの拳を固く握りしめながら、楸陽は己の心を押しつぶすことしか出来なかった。ただひたすらに、この人の真の幸せを願うこと。それだけが自分に残されたただひとつの道なのだ。しかし……どうしてここまで、苦しまなければならないのであろう。 「この間は、大変失礼なことを申し上げました。本当に……わたくしはどうかしていたのですわ。でも……」 ぬくもりを預けたまま、彼女はまるで自分に言い聞かせるように続ける。 「もしもどのような方法であっても、あなた様をわたくしたちにつなぎ止めることが出来るのであれば試してみたいと思ったのは紛れもない事実です。遠き地にお戻りになってしまっても、時々はこの地に足を運んでくださらないかと。ご一緒に過ごした日々はかけがえのないものでしたわ。再びこのような安らかな心地になれるとは、思ってもみませんでした」 もしや、この人も。そう心の中だけで呟く。この美しい女人も、自分のことを特別の存在として想っていてくれたのだろうか。いや、そうであるはずはない。今まではそれが真実であったとしても、明日からは全く違ってしまうだろう。その厳しい現実に向き合う自信はない。 「いえ、これから先は私なしでも大丈夫です。どうかご自分の手で、幸せを掴み取ってください」
つい果ての地で出会ってしまった運命の人。しかし、この人を自分の人生に付き合わさせることは出来ない。この先は茨の道、己ひとりで切り拓いていくしかない。痛みは全て、我が身ひとつだけがが負えばよいのだ。 夢の終わりを告げる夜明けまで、楸陽はとうとう一睡も出来ずに過ごした。
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