TopNovel玻璃の花籠・扉>あした語り・5


…5…

「玻璃の花籠・新章〜楸陽」

 

 まるで時が止まって見えるような、穏やかな日和であった。

 こうして店が軒を連ねる村の中心部を歩いていけば、ここも他の土地と大して変わらない様子に思える。ふと街道を外れて足を伸ばした旅人であれば、心の底からそう信じてしまうかも知れない。

 ―― だが、やはりどこか歪んでいるのだ。

 滞在も七日を数えていたが、肌に感じるたとえようのない心地悪さは未だに健在である。
  自分が丘上の宿を起点として方々の土地を視察する官人だと言うことは、村人たちにとってはもう周知の事実であろう。湯治場があるわけでもない地に片手を越えるほどの日数で留まれば、どうしても不信感を抱かれることになる。それを見越して初めから素性を明らかにしておいた方が良いという、笹谷の機転であった。

「おや、これは名代様ではございませんか」

 雑貨屋の主人が、面の皮一枚に貼り付けただけの笑みで表に出てくる。本人は上手く取り繕っているつもりなのであろうが、各地を渡り歩いている楸陽には全てが見通せてしまうのだ。しかし何事もないようにさらりとかわす術も同時に持ち合わせている。
  些細なことをいちいち気に病んだり腹を立てたりしていては、物事を大きく捉えることが出来なくなるのだ。己の感情は、どのような場合も全て後回しにしなければならない。

「こちらはかなりの値打ちものらしいね、どこから仕入れているものなのかな?」

 適当に目に付いた品を手に取り、さりげなくそう訊ねてみる。こちらを羽振りの良い客だと信じているのだろう、店主は前のめりの姿勢でここぞとばかりに説明した。

「へい、さすがにお目が高いことで。このお品は山また山を越えた南の地からわざわざ取り寄せたものにございます。ここまでの織物の美しさは、なかなかお目に掛かることが出来ませんよ」

 ―― 違うな、これは痩せた土地で無理に育てた絹だ。

 どう見ても大量生産の安物だと言うことは、手に取る前から分かっていた。あまり腕の良い職人の仕事ではないことも一目で察することが出来る。楸陽の目は始終品物にではなく店主の身振り手振りや表情に注がれていた。同じような品が山向こうの村では半分以下の値で取引されているのも調査済みである。

「そうか、……では他のものも見せてもらおうかな」

 手にしていた品を元の棚に戻すと、また店内をゆっくりと回り始めた。その後を店主が影のように付いてくる。

「どうです、こちらの品もなかなかのものですよ。丘上への土産物などには最高かと……」

 その話しぶりには幾らかの勘ぐりがあったとはいえ、この店も他の村のそれと比べてどこが悪いわけではなかった。ただその値段のせいか売り物の回転が悪いらしくどう見ても流行遅れのものが棚の上の方に埃を被ったままで放置されている。このような実用品ならば、もう少し値を下げればすぐに買い手は付くだろう。しかし、そうしないだけの理由が店側にあるのだ。

 

 小さく分かれた枝先をいくら摘んだところで間に合わない。元凶がどこにあるのか注意深く見定め、あちらに悟られる前に先手を取ることが大切だ。無駄に時間を掛けすぎるのも良くないが、あまり先を急ぎすぎても大切なものを取り逃がすことになってしまう。

「少し長く放置しすぎたようですね、深いところまでかなりの毒が回ってしまっています」

 必死で尻尾を掴もうとしても、それは周到に隠されてしまっている。上手くあぶり出すためにはどうしたらいいのか、さすがの笹谷も行き詰まっているらしい。

「どこかで上手く穴抜けをしたという話を聞けば、必ず真似を始める輩が出てきます。皆、楽をして甘い汁を吸いたいのは同じ。容易く手に入るものがあれば、皆競ってその方法を知りたがるでしょう。全く、厄介なことです」

 毎夕聞かされる報告も、心がさらに薄暗くなるような内容しかなかった。面倒ごとに首を突っ込んでしまったのは承知の上、こうなれば腹をくくるしかない。

「倉の書庫の鍵が手に入ってからも、詳細を確かめるまでには暇が取れそうだな」

 あまり長引くようであれば、後の始末を笹谷に任せて自分は領主の館に戻ることも考えなくてはならない。だがしかしそれを決める前に、楸陽にはどうしてもはっきりさせておかなくてはならないことがあった。

 

◆◆◆


「お帰りなさいまし。お疲れになったことでございましょう、どうぞ縁の方でおくつろぎくださいませ」

 縫い物の手を止めて、小屋の女主人が上がり口まで出迎えに来る。このように招き入れられるのにも、もう慣れた。初めは気恥ずかしくて仕方なかったやりとりが、今では自然に進められる。

「ありがとう」

 差し出された手ぬぐいを受け取ると、自らの手で野歩きの足を清めた。このような行為も領主の館にあってはいちいち供の者に任せることになる。館の使用人たちは皆良く心得ている者ばかりであったから慣れてしまえばそう面倒なことはなかったが、それでも心のどこかで煩わしさを感じていた。

「一服したら、水汲みに出掛けてこよう。あまりゆっくり腰を落ち着けてしまうと、億劫になってしまうからね」

 洗い上げた替えの衣を整えながら、女人が小さく首を横に振る。

「いえ、そのようなこと。名代様の手をお借りするのは申し訳ございませんわ、もうすでにたくさんのものをいただいておりますのに」

 その言葉には声に出して答えず笑みだけを返したが、しっかりその意志が伝わったかどうか定かではない。曖昧な態度だけでは、この人には何も届かないのだから。それがもどかしく、しかし有り難いと思う。

「おいちゃん、おかえり!」

 刹那。昼寝から目覚めたのか、亜津がしとねから元気に飛び出してきた。

「みずくみなら、あづもいく! もうつらくないもの、だいじょうぶだよっ!」

 今日は髪をきちんと梳いてもらったらしく、身なりもこざっぱりと整っている。朝はまだだるそうな感じであったが、本人の告げるように順調に回復しているのであろう。

「そうだな、戻ったら薬湯を残さず飲むと約束するなら。まだ完全に治ったわけではないのだからね」

 正直なところ、もう数日は大人しくさせておきたいところであるが、あまり抑え付けるばかりでは良くない。まだ言葉のみで状況を悟って納得できる年齢ではないのだから。

「えーっ、おいちゃんのいじわるっ!」

 幼子は一度は不服そうに顔を歪めたが、すぐにこちらの申し出を承知した。熱を出してからは家の表にも出てなかったからだいぶ退屈をしていたのだろう、嬉しそうに板間を下りてくる。しかし、その小さな足を包む草履は存在しなかった。
  以前使っていたものが小さくなってしまい、替えを買うにも先立つものがないと言う。丘を下りる坂は良く手入れされておらず、あちこちに岩がむき出しになっているというのに。身を包む衣も寸足らずになっていて、夏を越える頃にはもう役目をなさなくなっていることだろう。

「ははさまっ、いってまいります!」

 見送る女主人の手元は相変わらずおぼつかない。元からの病ではなく、急に手元が暗くなったのであれば無理もないだろう。彼女は我が身の異変も当然のこととして受け止めているようではあるが、他人目に見てもこの先をどのように暮らしていくのか不安になってしまう。まあ、本人たちから相談された訳でもないのだから、こちらが口を挟むことではない。

 ただ、こちらに聞く気がなくとも耳に入ってきてしまう情報もある。ひとつふたつなら大したことがなくても、いくつも重なり合えばそれはおのずと確信に近づいてくるのだ。しかし、まだ信じ切れていない自分がいる。頭で理解しようとしても、どうしても心がそこに伴っていかない。

「ねえ、おいちゃん。おいちゃんたちはいつまでこのむらにいられるの?」

 日を背に、長く目の前に伸びたふたつの影。当然のようにつないだ手を大きく振りながら、亜津が無邪気に問いかけてくる。あの小屋を宿にしてから、幾度となく訊ねられたこと。しかしそのよどみない真っ直ぐな口振りが、日を増すごとに辛くなってくる。

「……そうだな、あと数日というところか」

 今までの滞在先は、どこも用が済めばすぐに引き上げたいと思う場所ばかりであった。分所の一間を借りられるときはまだいい。しかし領主の跡目ともなれば、土地の者たちも特別の歓迎をしなければと気負うのだろう。やれ宴だ、やれ踊りだと騒ぎ立てられ、やたらと取り持たれるのに閉口していた。あれでは領主の館に戻った方がどんなにか気楽なことかと思ってしまう。

 この村にあっても、腰の落ち着かない余所者扱いは変わらない。だが、それでも楸陽は今までの暮らしにはない平穏を感じていた。それが世話になっている貧しい母子のお陰なのは言うまでもない。もしも自分が本当に「分所の名代」であれば、このような生活を続けることも可能なのかと考えてしまう瞬間すらあった。
  それと同時に、自分が己の外見に対してこれほどまでに引け目を感じていたのかと驚かされている。相手がこちらの容姿を見定めることが出来ないと思った途端に、このようにのびのびと思うままに行動できるものなのだろうか。目の前の相手からどのように思われているのかがここまで気になっていたとは情けない限りである。

 亜津の突然の発熱にうろたえる場面にも遭遇したが、それも普段から良くあることで大事がないと知ればいくらか気が楽になる。仮の身分にならってもっともらしく近くの村々を歩いたりする以外は身軽な毎日で、言いつけられもしないのに小屋の修繕などあれこれと引き受けたりもした。
  世話になっている見返りを銭や品物で払うのは楸陽にとって容易いことである。かなりの持ち合わせもあったし、笹谷に頼めばすぐに工面してもらえるだろう。しかしそれではこちらの真心が伝わらない。少なくとも清らかな幼子の前では、自分も誠実でありたいと思った。

「すうじつ? すうじつって、どれくらい? あといくつ、ねるまで?」

 数で示したところで理解する年頃でもないはずなのに、亜津はしつこく食い下がる。その真剣な眼差しを見てしまえば、もう嘘もつけなくなった。

「二晩か……三晩かというところか」

 実際、自身に残された期日はそれくらいのものだと思う。父や祖父からは帰館を促す文が毎日のように届いていた。普段はこちらのやりたいように任せてくれる理解のある人も、そろそろ堪忍袋の緒が切れる頃だということなのだろう。

 しかし、そのことを言葉ではっきりと提示してみれば、たとえようのない痛みが心に突き刺さった。

「―― そうなの? そんなに、すこしだけ……」

 自分の手を握る亜津の指先から力が抜け、もう少しで解けそうになる。無理にたぐり寄せるように引き寄せて、元のようにしっかりとつないだ。側にいれば、こうしてぬくもりを分かち合うことも出来る。しかし、離れてしまえばそこまでだ。すぐに元の他人に戻ってしまう。

「あづ、おいちゃんがいてくれるとうれしいのに。だって、おいちゃんがいるとたのしいよ? こわいおい……ううん、おじ、ちゃんたちもこなくなるし」

 彼女が自分を呼ぶ「おいちゃん」という響きは、よく回らない子供の舌で「おじちゃん」という言葉が上手に発音できないからだということはすでに気付いていた。だがこの機転の利く幼子は、その他大勢の大人たちと楸陽をどうにかして「区別」したいと必死なのだろう。何度も言い換えようとするその誠意が愛らしい。

「あづ、このむらのおとなはみんなきらい。だって、ははさまのことをいじめるんだもの。おおきなおやしきのえらいひとだって、そう。ははさまがいやっていってもむりにつれていっちゃう。ひどいんだよ」

 行き場のない憤りが、そのとき初めて実を結んだのだろう。楸陽の指に絡みついた亜津の手ににわかに力がこもり、柔らかく丸みを帯びたその頬に一筋のしずくがこぼれた。

「あづがいくらだめっていっても、だれもきいてくれないの。やどのおばちゃんだって、おなじ。おきゃくがくるたびに、ははさまをよびにくる。それくらいとうぜんだろうっていうんだ、ははさまはないてるのに」

 たどたどしい口元から溢れてくる必死の訴えを聞きながら、楸陽はひとつの言葉も返せなかった。彼女に限ってそんなはずはない、そうであってはならないと必死に自分を抑えながら、いよいよ鮮明な色に染まっていく確信を翻すことが出来ない。そんな自分が浅ましく、この上なく惨めに思えた。

「……はやくおおきくなりたい、ははさまをいじめるおとなにまけないくらいに」

 それまでおいちゃんがそばにいてくれればいいのに―― 小さく口籠もった言葉が、やがて夕暮れの気に溶けていく。それが叶わないということは、幼い身の上でも十分に承知しているのだろう。
  無邪気に甘えては来るが、必要以上にまとわりついたり我が儘を言ったりはしない。それが愛しく、そして悲しい。自分もまた、しなやかに伸びて行こうとする枝を無惨にも手折る者たちのひとりになってしまうのか。

「そうだね、亜津ならきっと大丈夫だ」

 何の確信もない言葉を口にすることしかできない自分は、亜津の言うところの「わるいおとな」以下の存在だ。一時だけの心地よさを偽善の色で塗りつぶし、何もなかったかのように元の場所に戻っていくのだろうか。その場しのぎの助け船を出すのは簡単だが、それでは根本的な解決にはならない。

 何故、ここまで苦しいのだろう。このままでは胸が潰れてしまいそうだ。結局自分には、何の力もない。その現実が、さらに我が身を責め立てる。

 

◆◆◆


 天を染め上げる輝きが、ひときわ美しい夜半であった。

 昼間の亜津とのやりとりがいつまでも胸に残り、どうしても寝付くことが出来ない。幾度も寝返りを打ってみたが、これ以上は傍らで寝入っている人たちに迷惑だろうとしとねを出ることにした。戸を立てないままに開けはなった縁にひとり出る。まだ虫の音の聞こえる時期でもなかった。

 村人たちが、今の自分の境遇を好奇の目で眺めていることは承知している。そして重臣であり心根までを分かち合った笹谷であっても、事実以上のことを想像しているに相違なかった。いくら言葉を重ねて弁明したところで、身の潔白を証明するなにもない。だが、他人にどう思われようと構わないと思っていた。彼らが思うよりももっと深く大切なものを、今の自分は手に入れているのだから。
ささやかな板間に枕を並べれば、そこにあるのは当たり前の「家族」の姿である。自分には一生手に入れることが出来ないと諦めていた温かさを日々感じている。偽りの空間でしかなくても、やはりかけがえのない幸せには変わりないと思っていた。

 ―― そうか、これこそが自分の求めていた場所だったのだ。

 他人の目から見れば、何と粗末なものかと笑われてしまうかも知れない。お前ならもっとすばらしい身の上を生まれた時から手に入れているではないかと思う者もあるだろう。だが違う。打算も憶測もなくただ優しさだけを分かち合い互いをいたわり合って過ごしていく日々が愛おしい。
  彼女たちの身の上も詳しくは知らないが、それは自分もまた同じである。そして何も知らぬままでも、十分わかり合えるのだ。もしもこの場所にいることで少しでも役に立つのなら、余所で何と言われようと構うことではない。

「……どうしました、眠れませんか?」

 ハッとして後ろを振り返る。そこにはぐっすりと寝入っているものとばかり思っていた亜津の母親が寝着のままで控えていた。柔らかな赤毛が細い肩を包んで静かに流れ落ちている。そこに表からの光がいくつもの輝きを乗せていた。

「すみません、起こしてしまいましたか」

 いいえ、と軽く首を横に振ってから、彼女は楸陽のすぐ側までやって来た。もちろん、こちらの位置は夜の暗さの中で見定めることは出来ないだろう。板間に軽く指を置きながら、手探りで進んでくる。

「今宵は天の光が眩しい様子ですね、表は昼間のように明るいのではございませんか?」

 荒れ放題の庭はその言葉通りに美しい光で満たされていたが、傍らの女人の目にはそれが映らない。しかしこの惨状も同じく見ないで済むのならその方が良いだろう。

「そうですね、静かな夜です」

 庭草も揺らさぬほどのささやかな気の流れが、甘い香りを運んでくる。にわかに高鳴る我が胸の熱さを感じたとき、彼女が肩が触れ合うほど側にいることに気付いた。

「……志津(しづ)殿?」

 それきりどちらからともなく会話が途切れ、幾らかの間が過ぎた。亜津から聞いて知っていた彼女の名を初めて呼んでしまったのは、あまりの近さに慌てて身を引いたその後にぬくもりが追いかけてきたからである。相手の不自由な身体を思えばすぐに払いのけることも出来ず、楸陽はただ身を固くするしかなかった。

「そろそろ御出立にございますか? お供の方が旅支度など始められているご様子ですね」

 何気なく訊ねられても、にわかには返答することが出来なかった。胸に感じるささやかな重み。彼女が自分の鼓動を聞いている。

「その……、このようなことを申し上げて良いものかと迷いましたが、思い切ってお願いします。名代様がお戻りになるそのときに娘を……、亜津をご一緒させてはいただけませんか? もうすでにご承知の通り、この地ではあの子は幸せになれません。どうか名代様の元で、お仕えさせてはいただけないでしょうか」

 え? と聞き返そうとした唇が震えて止まった。亜津とよく似た澄んだ瞳が自分を真っ直ぐに見上げている。そこに映る全てを彼女が知る術もないとは知りながら、それでも胸には恐怖にも似た痛みが走った。

「もちろん、無償でとは申しませんわ。とは言えこの小屋には差し上げるような何もございませんけれど―― 」

 

 天女の如き微笑みをその頬に浮かべたまま、次の瞬間の彼女は思いがけない行動に出る。

 ゆっくりとほどかれていく腰紐、それが役目をなさない一本の流れとなり床に落ちた音がとても遠くで聞こえた。

 

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