TopNovel玻璃の花籠・扉>あした語り・4


…4…

「玻璃の花籠・新章〜楸陽」

 

 自分が生まれたのは、領主である祖父の館ではない。
  今は遙か遠き、竜王様のお住まいになる都。母である人が畏れ多くも一の君の乳母に命ぜられ、兄と乳飲み子であった姉を伴って移り住んだという。その場所で生を受け、元服を翌年に迎える年までは「使用人の子」として育てられた。

 年に幾度かは西南の祖父の元に戻ることもあったが、そこは自分の住まう世界ではないと幼心にも感じていた。何かひとつの動作を起こすだけで、周りがひどく騒がしい。皆がどうしてここまで自分に注目するのか。それがとんでもなく恥ずかしく、早くこのような場所を逃げ出してしまいたいと思っていた。

 それなのに……、何故このようなお役目が回ってきてしまったのか。

 比較されることなど慣れきっていたはずだ。竜王様の御館には王族の御子様方の他あまたの使用人の子らが絶えず出入りしていて、皆少しでも優れたところを見せようと必死になっていた。決して住み心地の良かった場所だったとは言えない。それでも祖父の館に戻ってからの日々に比べたら、何と気楽なものであったことか。

 兄のように「華」がないことは初めから承知している。そしてそれをどこの誰に指摘されようと、少しも気に病むことはなかった。「影」の身で一生を終える、自分はただそれだけの存在であるのだから。

 

◆◆◆


「おいちゃん、おかわりは? まだたぁんとあるよ!」

 結局、気付けばこの場所に戻っていた。夕餉の支度がととのったからと、亜津が宿まで呼びに来たのである。笹谷の手前もあり今宵は遠慮するのが筋だと思ったが、幼子はどうしてもと食い下がった。里に同じ年頃の孫がいる侍従はこれ以上諫めるのも可哀想だと思ったのだろう、「自分は遠慮しますから」とだけ答えた。

 木杓子を手に、亜津が「小さな母上」よろしく世話を焼いてくれる。柔らかな湯気の向こう、親しみを込めた温かな笑顔。ただそれだけのことがかけがえのないものに感じられる。

「ご遠慮なさらずとも。残して無駄にするのはもったいないですから」

 もう良いからと器を戻せば、今度はこの小屋の女主人までがそう口添えする。確かにこちらに向けられている瞳、そこにはごつごつした輪郭の垢抜けない男が映っていたが、幸い彼女にその詳細は分からない。それを承知しているからこそ、遠慮なく微笑み返すことが出来た。

 聞けば昨日の騒動を詫びて、先刻饅頭屋の主人が雑穀や干した小魚など持ちきれないほどのものを届けてくれたのだという。それならば、名代様にもお分けするのが筋でしょうと言われた。昨夜名乗った仮の身の上を当然のことのように信じている人に後ろめたい気持ちを抱きながらも、楸陽は大人しくその呼び名に従っている。

「みょうだいさまって、むらおささまよりもえらいんでしょう。いったいどんなおしごとをなさるの?」

 突然の問いかけには思わず言葉が詰まってしまうが、そのときはすぐに女主人の助け船が出る。

「都の竜王様の命を受けて、国の分所であるお社をお護りになる大切なお役目なのですよ」

 難しい言い回しに、亜津は半分しか分からないような顔になった。

「ふうん、それじゃあ。わるいおとなもたいじしてくれるのかな? あづがおねがいしたらきいてくれる?」

 こちらを見上げる瞳の清らかさに、ハッと何かを気付かされる。でも次の瞬間には、その思いは遠い記憶の彼方に追いやられていた。

「いや……私はそんなに腕っぷしが良くないからね。逆に退治されてしまうと大変だ、出来れば遠慮したいところだね」

 えーつまんないの、という言葉に思わず吹き出してしまう。すると向かい合った場所で淡い微笑みを浮かべていた人が、くすっと小さく同調してくれた。

 不思議なものである。こうしていろりを囲むのは二度目だというのに、旧知の仲のような親しみがささやかな板間に溢れていた。幼子の屈託のない笑い声、青菜とわずかな雑穀だけの粗末な汁でさえも今まで生きてきた二十年の間に感じたことのない豊かさをもたらしてくれる。

 

 ―― そうか、ここでは何を臆することもないのだ。

 自分の中に芽生えたわずかばかりの変化を、少し遅れて感じ取る。
  ものの分からぬ幼子ならともかく、年若い女子は以前からとても苦手であった。年を重ねた苦労人とは異なり、彼女たちは素直な感情をその美しい肌に残らずさらけ出す。兄に代わり跡目と決まった自分のところには領地内外の村長やそれに準じる身分の家柄からたくさんの縁談話が舞い込んでいたが、顔合わせのその席でいつも同じ視線に晒されてきた。

「どうして、わたくしがこのような御方と」―― 決して言葉になどすることのない一瞬の間合いであったが、その訝しげな陰りは隠しようがなかった。領主である父の、そして都に残った兄の、その華々しい噂は領地の枠を超えて国中にまで広まっている。それよりは幾らか見劣りすると前もって覚悟を決めていた者たちであっても、己の中に宿った落胆の色を隠すことが出来ないのだ。

「さっさと気に入った者を選べばよいのです。格下の者に断る権利などないのですから」

 気に入った縁談を無理にでも進めようとする祖母は、きっぱりとそう言い切る。確かにそれは正論であろう、こちらが異議を唱えない限り好むと好まざるとに関わらず話はまとまってしまうのだ。

「全く……あなたも少しは堂々と振る舞えば宜しいのですよ。そのようにおどおどと頼りなくしているから、皆に軽々しく見られるのではないですか。相手の顔色など窺う必要はありません、あなたはいずれはこの地を治める領主となられる方なのですから」

 だから何だというのか。権力が身分というものがそんなに偉いのか。

 祖母と自分の間に深く横たわる「価値観」の差は、もはや埋めようがなかった。そして何よりも腹立たしいのは、腹の中にあまたの異論を抱きながらもひとことも口にすることが出来ない自分。このまま押し黙っていては、祖母の言葉に同意したことになってしまう。館で自分の側に仕える者たちは、あるいはそのように考えているのかも知れない。
  西南の集落でも一位二位を争う程の家柄に生まれながらも、あの館には自分の生きる場所がない。跡目としての座は用意されていたとしても、そこでは一生涯の間平穏は訪れないのだ。
  同じことならば、己の意志など忘れた「抜け殻」になってしまえればいいのにとすら思う。誰かの指し示すその通りに身を動かし、そこに何の感情も持たぬ自分になってしまいたい。

 

「また、お手元が止まっておいでではございませんか? そろそろ火が弱くなって参ります、冷めないうちにもう一杯如何でしょう」

 はしゃぐ子供を膝に乗せたまま物思いに耽っていると、柔らかく気遣う声にそう訊ねられる。ハッとして面を上げたものの、その人と自分の視線が触れ合うことはなかった。

「いや、……本当にもう入りません。ありがとうございます」

 あまりに的確な指摘には「もしや、実際のところは全てが見えているのでは?」という疑問まで湧いてくる。しかし再び招き入れられた夕刻に恐る恐る訊ねてみれば、それがただの杞憂であることが分かった。

「もともと、病と言うほどのものではないのです。目の前のかすみが日を追うごとにひどくなり、ついには手元がおぼつかなくなっただけのことですわ。ある程度の明るさがあれば、ぼんやりと周囲や相手の方の輪郭は捉えることも可能なのですよ」

 急に悪くなり出したのが、この二月ほどの間だという。それまでにも目がかすむことはたびたびあり、それでも仕方のないことだと諦めていたのだと。

 他人の不幸を喜ぶことほど馬鹿げていることはない。他の者はどうであれ、自分は決してそうはすまいと思っていた。だが、どうだろう。今の自分はこの人の目がもうしばらく光を取り戻さなければいいと思っている。こんなにも柔らかく接してくれている人が、この顔を一目見たときに手のひらを返したように態度を変える場面は見たくない。そう、あの宿の女将ですら、蔑みの眼差しを向けたこの面に。

「今では亜津がわたくしの代わりに働いてくれます。本当にあの子には助けられるばかりですわ」

 庭先でひとり遊びを続ける娘の影を追いながら、彼女はその瞳を寂しげな色に染める。人の母として気丈には振る舞っているが、内心はどんなにか心細いであろう。しかし、全くの部外者である自分があれこれ口出しをすることではない。思いつきの言葉で慰めたとしても、そこに残るものなど何もないのだから。

 沈黙が全ての感情を押し流してくれる。今は辛くても、やがて忙しさの中に忘れてしまうことが出来るだろう。

 手探りの指先を苦にする様子もなく、彼女は水仕事から部屋の片付けまで危なげなくこなしていく。腰にまとわりついてくる幼子を優しい声でたしなめながら、退屈しのぎに出来る仕事をふたつみっつと言いつける。心の通い合ったやりとりが何とも微笑ましく、いつまでも眺めていたいような衝動に駆られた。

 何故、こんなにも懐かしく思えるのだろう。自分にこのような昔が存在したわけではあるまいに。

 

「おいちゃん、こんやもとまっていかれるのでしょう? あづ、となりでねていい?」

 夕餉の膳が片付けられると、当然のようにしとねの準備をされる。いつの間に運び込まれていたのか、真新しい寝具が一揃え整えられていて驚いてしまう。

「いや、今夜は―― 」

 昨夜は旅疲れで、知らぬうちに寝入っていた。だが、今宵はまだ歩いて隣の宿に戻るだけの気力が残っている。いくら好意に甘えると言っても、ものには限度があるだろう。

「えー、どうして? いいでしょう、あづはおいちゃんといっしょがいいっ!」

 この子が何故、ここまで自分に懐いてしまうのかが分からない。あまり無愛想なのも幼子とはいえ女子としては好ましいことではないが、出会って間もない相手にここまで心を許してしまうのもどうであろう。もともと、自分はそれほど人好きする人間ではない。慕われて悪い気はしないものの、どうしても不安になってしまう。
  やはり、今宵は笹谷の待つ宿に戻った方がよいと思った。眠くなってきたのかむずかって甘えてくる幼子には申し訳なく思うが、ここは出来るだけ穏便にことを運びたい。

 しかし。楸陽の必死の想いも、盲目の女人によって呆気なく打ち砕かれてしまう。

「名代様さえ宜しければ、どうぞご遠慮なく。ささやかではございますが、ご準備をさせていただきますわ」

 その言葉には、思わず耳を疑ってしまった。

 どういうことだ、何故幼子の言葉をたしなめてはくれない。ここは一間限りの小屋ではないか。母子が身を寄せ合って眠るその場所に、何とも不用心な話である。自分が勘ぐりすぎなのであろうか、いやそう言う問題ではない。

「……しかし」

 刹那。「もしや」という想いが胸をかすめ、それを必死に振り払う。いや違う、そんなことがあっていいはずはない。だが、そうであれば……全てのつじつまが合ってしまうではないか。

「こちらはもともと、宿の先代様が広すぎて使わないからとわたくしたちに貸してくださった場所なのです。あちらにお泊まりのお客様がこちらにお出でになっても、何もおかしいことはございませんわ。元は離れ家だったのですから」

 辺りを片付けて、当然のように支度を始める細い背中。こちらが一言も発しないままであるために、全てを同意したと受け取られているのだろう。

「ははさま、あづもてつだう! おいちゃんのとなりがあづだからね……!」

 どこにでもあるような、母子の温かなやりとり。それを見つめる楸陽だけが、狭い空間の中でぽつんと異端の存在であった。

 

◆◆◆


 村里からぽつんと離された場末の宿。そこに滞在していると、次第に不思議な気分が湧き出てくる。

 賑わいはすぐ側にあるのに、あまりに遠いような。自分などいてもいなくても同じような。細い煙が立ち上る村の風景を見下ろしながら、なかなかその場所へ足が向かない。

 

「まあ……わざわざ申し訳ございません」

 こちらが名乗らずとも、物音で相手を判断してしまうらしい。彼女は縫い物の手を止めて、見えない目でこちらに向き直った。まだ日の高い刻限で、奥の戸を開け放った部屋は柔らかい光に溢れている。外歩きの足を洗う間ももどかしく、楸陽は板間に上がった。

「少しは様子が良くなりましたか、……可哀想なことをしました」

 いいえ、と予想通りに頭を振っていつも通りに微笑みかけてくれる人。その優しさが楸陽の胸にそのまま染み通っていく。

「こちらは、供の者に用意させた熱冷ましです。湯に溶いて飲ませるといいでしょう、どれ私がやりましょうか」

 夜半に布団に小さなぬくもりが忍び込んできたのは分かっていたが、知らぬ間に上掛けを自分ひとりで占領してしまっていたらしい。明け方の涼しさに当たり、亜津は少し熱を出してしまった。

「まあ……そのようなこと。お客様にしていただいては―― 」

 いろりにかけた鉄瓶を取って器に注ぐのは、常人でもなかなかに危ない作業である。よほど注意しなければ、熱をまともに受けてしまう。女人の手のひらにいくつもの小さなやけどがあることを楸陽は知っていた。

「さあ、少し冷ましてからの方が良いでしょう。良く眠っているようですから、無理に起こさない方がいいですね」

 館に戻れば、祖父が手を付けた側女たちの子や孫があまたと住まっている。姉のところにもすでに子が幾人もいてその賑やかさは見知っているつもりであった。
  だが、こうして身近に接してみると驚かされることばかりである。幼子とはこのように愛らしく、そして頼りないものであったのか。自分がもう少し気遣ってやれれば、と今更ながら悔やまれる。

「本当に……何から何まで申し訳ございません。名代様のせいではございませんわ、ここ数日娘ははしゃぎすぎたのだと思います。失礼なこともたくさん申し上げたことでしょう、どうかお許しくださいませ」

 静かな寝息を立てる幼子の上掛けを直しながら、女人はおぼろげに光を捉えるだけのその目で自分の指先を辿った。

「この子は……この子がこのように私以外の大人に懐くことは生まれて初めてなのです。このように申し上げても信じてもらえないかと存じますが……」

 そこで一度、言葉が途切れる。その先を続けようかそれとも止めようか、彼女の中で何かが激しくせめぎ合っているようだ。

「いえ、……そのような」

 楸陽の中にも「予感」はあった。何故このように自分が懐かれるのかは不思議であったが、この幼子にとって自分は特別の存在であることは薄々分かっている。供の笹谷にすら、この子は遠巻きにしか近寄らない。昨日の宿の女将とのやりとりもはっきりと思い起こすことが出来る。

 そして何よりも。亜津と初めて出会ったときの饅頭屋のおかみの、そしてあの村人たちの遠巻きの眼差し。

「わたくしもとても戸惑っているのです。嬉しそうにしているこの子を制することが……どうしても出来ませんでした。このようなことになったのも、わたくしのせいですわ」

 本当にお気になさないでください、と彼女はもう一度深く頭を下げた。元々身体が弱く季節の変わり目などにはよく熱を出す子供なのだという、ただこの二月ほどは母親がこのようになってしまったためか気が張っていたのだろうと。

「この子の幸せだけが、わたくしの望みです。それ以外は何ひとつ欲しいとは思いません」

 

 きっぱりと言い切ったその口元には、静かな、しかし強い想いが宿っていた。垂らしたままの髪が、流れ込んでくる気に舞い上がる。

 刹那。やつれた輪郭のその人が、いつか赤い毛氈(もうせん)の上で見た愛らしい雛の人形のように思えた。

 

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