TopNovel玻璃の花籠・扉>あした語り・3


…3…

「玻璃の花籠・新章〜楸陽」

 

 翌日。朝支度もそこそこに宿に戻ると、すでに朝餉を終えた笹谷が静かに控えていた。

「こちらが本日のお召し物になります、急なことで十分には揃えることが出来ませんでしたが宜しいでしょうか?」

 ここに戻るまでのしばしの間にいくらかの言い訳も思い浮かべていたが、目の前の部下にはそのひとつも告げる必要がないらしい。淡々と続く会話が薄気味悪くすら感じたものの、自分から進んで口を開く勇気もなかった。
  朝餉は済ませたのかと訊ねられ、まだだと答える。すぐに運ばれてきた膳は見てくれは良かったが、味は昨夕に亜津が言っていたとおりどれも塩気が強すぎた。少しでも味覚を取り戻そうと、口に含む茶の量が増える。だが若葉色に染まったその液体は生ぬるい上に風味もなく、およそ客人をもてなすものではなかった。

「今日のご予定は如何いたしますか? 昼過ぎには使いの者が参りますから、それまで自分は村をくまなく回って多少なりとも情報を集めることにします。しかし若様はここであまり目立った行動はなさらない方が宜しいでしょう。全てが明るみに出る前にこちらの素性が悟られてしまっては困ります」

 それは楸陽としても同感であった。まだ年若く領地回りに慣れない頃には、それで幾度となく失敗したものである。人は相手の身分や家柄でがらりと態度を変えてしまうと言うことが、初めはとても不思議だった。己はどうかと問われれば、やはり首をひねるばかりである。頭でいくら考えたところで上手くいかず、ついにはそう言うものなのだと自分の意志には関係なく諦めることにしていた。

「一山越えたところに、以前父上に仕えていた者がいると聞いている。そこに行けば、何かしら話が聞けるだろう。こちらはこちらで好きに歩いてみるよ」

 山間のこの辺りはのどかな土地柄と聞いていたし、何か問題ごとが起こったと話題に上がったこともない。祖父の時代から全てを地元の役人に任せて手つかずの状態であった。このような場所は他にもいくらもあるのだろう。その全てを足で探ることは出来ぬまでも、一度詳細を洗い出してみる必要がありそうだ。
  館にいれば、次から次から雑用が飛び込んできてそれらを処理するだけで日々を過ごしてしまう。やはり自分にはそのような暮らしは似合わない。それを承知しながらも、この先は運命に流されてしまうしかないのか。

 新しく用意された衣は、「分所の名代」という仮の肩書きに相応しく色目も柄も今までのものと比べてかなり質素な品であった。いちいち指示しなくとも、こちらの思うところはお見通しと言うことだろうか。上手く手綱を握られている気がしないでもないが、それをいちいち口にしたところで仕方ない。
  ここに至るまでにも、この者には幾度となく我が儘を聞いてもらっているのだ。今回のことにしてもその厚意にすがるしかないだろう。

「あらかじめ分所の方にも話を付けてあります。とは言え、やはり出過ぎた真似は困ります。あちらの迷惑になっては今後がやりにくくなりますからね」

 何から何まで、細かく気の回ることである。まあそれも思いつきで行動してしまう主人を持ってしまった者の宿命なのか。思わず口からこぼれてしまった溜息を、悟られぬように己の手のひらで留めた。

 

◆◆◆


 領主として一番大切なものは何であろうか。

 それは評価するそれぞれの者の立場で変わってくると思う。お仕えする西南の集落の大臣様、また遠き都の竜王様にとっては、きちんと禄高を納め争いごとなく領地を統治出来る技量にこそ重きが置かれる。やんごとなき身の上とは言われても、もしも上から首を切られてしまえばそこまでだ。そのことを決して忘れてはならない。
 では領民たちにとってはどうであろう。無理難題を押しつけずに優しくおおらかであることが望まれることは明らかだ。だがそれだけでは広大な土地をしっかり治めることは出来ない。方々にいい顔ばかりしていては、政(まつりごと)はすぐに立ち行かなくなる。善悪をしっかりと見定めること―― 時には己を悪者にしても裁かなくてはならない場合もあるのだ。

 ―― しかし、それもなかなかにして難しいことである。

 正式に跡目と決まってからというもの。その政(まつりごと)に日々を過ごしていく日々の中で、次第に深みに足を取られて動けなくなっていく自分に戸惑っていた。
  父は祖父は、そしてあまたの領主たちは、どうしてこのような責務を当然のようにこなして来られたのだろう。やはり無理だ、一生掛かっても無理だ。それを分かっていても、踏みとどまることが出来ない。自分に寄せられた期待を振り解いてまで、我を通すのはあまりに子供じみている。

 想いが寄せて、そして返していく刹那。波間に見え隠れする己自身の叫びがどこまでも追いかけてくる。

 

 半日掛けて山越えをしてみたが、そこで得たものは何もなかった。

 無駄足と言う言葉があるが、まさに今の心境はその通りである。訪ねた人は数年前にすでに亡くなっており、跡目となったその息子は楸陽の顔を見ても訝しげな表情をするばかりであった。仕方なく墓前に手を合わせ、挨拶もそこそこに引き上げることにする。行き帰りは急な坂道であったが良く整備されており、程よい汗をかいた。

 木々が心地よく枝を広げ、山道に日除けの影を作る。折り重なる葉の向こうに青い天が広がり、手を伸ばせばその場所に届きそうな錯覚を覚えた。

 笹谷は今日一日でどこまで調べを進めたのだろうか。彼は館に仕える侍従の中でも、特に優れた人物である。もう全てやり終えて、旅支度でも始めているかも知れぬ。いつまでも気楽な野歩きなど続けて良い身の上ではないのだ。いよいよ覚悟を決めなければならない時に来ているのに、それでもまだ心に残るわだかまりの正体は一体何であろう。

 

◆◆◆


「おや、もうお戻りですか」

 ようやく宿に帰り着けば、出迎えてくれたのはそこを取り仕切っている女将であった。中年に差し掛かった年頃の恰幅の良い女子(おなご)でありその顔には愛想の良い笑みを浮かべていたが、見つめる瞳の奥には何かを勘ぐる妖しげな光が覗いている。不躾に見えるその眼差しには気付かぬふりをして、ひさし向こうの静まりかえった小屋に目をやった。

「お供の方は先刻にお出かけになりましたよ。何でも急な用事が出来たとか言って……どちらへとは言付かってませんが、お戻りは夕刻になるとのことです。どうしますか、それまで部屋でお待ちになりますか?」

 是非にという素振りはなく、どちらでも好きなようにしろという感じである。仰々しく持ち上げられるよりは気が楽であるが、これではどう返事したら良いものかと迷ってしまう。まだ日も高いことでもあるし村の中をぐるりと回ってみるという手もある。だが、笹谷の許しを得ないままではそれも難しい。

「そうだな、しばらくここで待つとしようか―― 」

 薄暗い部屋奥に籠もっていては、ますます気が滅入ってしまいそうだ。そう考えて軒先を借りることにする。そこから一望できる村の風景は、まだ日の中だというのにひっそりと静まりかえっていた。

 表の縁に腰掛けて、手ぬぐいで汗をぬぐう。その後、ふと思いついて懐から薄紙と携帯用の硯箱を取り出した。やはりこのたびのことは館の父に自らの筆で一言断っておいた方が良い。こちらの行動にいちいち目くじらを立てるような御方ではないが、ここは道理を通しておくべきだろう。
  紙を宙に置いたままで書き易いとは言えないものの、どうにか体裁の整ったものを書き終えた。一息ついたところで再び顔を上げる。すると、通りの向こうから小走りに近づいてくる小さな影が見えた。

「あーっ、おいちゃん! やぁっとかえってきたね!」

 昨日と同じ衣を着た幼子が、嬉しそうに駆け寄ってくる。彼女は宿の前まで来て、盆に茶道具を乗せて戻ってきた女将と丁度鉢合わせするかたちになった。

「おんや、亜津。お前さんの待ち人はこちらの御方だったのかい? 珍しいこともあるもんだね、あんたがウチのお客に進んで声をかけるとは」

 そう声を掛けられた途端に、彼女は小さな身体を楸陽の影に隠してしまう。隣同士の仲で女将とは顔見知りであることには間違いないのに、こちらの衣を握りしめた手が小刻みに震えていた。

 女将は茶道具を縁に置くと、ふうんと鼻を鳴らして腰に手を当てる。その視線は間違いなく楸陽の影にある幼子に向けられていた。

「まぁったく可愛い気のない子だよ。そんなじゃ、将来どうなるんだか」

 吐き捨てるようにそう言った後、女将は大きな身体を重そうに揺らして去っていった。

「……あのおばちゃん、きらい」

 傾き掛けた天の輝きに、消えそうな呟きが重なる。だがその言葉に驚いた楸陽が声の主を振り向いたとき、彼女は一瞬前に告げた言葉も忘れたように微笑んでいた。

「おいちゃん、もうおしごとおわった? だったら、きょうもいっしょにみずくみにいこう。あづ、ずっとまってたんだよ」

 はしゃぎ声を上げてまとわりついてくるか細い腕。しかしそこから伝わってくる震えが未だに続いていることを楸陽だけが知っていた。

 

「よかったーっ、あさからすがたがみえないんだもの。もうどこかにたたれてしまったのかとおもった」

 取っ手の部分が外れそうになった木桶を下げて、坂道を下りていく。領主の父の館にあっては、自らで雑用などする必要はない。こちらが命じるまでもなく、身の回りの全てが滞りなく整っているのが日常だ。だからこそ、このような仕事も物珍しくこなすことが出来るのかも知れない。

「おいちゃん、さきほどふみをかいていたでしょう? とてもきれいなじだったね。さすがおやくにんさまだとおもったよ」

 川辺までの道を案内するように少し先を歩きながら、時折振り向いて屈託のない笑顔を見せる。これこそが、彼女の本来の姿なのだろう。素直に褒められれば悪い気はしない、楸陽もにっこりと微笑み返した。

「亜津は書に興味があるのかな?」

 何気なくそう訊ねると、幼子はますます目を輝かせる。そして、道ばたに落ちていた枯れ枝を拾い上げた。

「あのね、あのね。あづ、かけるの。ほら、みてっ!」

 得意げにそう告げて、大きく枝を動かしていく。陽の当たる土の上には、確かに「あづ」と彼女の名前が記されていた。それは注意深く眺めてかろうじて読み取れるほどのつたない筆運びではあったが、思いがけない光景に楸陽は舌を巻いた。

「これは、……一体誰に習ったの?」

 彼が驚くのも無理はない。ここ海底の地では、文字を知るものは民のうちの半数もいないと言われている。竜王様の都のように各地から優秀な人材が集まる場所では当然のように扱われるそれも、場末の土地では全く役をなさなくなるのだ。ましてやここは領地の外れで山間の小さな村。書を自在に扱えるのは村長と庄屋の家の者くらいだろうと思っていた。
  亜津は大きく見てもで三つ四つにしかならない幼子である。良家ではそろそろ各種の手習いの師を付けられる頃であるが、とてもそのような身の上ではない。不思議なことだと思った。

「ははさまだよ。ははさまもね、とてもきれいなじをかかれるの。まえは、やどのおばちゃんやえらいひとから、たくさんしごとをまわされていたんだから」

 褒められてたいそう気をよくした娘は、よく回る舌で教えてくれる。しかしそれは、楸陽にとってにわかには信じられない話であった。

 ―― 彼女が? ……まさか。

 見てくれで人を判断するのは間違っていると思う。だが、それを承知した上でも今の話を鵜呑みにすることは出来なかった。開かずの戸の暗い廃屋で、ひとりうずくまるように過ごしている盲目の人。西南の民でありながら白すぎる肌、頼りない輪郭。確かに彼女はこの地の人間ではないのだ。

 ならばどうして……?

 さらに自分に問いかけようとして、ふと立ち止まる。
  ああ、駄目だ。そのようなこと、気にしたところでどうなるものでもない。確かな後ろ盾のある楸陽であれば、貧しい母子の生活を今より潤いのあるものにすることはそう難しいことではなかった。だが、いちいち手を施していたらやりきれないのも正直なところ。領主となる立場にあるならば、全ての領民に等しく心を砕かなくてはならないのだから。

「おいちゃん、ころものすそがよごれているね。あづがあらってあげようか?」

 そのようなことを小さな子供に頼めるはずもないと断ると、彼女は分かりやすく不機嫌な表情になる。

「ぜにをとるとおもったの? おいちゃんにはそんなことしないのに」

 別にそんなつもりで断ったのではないのだと告げても、なかなか納得してくれない。こんなに小さくても女子は女子。手慣れてない楸陽はすっかりと振り回されていた。だがその一方で、そのようなやりとりを楽しむ自分にも気付いている。昨日出会ったばかりの間柄なのに、まるで数年来の付き合いのように馴れ合っていた。

 この愛らしさは、天性のものに相違ない。古びた衣も手入れをしない髪も、その輝きを曇らせることは出来ないのだ。

「あづね、はやくおおきくなりたい。そして、ははさまをたすけてさしあげたいの」

 両手に水桶を持ったためにさしのべることも出来ない楸陽の手を、彼女はあらん限りの力で掴む。

「おいちゃん、あづにしょをおしえて。せいしょのしごとがもらえるようになれば、ははさまのごびょうきをなおしてあげられるから」

 それがとてつもない遠い夢であることを、必死にすがる幼子に伝えることはついに出来なかった。

 

◆◆◆


 羽虫の飛び交う水辺をあとに、ふたりが戻ってきたのは昨日と同じ小さな廃屋の前であった。今にも崩れ落ちそうな軒の向こうへ、彼女は嬉しそうに飛び込んでいく。

「ははさま、ただいまもどりました!」

 そして自分が使うよりも先に、楸陽の方に足を洗う水桶と手ぬぐいを差し出してくる。それを手に取る前に、宿のひさしから、馴染みの顔が姿を現した。

「私はあちらで話を聞かねばならないからね、これでおいとまするよ」

 半開きになった戸口の向こうで、控えめな女人が静かに頭を垂れる。確かに下々の者にはないような身のこなしであると思う。だがそれも、ただの思い過ごしである可能性もあるが。
  想いを振り切るようにきびすを返す。だがそれは自分の望んでいない場所へと一歩を踏み出す時の心地にも似て、何かを無理に引き剥がされる痛みを伴った。

 

「―― 少し面倒なことになりました。不本意ながら、しばらくはこちらに滞在しなければならぬようです」

 奥の間に入って人払いをすると、笹谷は苦虫を噛みつぶしたような顔のままでそう告げた。「不本意ながら」というその言葉に、彼の今の心境が表れているようである。

「この辺一帯を取り仕切る分所で、帳簿の入った倉の鍵を預かった者が所用で半月ほど出掛けているとか。間違いのないように鍵は替えのものを作っていないそうなのです。ならばその者が戻ってから詳細を調べて館に報告すればよいと告げましたところ、あまり色よい返事が戻ってきません。あれは……何か後ろ暗いことがあることは明らかですね。分所の方でも薄々は勘付いておりながら、今まで打つ手がなかったようです」

 こちらが気楽な山歩きを楽しんでいた間、この者はさまざな地を回って情報を集めてくれた様子である。しかしそうであっても決定的な結論まで行き着かなかったところを見ると、かなりの深刻な状況なのだろう。

「何らかの不正があったとすれば、それを直接暴く立場になる者は気が気ではないでしょう。私どもとは違い、彼らは今後ともこの土地で生きてゆく者たちです。好きこのんで悪人になりたいと思う者はおりませんよ」

 まあそれも、仕方のないことであろう。生まれ育った馴染みの土地で任に付けば、あちらこちらに知り合いがいることになる。その土地を良く見知った者の方が良いだろうということで今までは当然のように地元の者を選出をしてきたが、これについても今後改めて行かねばならぬかも知れない。

「ならば、私たちが立ち会えば方々への義理立ても出来ると言うことなのだな」

 左様にございます、と笹谷が頷く。かなり回りくどいやり方ではあるが、それが希望であれば従うのが得策であろう。こちらも同意して頷き返せば、彼はなおも膝を進めて小声になる。

「今宵も別棟の方に行かれるのですか? 先ほどここの女将からどうするのかと訊ねられました。その……、自分などがあれこれと口を挟むことではないとは思いますが――」

 躊躇いがちに言い掛けたものの、すぐに口籠もってしまう。その言葉の裏にあるものを薄々察しながらも、楸陽はただ障子戸から流れ込む夕暮れの気に心を揺らしていた。

 ―― 何も気に病むことなどないのに。

 そこによどんだ水があれば、堰き止めている問題ごとを取り除いて上手く流してやればよい。ただそれだけのことだ。その上のことを望んではならぬことを、もうとうに知っていた。

 

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