TopNovel玻璃の花籠・扉>あした語り・2


…2…

「玻璃の花籠・新章〜楸陽」

 

「若様、どちらへ?」

 村長の家を出て歩き始めたところを、後ろから呼び止められた。

「宿はこの道を西へ行ったところと聞きました。話は通してくれるということでしたが、行き違いがあってはなりません。急ぎましょう」

 主である自分が何を思っているかなど、この道の長い笹谷には全てお見通しなのだ。これ以上脇に逸れることになれば、夏の行事に差し支えてしまうと言いたいのだろう。控えめではあってもそのもの言いに迷いはない。これ以上無理を通すわけにもいかない、楸陽は観念して彼の後に続いた。

「先ほどの幼子のことが気に掛かるのは分かります。でも必要以上に面倒ごとに首を突っ込むのは領地をまとめる御方としてあるまじき行為、どうかお慎みくださいませ。……確かにこちらの村は若様のお考えの通りに何か裏に潜んだものがありそうな気がします。それも二三日のうちには調べが付くでしょう、自分がすべて手配いたしますから若様はどうぞご心配なく」

 こちらが話を切り出す前に、笹谷はすでに今後の段取りを頭の中にしっかりと組み終えているようである。領地回りを任された際に横道に逸れることは今までにも幾度となくあったため、この者も段々利口になってきたと言うことだろう。上手い具合に操作されているような気分になるが、あまり多くを口出ししても互いの間にいらぬしこりを残すだけだ。飲み込めることは、黙っているに越したことはない。

「いつも、すまないね」

 決して嫌みなどではなく、本心から出た言葉であった。それを知ってか知らずか、笹谷はこちらを振り返ると軽く頭を下げる。微笑む口元に刻まれた年月、揺るぎない信念がそこに宿っていた。

「いえ……、すべては若様のため、御家のために。皆様のお役に立てれば、それが本望です」

 夕暮れの気が、ゆっくりと流れていく。湿り気を含んだそれに後れ毛を揺らしながら、楸陽は先ほどまでの村長とのやりとりを静かに思い起こしていた。

 

 やはり、何かがおかしい。
  言葉を重ねれば重ねるほどに、疑惑はさらに深まるばかり。こちらが本来の身分を隠していたことも幸いしてか、相手は必要以上に構えることもなく鷹揚な態度を続けてゆく。
  日暮れが迫っていたこともあり一夜の宿を求めれば、屋敷の一室ではなく村はずれの安宿をあてがわれた。もちろん宿代は向こう持ちと言うが、何とも不可解な話である。さすがの笹谷もこちらが止めなければ一言返していたところであった。

 

「これはまた、……寂れた有様ですね」

 他に適当な言葉が思い浮かばなかったのだろう。今にも崩れそうに朽ち果てた長屋の続く道で、前を行く笹谷が大きく溜息を落とした。

「こちらが今宵の宿のようです。手前が話を付けて参りますから、若様はこちらでお待ちくださいませ」

 緩やかではあるが、しばらく道なりに坂を上ってきたようである。
  宿の建つこの場所は村を見下ろす高台にあった。あの賑やかな辻が、先ほどの店がある大通りだろうか。このような離れた場所にぽつんと存在する宿。それはまるで外部からの侵入者を阻止するためのように思われた。

 すでに西の空が朱に染まっている。その飛び火をそこここに受けて、村全体が声にならない叫びを上げているかのように見えた。

 

 ―― と。

 にわかに気の流れが変わる。その先に視線を移せば、廃屋とばかり思っていた隣の建物から小さな影が飛び出してきた。

「ははさま、もういっかいでいいの? それだけでたりる?」

 こちらが目をそらせないでいるうちに、彼女の方が振り向く。赤毛のおかっぱ頭がふわりと舞い上がった。

「―― おいちゃんっ!」

 驚いて見開いた濃緑の瞳が、みるみるうちに歓喜の色に染め上げられる。目の前の存在を確かめるように幼子は何度も何度も瞬きをした。長いまつげが頬に影を作る。

「さっきはどうもありがとう! もうごようはおわったの?」

 裸足で地面を蹴り、先ほどと同じようにまとわりついてくる。しかし楸陽にはその嬉しそうな仕草よりも、彼女が手にする抱えられないほど大きな木桶ばかりが目に付いていた。

「これから水汲みに行くのかい。まさか……向こうの川まで?」

 村はずれの川辺までは目算で見てもかなり遠く、大人の足で歩いてもかなりの距離がありそうである。ましてや小さな娘子の歩みでは、日が暮れきるまでに戻ってこられるかも分からない。思わずひっそりと静まりかえった廃屋を振り返ったが、そこは物音ひとつしなかった。

「うん、いちどくんできたんだけどね、まだちょっとたりなかったんだ。いそがないといけないから――」

 じゃあね、と走り出しそうになった小さな影を楸陽は後ろから追いかける。そのとき、丁度宿から顔を出した笹谷にも聞こえるような声ではっきりと告げた。

「ならば私も付き合おうか。何、夕餉前の腹ごなしには丁度いい」

 

◆◆◆


 水辺に近づくほどに、辺りを飛び交う羽虫の数が増えていく。朱に染まった羽の色を眩しく見送って、また並んで歩く幼子の姿に目を落としていた。

 ―― 一体、なんとしたことだろうか。

 先ほどの饅頭屋の店先でのやりとりも痛々しかった。あどけない年頃の子供をあそこまで辛辣に罵るなど、世の中を知った大人のすることではない。しかし、……まさかこの子は。家に戻ってまでもさらに両親からひどい仕打ちを受けているのだろうか。どうしてそのようなことをする必要がある。何かが大きく歪んでいるとしか思えない。

「おいちゃん、きょうはとまり? おつきのひともいっしょに?」

 そうだと答えると、また嬉しそうに笑い声を上げる。すすけた古着をまとい、むき出しの手足は泥だらけ。しかし彼女は自分の見てくれなど気にする様子もなく、どこまでも伸びやかに無邪気であった。

「だけど、あそこのやどはしょくじがまずいよ? すっごくしょっぱいの、おいちゃんのくちがまがっちゃうかも」

 そう言い終えてから、しまったと口を押さえる。たっぷりと水を汲んだ木桶は楸陽が手にしていた。彼女は空いた両手に川岸の花を摘み、嬉しそうに抱えている。

「よそのひとのわるぐちはよくないね。……でもほんとのほんとなんだもの」

 いつもこのように家人から仕事を言いつけられているのかと問えば、「そうだよ」と当然のように答える声が戻ってきた。逆境にも卑屈になることもなく、大人でも頼まれれば文句のひとつも言いたくなるような仕事を嬉々としてこなしている。目の前の幼子の純真さがあまりに眩しく、その一方でこの子を虐げている者たちへの憎悪がどんどん膨らんでいった。

「おいちゃんは、えらいおやくにんさまなんでしょう? おめしになっているころもが、むらのだれよりもきれい。ねえ、どこからきたの? ずっととおく?」

 物珍しそうに確かめられて、すぐには返答が思いつかない。今日は急に予定が変わったため、衣も改めて来なかった。館に戻れば普段着にしかならない装いも、場所が変われば悪目立ちしすぎる。このような幼子にまで気付かれてしまうようでは情けない。

「そう、……ずっと北にある竜王様の都から来たんだよ。向こう村にある分所に新しい人が入るまでの中継ぎでね、とはいえたいした仕事もないからしばらくは気楽な身の上になるかな」

 清らかな眼差しに戸惑いながらも、普段から使い慣れている「言い訳」を口にした。多分目の前の幼子には自分の告げた言葉の意味が分からないだろうと承知しながら。やはり明日にでも笹谷に頼んで当座の衣を用意してもらわなくてはならない。長居にならずに済むとは告げられたが、今のままの衣では思うように動くことも出来ないだろう。

「ふうん、それならあすもいっしょにあそべる? おいちゃんとみずくみにいくの、とてもたのしかったよ。おはなし、とてもじょうずだね!」

 そう言うわけにはいかないと答えれば、つまらなそうに唇をとがらす。くるくると変化する表情が愛らしい。このように心を和ませる存在を、どうして村人たちはあのように疎ましく思っているのだろう。その原因を彼女に探そうとしても無駄だった。

 

 目の前の羽虫が去り、ようやく丘の上まで戻ってきた。戸口に水桶を置くと、それに気付いたのか中から物音がする。

「まあ、亜津(あづ)。早かったですね、足を洗ってお上がりなさい」

 それは先ほどまで耳元で感じていた羽音よりも淡く、夕闇の気にそのまま溶けてしまいそうなか細い声であった。とんがった小耳がぴくりと反応し、娘子が勢いよく木戸を開ける。

「ははさま、ただいまもどりました! あの、あのねっ! さきほどのおいちゃんが、おいちゃんがみずくみにごいっしょしてくだすったの。だからね、とてもはやくおわったんだよっ!」

 さすがに泥だらけのままでは上に上がれないと悟っているのだろう、膝を上がり口に乗せて足をばたばたさせながら嬉しそうに報告する。
  見る気もなく開け放たれた向こうに目をやれば、灯りひとつない暗がりで何かが小さく揺らめいた。

「まあ、……そうであったの。ご無理を申し上げたのではないでしょうね、その御方は今どちらへ……?」

 刹那。

 確かに互いの視線が止まったと感じたのに、その人は気にとめる風でもなくそのままゆるりと横にそらしてしまう。暗がりに戸口からの残り火が入り、目が慣れたこともあってようやく狭い部屋の全体が見渡せた。ささやかな土間、それに続く猫の額ほどの板間。中央にはいろりがしつらえられ、その上で鍋が煮立っている。

  中にいたのはまだ年若い女子がひとりだけ。幼子とは姉妹になるのだと言っても頷ける感じであるが、確かに「ははさま」と呼ばれている。彼女は娘の帰宅にすぐに駆け寄って出迎える様子もなく、壁を手で確かめながらゆっくりと進んできた。腰までたらしたままの髪で、幼子にも増して粗末な衣をまとっている。

「こちらよ! とてもおやさしいおかたなの、あづといっぱいおはなしをしたんだよ!」

 その声の行方を探すように、彼女はゆっくりと振り向く。その頃にはだいぶ間口近くまで進んでいたので、こちらを見上げる表情までしっかりと見て取ることが出来た。

 ―― 何と。

 自分から先に切り出そうとした、その声が喉の奥に絡みつく。しばらくはそのまま動けないままでいたが、そのうちに彼女の方が床に丁寧に座し頭を垂れた。

「これは……とんだご迷惑をお掛けしました。見ず知らずの方に、このように良くしていただいて……娘に代わってお礼申し上げます。わたくしが、亜津の母にございます」

「……おいちゃん?」

 いつまでも押し黙ったままでいるのを不思議に思ったのだろう、腰にまとわりついたままの幼子が伸び上がるようにして様子をうかがっている。

「あ……ああ、お礼には及びません。当然のことをしたまでですから」

 今は愛らしいばかりの幼子の、十数年後の姿がそこにある。母親ならば面差しが似ているのも当然だろう、それにしてもこのような外れ村には似合わぬような目映さであった。女子は金を掛けて飾ればどこまでも美しくなると言われる、しかし目の前の彼女は何ひとつ持ち合わせていないのである。

「ははさま、ははさま! おいちゃんにおあがりになってもらっていい? ―― ねえ、おいちゃんもいいでしょう? やどのしょくじより、ははさまのしるのほうがずっとおいしいよ! おせわになったんだもの、それくらいとうぜんだよね!?」

 たどたどしく続く大人のやりとりに、幼子が横から割って入る。そして自分のために用意されていた水桶と手ぬぐいを差し出して、早く早くと急き立てた。

「でも、……突然そのような。宿には供の者もおりますし」

 どうにかしてこの場を収めようとしたが、なかなか上手くいかない。終いには娘子が上がり口から飛び降りて戸口に走り出した。

「おとものかたにはあづがつたえてきてあげる! ね、だからいいでしょう? あづ、おいちゃんともっといっしょにいたい!」

 勢いよく駆けだして行った足音を追いかけようとして、ふと足を止める。静かに振り返った視線の先にいたその人は、こちらの様子に全く気付いていなかった。

「あの……失礼ですが、あなたはもしや目が――」

 彼女はハッとして顔を背けると、痩せた手で衣の膝の辺りを握りしめた。

「お恥ずかしい限りですが、その通りです。さあ、何もございませんがどうぞお上がりください。まだ宵の口です、娘の我が儘にもう少しだけお付き合いいただけませんか?」

 

◆◆◆


 一間しかない部屋の突き当たりの戸を外せば、心地よい夜の気が存分に流れ込んでくる。

 遮るものが何もない場所で、一度戸を立てれば再び外すのが女手では難しいとあって、長いこと開かずの戸になっていたらしい。やり方を教わりながら戸板をひとつずつ動かしていくと、傍らで見ていた幼子が歓声を上げた。
  縁の向こうにはささやかな庭もあり、今は荒れ果てていたが以前はここで自家用の野菜なども作っていたようである。

「おいちゃん、おいちゃん! さきほどのおはなをかざってみたの! あづ、とてもじょうずでしょう?」

 水盤代わりの小さな鉢に、野の花がこんもりと盛られている。母親は先ほどからずっといろりの上の鍋をかき混ぜているから、ひとりで仕上げたのか。どうにかしてお客人をもてなそうとしている気遣いなのだろう、温かい心映えが小さな花びらの一枚一枚から溢れ出てくるようである。

「それからおみずも! きょうはおいちゃんのおかげでたっぷりくめたから、すこしぐらいのみすぎたってへいきなんだよ!」

 勧められるままに上がり込んでしまったが、この母子は見ず知らずの他人である。早いところ理由を付けていとまを告げたいところであるが、なかなかそうもいかない。こちらの気持ちを察しているのか、亜津と呼ばれた幼子が片時も側を離れないのだ。
  母親の方もそんな娘の姿を時折困ったように眺めている。大人ふたりの気持ちはだいたい似通っていると思われるのに、何とも奇妙な雰囲気であった。今頃ひとり残された笹谷は、宿の一室で何を思っているのであろう。また主人である自分が厄介ごとに首を突っ込もうとしているのかと、いらぬ気を揉んでいるかも知れない。

「さあ、そろそろ仕上がりますよ? 亜津、お客様の器を出してきてちょうだい」

 ふたり並んで膳を整えている姿を見ても、やはりとても母子とは思えなかった。
  多分彼女は自分よりもいくつか年若になるのだろう、館に住まう妹姫のことを思い浮かべながらそう考える。この部屋に男の匂いのないことには、間口に入ったその瞬間から気付いていた。一体どういう成り行きで、ふたりはここに住まっているのだろう。あの村人たちの様子、どう見ても彼女たちは余所者の風情だ。

 ―― ああ、駄目だ。これではまた、笹谷の心配事が増えるだけではないか。

 

 夕餉を振る舞ってもらった後にすぐに戻るつもりが、「もう少し」の声に負けてまた座り直してしまう。母親はそんな娘の困った振る舞いに戸惑いつつも、強く諫めたりはしない。器の重なり合う音が遠くで聞こえ、いつの間にか意識が遠のいていく。

 静かに上から薄衣が掛けられたのは、夢との狭間で漂っているそのときであった。

 

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