TopNovel>薄ごろも・1


…1…

 

 かなりの山道とは聞いていたが、その話に嘘はなかった。
  登れど登れど終わりは見えず、いくら息が切れても腰を下ろして休む場所も見あたらない。この先の村に向かうには唯一の道だという話なのに、これはどうしたことか。そこに住む者たちは男も女もこの山道で鍛えられ、かなりの強靱な足腰をしているのに違いない。
  ようやく訪れた春にぬかるんだ泥に足を取られ、何度も躓きそうになる。山に入る前に麓の村で勧められるがままに買い求めた杖が、ことのほか役に立っていた。
「でも……ここまで来てしまったのだから、今更引き返す訳にもいかないわ」
  西南の大臣様の邸宅からずっと付き添ってくれていた案内役とは、先ほどの村で別れた。向こうは目的地まで同伴するつもりだったらしい。でも、もう限界であった。
  父親ほども年の離れたその男は人好きのする風貌で道中もなにかと助けられたが、いかんせん口が軽く騒々しい。歩きながらもその口の動きが止まることはついになく、しかもこちらがきちんと応対しないとへそを曲げる。お陰で変わりゆく風景を楽しむ暇もなかった。
  ――このような遠出は、一生のうちで何度もあることじゃないのに……
  しかも日暮れて宿場町にたどり着けば、そこでも男の話しぶりは絶好調だった。周囲から注目されることをとくに好むたちらしく、自分たちの身の上のことを誰彼となく吹聴して回る。これにはさすがに辟易した。別に極秘のうちに動けと言われた覚えはない、しかし男の話が広まれば広まるほど、さらに奇異の目で見られるようになる。とても耐え難く、気恥ずかしいことであった。
  見知らぬ土地に出向くためには、道案内はどうしても必要だ。まして、若い女子の独り歩きなど、盗賊の格好の標的となってしまう。
  このたびのお役目は、自分ひとりのものではない。それがわかっていたから、耐えられるだけは耐えた。自らの意思をすべて封印する術など、とっくに身につけている。
  しかし三日が過ぎた今朝、もう一山を超えれば目的の村にたどり着くと聞いて思い切った。分かれ道などひとつもない、まったくの一本道。そうであるなら、迷うこともない。身の丈を隠すほどの枯れ草に行く手を阻まれても、なにも怖くなかった。
  振り向けば、たった今登ってきた山道が長く長く伸びている。その遙か向こうにも人影は見あたらなかった。ここも大臣様の直轄地であると聞いているが、場末の地になればかなり廃れている。朝に出てきた宿所も、泊まり客は他になく閑散としていた。
  いったい、この道の先にあるのはいかような場所であろうか。そこにはなにが待ちかまえているのだろうか。
「……まあいい、住めば都、と言うじゃないの」
  菅笠の下で、そっとまぶたを閉じる。薄暗がりになった目前に浮かんだのは、二度と足を踏み入れることもないであろう、遠い記憶の底にある本物の「都」であった。

 咲の母親は、田舎ではあまり見ないような器量よしであった。だから自分の夫、つまり咲の父親が多くの子供たちを残して病死したあと、すぐに奉公先を見つけることができたのだろう。
  生まれ育った村を離れ、その館にやってきたのは咲が十三になった春。そこは西南の大臣様の御館にほど近い場所にあり、人々の往来も多くとても賑やかな地であった。
  父を失った悲しみに浸っている暇などない。八人兄弟の総領娘として、咲も母を助けるために必死に働いた。使用人が大勢いる大きな館であったから、正式なお役目がなくとも仕事などいくらでも見つけることができる。掃除でも片付けでも荷運びでも、駄賃がもらえると聞けばどこにでも出向いた。幼い弟や妹を飢えさせる訳にはいかないのだ、もう必死であった。
  決して楽な暮らしではなかったが、その当時はとても幸せだったと思う。家族が皆一緒にいて、長屋の片隅で肩を寄せ合って生きていくことができる。それに、雨風をしのげるだけの場所があるだけ幸いであった。
  そんな風にして、半年ほどが過ぎたであろうか。
  ある日、いつものように使いを頼まれて、西南の大臣様の邸宅へと出向いた。とはいっても、直接身分のある御方の前に上がることなどはない。咲は使用人が出入りする裏口から、馴染みの顔に声を掛けた。
「親父さん、こんにちは!」
「おお、これは別宅の。よう来たな、ほれ、ちょっと休んでいけ」
  咲の母親が奉公している御館にお住まいなのは、先代の大臣様にご寵愛を受けた女子様のご子息であるらしい。本妻腹ではないものの、かなり地位のあるお方なのだろう。その暮らしぶりはとても裕福だ。
  まあ、田舎から出てきたばかりの咲には、長屋で暮らしているほかの家族であってもまぶしいばかりに贅沢をしているように見えていたが。
  母親似にて整った目鼻立ちをしている咲は、使いに出る方々でとても可愛がられた。干菓子や果物などを駄賃のついでに渡されることもあり、弟妹へのいい土産になっている。咲本人はあまり物欲もなく他人からなにかをねだろうとは思わなかったが、それでもいただけるものならば素直に受け取る。
  このように咲が外に出ている間は、すぐ下の妹が幼い弟妹の世話を引き受けていた。なかなか言うことを聞かない幼子の世話は本当に大変である。たまにはそのねぎらいをしてやらなければ、可哀想だ。
  そう思って誘われるままに裏口から中に入ると、期待以上のことが待っていた。
「ほれ、この腕飾り。糸が切れてほどけてきてるんだと。お前さん、こういうの直すの得意だろ? 持って帰って、ちょちょっと元通りにしてはくれないか」
  そう言って、下働きの親父さんが手渡してきたのは組紐と硝子玉を編み込んだ装飾品だった。とくに珍しいものではない、そのへんの出店でも簡単に手に入る。
「別に持って帰るまでもないと思います。針とはさみはありますか? 貸してもらえれば、すぐに繋ぎ直せるから」
  田舎にいた頃、隣の家に飾り道具を手がける職人夫婦が住んでいた。親しく出入りしているうちに、なんとなく身につけてしまったことである。もともと手先は器用であったらしく、壊れかけた細工がどうしたら元通りになるか、現物を前にすればだいたいの察しはついた。
「ほれ、それならここに揃ってるぞ。……ほほう、上手なもんだなあ」
  親父さんが感心してそう言うと、小屋にいた他の使用人たちも咲の周りに集まっている。
「ここまでの腕があるなら、どこかの工房で本格的に修行してみたらどうだい? きっちり仕込めば、相当な職人になれるだろうよ」
「知り合いに小間物屋をやってる奴がいる。誰か紹介してもらおうか」
  咲の家族が貧乏な長屋暮らしをしていることは、誰もが知っていた。だから、皆が優しく気遣ってくれる。
「そんなわけにはいかないよ、私は家を離れるわけにはいかないんだから」
  慣れない館務めで、母が大変な思いをしていることはわかっていた。自分の腕を磨くためにわがままを言うわけにはいかない。
  とりとめのないおしゃべりをしているうちに、腕飾りはすっかり元の姿に戻っていた。
「おや、こりゃすごい! ありがとよ、こっちは俺からの褒美だ」
  親父さんはたいそう喜んで、いつもよりも大きな饅頭をいくつもくれた。これならば、兄弟皆で分けられる。土産を大事に抱えて戻った家路を二度と辿ることがないことを、そのときの咲は知らなかった。

 翌日。
  まだ夜も明けきらぬ頃に、長屋の戸を叩く音に起こされた。のろのろとかんぬきを外して開ければ、そこには昨日の親父さんが立っている。
「あ、親父さん。昨日は美味しい饅頭をたくさんごちそうさまでした」
  咲が丁寧に頭を下げても、親父さんはひどく落ち着かない様子だ。
「悪いな、嬢ちゃん。すぐに俺と一緒に来てくれないか」
  言い方こそは穏やかであったが、その一方でこちらが断ることを許さないという強い信念を感じた。
「わかりました。すぐに支度しますので、少しだけ待ってください」
  皆の寝ている場所に戻って母にことの次第を告げると、お世話になっている方ならば言うとおりにしなさいとの返事。咲は普段着の中でもとくに品のいい一枚を身につけた。親父さんがいつもよりも少しかしこまった姿をしてるのを見ていたからである。
  そのまま、親父さんのあとについてどんどん歩いていく。そして辿り着いたのは、昨日訪れたばかりの大臣様の御館であった。
「え、親父さん。そっちは――」
  彼が当然のように表庭へと進んでいくのに仰天した。使用人は許可なしに足を踏み入れてはならないと、以前から厳しく言われていたからである。しかもそのことを教えてくれたのは他でもない、たった今、咲の前を歩いている親父さんであった。
「いいんだ、いいんだ。でも、目立つとまずいから、余計な声を上げるんじゃないよ」
  いったい、どうしたことだろう。
  西南の大臣様は、たいそう気むずかしく恐ろしい御方だと聞いている。もちろん、咲のような身分の者がおいそれとお目にかかる機会があるわけではないが、おそば近くに仕える者たちはなにか粗相があってはならぬとたいそう怯えていると言う。
「さ、こっちだ」
  朝靄が立ちこめる見事な御庭をぐるりと回り、ふたりは一番奥の対までやってきた。親父さんはひときわ立派な建物の戸口に跪くと声を掛ける。
「娘を連れて参りました」
  いつになくよそ行きな声に咲が驚いているうちに、表の障子が静かに開く。そこには限りなく高貴な女人様が座していらっしゃった。
  なんとお美しい御方なのだろう。まだ夜も明けきらぬ刻限だというのにお召し替えも済ませ、お化粧も施されている。身の丈に余るほどの長い豊かな黒髪、瞳の色も同様であった。生まれてこの方、西南の民以外に出会ったことのなかった咲の目には、まるで天女様のようにも映る。
「……おっ、おい! お前も跪いて、頭を下げろ。直接、お目を合わせることなど許されない御方なのだぞ……!」
  呆然と立ちつくしていた咲は、親父さんに袖を引かれてようやく正気に戻る。そして言われるがままに親父さんと同じ姿勢になると、縁の奥からゆったりとした笑い声が響いてきた。
「ホホホ、いいのですよ。今はまだ夜明け、人目に触れることもないのですから。ここは無礼講といきましょう」
  そのお言葉に、親父さんはさらに額を地に擦りつける。
「いっ、いやっ、そのようなわけにはいきません。にょ、にょ、女人様の御前にこうして上がることができるなんて、この娘はたいそうな果報者ですよ……!」
  天女のような御方は、落ち着いたお声で続けられる。
「まあまあ、そのように縮こまらないでよろしいのですよ。娘、顔をお上げなさい」
  咲は促されるままに、恐る恐る顔を上げた。

 

次へ >>


TopNovel>薄ごろも・1