TopNovel>薄ごろも・2


…2…

 

 次第に薄くなる朝靄の向こう、板間よりもさらに一段高くなった場所に姿勢良くお座りになるその御方は、この世のものとは思えぬほどの優美な笑みを浮かべられていた。こちらの視線に気づいたのか、その口元を手にした扇でお隠しになる。
「たいそう可愛らしいこと、それに年の割にはしっかりしている様子。お前のことは、こちらの侍女に聞きました。難しい細工を瞬く間に直してみせたそうですね」
「は、はあ……」
  女人様に促されて一歩前に進んだその方の右手首には、昨日咲が修理した飾り輪があった。直接持ち主ご本人にお目にかかった訳ではなかったが、この者は親父さんの顔見知りなのだろう。人づてに咲の話を聞いて、飾り輪を預けたに違いない。
「その話を聞いて、是非わたくしもと思いましてね。――誰か、あの品をここへ持って来なさい」
  女人様の後ろには、たくさんの女子様が控えていた。このすべてが、女人様付きの侍女なのだろうか。ざっと数えただけで、二十はくだらない。
  そのうちのひとりが、奥の部屋から黒塗りの盆を捧げ持ってきた。
「こちらは、わたくしが亡き父上から譲り受けたもの。ことのほか大切に扱っていたのだけど、最近とうとう糸が緩んでしまって。それで腕利きの職人の職人に申しつけたら、皆が口をそろえて無理だと言うの。それで困ってしまって……そんなときにお前の話を聞いて、もしやと思ったの」
  黒塗りの盆の上に艶やかな紫の絹が敷かれ、問題のお道具はその上に鎮座している。金銀の糸をふんだんに使い見たこともないような宝石をちりばめたそれは目も眩むほど美しく、間近で見るのが畏れ多く感じられるほどであった。いったいどのような手法で編み込まれているのか、それを想像することすら難しい。
  咲がしばらく言葉をなくして呆然としていると、女人様はさらに続けられた。
「引き受けてもらえるかしら」
  親父さんが先ほどからしきりに目配せをしてくる。だが、それが「引き受けろ」との合図なのかその逆なのか、咲にはまったくわからなかった。
  ――ここまで込み入った品じゃ、私には到底無理。逆立ちしたって、できっこない。
  すぐに、そう申し上げるべきだったのだと思う。しかし、カラカラに乾ききった口の中から、気の利いた言葉を発することなんて無理だった。
  すると女人様は、そんな咲の態度をまったく違う理由に感じ取ったらしい。周囲の者たちに命じて盆を一度ご自分の方に寄せさせると、きっぱりと言い切る。
「申し訳ないけど、これは余所に持ち出すことができぬ品。娘、そちらからお上がりなさい。ああ、すぐに水桶を持って来させましょう」
  こちらがひと言も発しないうちに、決着がついてしまったというのだろうか。女人様は、次に親父さんの方をちらっと見やった。
「お前はもうお下がり。ご苦労でしたね」
「――へっ、へいっ!」
  親父さんは弾かれたように立ち上がると、そのままどこかへ行ってしまった。
「あ、あの……」
  いったい、なにがどうなっているのやら。まったく見当も付かぬまま、頼みの親父さんまでが退座してしまった。あとに残るのは、見知らぬ顔ばかり。しかもその誰もが、今まで咲が一度も出会ったことのない別階級の方々だ。
  そして、中央にお座りになる御方はその中でもひときわ高貴なご身分にあると推察される。気ままな田舎暮らしをあとに、賑やかな場所に移って知った。人はそれぞれ、その地位や身分に合わせて住む場所はもちろん身に付けるもの、さらには髪型や化粧の施し方も異なってくる。
  街の暮らしにはまだ馴染みきれない咲にも、その方がお召しになるものからだいたいのことがわかるようになっていた。短い期間にそれだけ頻繁に大臣家を訪れていたということである。
「……さ、ぐずぐずしていないで。すぐにこちらにお出でなさい」
  程なくして水桶が運ばれてくると、上がり口に降りてきた女性のひとりが咲を手招きする。もちろんその方は、咲に声を掛けた御方とは別人。今まで部屋の一番隅の方に控えていた人だ。
  やはり、話を断る機会はなくなってしまったらしい。有無を言わせぬ強い口調に、咲は震え上がった。
  ここは鬼のように恐ろしいと言われている西南の大臣様がお住まいになる対、もしも異を唱えたりすればこちらにいらっしゃる方々も鬼の姿に変貌するのだろうか。咲は自分の胸がざわざわと波立つ音を聞きながらも、その言葉に従うしかなかった。
  震える足取りで進んでいくと、その女性はふっと眉をひそめる。
「まあ、……なんてみすぼらしいなりをしているのでしょう。このような姿では、とてもこの御館に上がらせる訳にはいきません」
  その声に、そばにいた別の者たちも一斉にこちらを振り向く。そして次々に向けられる、容赦のない好奇の目。咲は泣き出したい気分を必死で堪えながら、その場に立ちつくしていた。
「まあ、……それくらいよろしいではありませんか。おおかた、なにも知らずに連れてこられたのでしょう。よってたかって、弱い者いじめをするなんて見苦しいですよ」
  高い場所から、柔らかい声が助けてくれる。このお声は、先ほどのひときわ高貴な御方のものであるに違いない。
「誰か、この娘にちょうどいい衣を揃えてきなさい。……そうですね、塗籠に先日姫たちの部屋を片付けたものを運び入れたはず。その中から適当なものを探せば良いでしょう」
  その声に、彼女の側にいた数名が弾かれるように立ち上がる。そして板間を音もなく、それでいて目にも止まらぬほどの速さで横切っていった。
「……」
  なにもかもが物珍しく、まるで芝居小屋にでも足を踏み入れたような気分だ。とてもこの世のものとは思えぬ光景に、咲はただ度肝を抜かれるばかり。そんな彼女の袖を、先ほどの女性が強く引いた。
「さあ、ここに腰を下ろして。まあまあ、裾まで泥が跳ね上がっているではありませんか。お前は歩き方からなっていないようですね、まったくどこでどんな暮らしをしていたのやら」
  その女性の髪からは、芳しい花のような香りがした。ようやく手足が綺麗になると、次は縁から衝立の奥へと連れて行かれる。
「まずは、女人様の御前に上がるのにふさわしい姿にならなければ。もっともかたちだけを取り繕ってどうにかなる話ではないのだけれど、ご命令とあらば致し方ありませんね」
  どうしてこのような流れになるのか、咲にはまったくわからなかった。あの飾り輪を修理するのならば、かの高貴な御方から遠く離れた場所で作業すればいいではないか。誰の目にも触れないように隠れていれば、わざわざ衣を着替える必要もないはずなのに。
  そうは思いつつも、あまりの恐ろしさになにも言い返すことができない。あっという間に数名の女性に囲まれ、それまで身に付けていたものは肌着まですべて取り払われ、新しいものを着せられた。
「おやまあ、馬子にも衣装とは良く言ったもの。お前はなかなかの器量よしではないですか」
「どうせだから、少しばかり紅を引いてみましょうか。ほお紅も叩いて、顔を明るくしましょう」
  しっかりした大人の方々ばかりなのに、途中からは人形遊びが始まってしまった様子であった。肌着の上から何枚も衣を重ねられ、髪を梳かれてそこに油のようなものをすり込まれる。さらにぷうんと甘い香りがして、顔にもなにかが塗りたくられていった。
「……さあ、これでいいでしょう。ほら早く、女人様に改めてご挨拶なさい」
  今度は暗がりから急に明るい場所へと連れ出される。その頃には夜もすっかりと明け、戸をすべて取り払ったその部屋からは美しい朝の御庭がはっきりとうかがえた。朝露がキラキラと輝き、そのまばゆさに目がくらみそうだ。
「女人様、こちらでいかがでしょうか」
  先ほどから先頭を切って支度をしてくれていた女性が、得意げな声でそう告げる。
「まあ……これは可愛らしいこと。まるで雛人形のようではないですか」
  扇で口元をお隠しになりながら、高貴な御方はゆったりと微笑まれる。でもそのお顔を拝見できたのはほんの一瞬だった。
「あ、ありがとうございます」
  なんといってお返事すればいいのかも思いつかず、咲は床に這いつくばるようにひれ伏していた。
「……上、そろそろお時間です」
  そこに奥の方から今ひとりの女性が進み出でて、高貴な御方のお側でそっと耳打ちをする。いったいこちらには、何十人の女性が仕えているのだろう。そのほとんどは咲と同様に西南の民で赤毛であるが、中には黒い髪の者も混ざっている。今、女人様に連れ添っているのは後者であった。
「わかりました、では参りましょう。皆の者、あとのことはよろしく頼みましたよ」
  咲は未だに顔を上げられるまま、ただただ自分の耳を疑っていた。
  先ほどからおかしいとは思っていたことではある、ここにいる方々はほとんど物音も立てぬままに行動する。かすかな衣擦れの音は聞こえるものの、その他には足音ひとつしないのだ。
  今、すぐ側でゆっくりと立ち上がられた御方は、数えきれぬほど幾重にも衣を着込み、その重さは相当なものになると思われた。だが、それでも難なく立ち上がられ、移動していく。そのあとに続く者たちも同様である。ほとんどの者たちが立ち去ってしまった部屋には数名の留守居のみが残されていた。
「ほら、なにを呆然としているのです。さっさと作業に入りなさい」
  最初から世話を焼いてくれている女性は、どうも咲のお目付役になっているらしい。その者に促され、部屋の隅で道具を広げた。
「え、……ええと、その……」
  そこまでのお膳立てをされても、咲はまだ戸惑い続けていた。目の前にあるのは、目がくらみそうに美しい飾り輪。あまりの目映さに見つめていると気が遠くなりそうだ。
  ――できない、無理。私にはこんなの、直せない。
  気後れしすぎて言葉も出ないという状況に、咲は生まれて初めて陥っていた。思い詰めるごとに胸が苦しくなり、息をすることも難しくなる。
「まあまあ、そのように急かさなくともよろしいでしょう」
  そこで助け船を出してくれたのは、袂に隠れた手首に飾り輪を巻いた女性であった。
「期限の決まっていることではないのですから、ゆっくり確実に進めれば良いのですよ。あなたは女人様に気に入られたのですから、すぐに仕事を終えて下がってしまうのはかえって失礼に当たります」
  静かに、諭すように言い含められる。その中の「確実に」という言葉が、いつまでも鮮やかに咲の脳裏に残っていた。

 

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