TopNovel>薄ごろも・3


…3…

 

 その日も、そしてその明くる日も、咲は母や妹弟が待つ長屋に戻ることができなかった。
  言葉ではっきりとそれを強いられたわけではないのだが、帰宅を切り出すことがどうしても許されない無言の規律が感じ取れる。それはまさに、恐怖にも似た感覚であった。
  夜明けと共に目覚めてから皆が寝静まる夜半まで、そのほとんどの時間を部屋の隅に宛がわれた敷物の上で過ごす。そして震える指でほつれた箇所の修復を続けるわけだが、その作業がとんと進まない。入り組んだ細工に集中して取り組んでいると、あっという間に半日も過ぎてしまうのだ。
  三度三度の食事には膳が運ばれてくるが、そこには生まれてから今まで食したことがないどころか一度もお目に掛かったことのないような食材が並んでいた。そのどれもが見事な工芸品のように美しく盛りつけられている。
「ほら、ぐずぐずせずに残らず食べてしまいなさい。せっかくのお食事を選り好みするなんて、お前のような身分の者がすることではありませんよ」
「で、でもっ、……私はもう」
  上品に盛りつけられている膳はそれほどの量があるとも思えなかったが、慣れぬ場所で神経をすり減らし続けている咲にはそのすべてを胃に収めることも難しい。それにこれだけの豪華な食事、自分ひとりでいただいてしまってはあまりにもったいないと思った。
  ――ああ、できることならこの膳をそのまま、あの長屋に届けられたらいいのに。
  自分をここへ連れてきた親父さんは、家族にことの次第を説明してくれただろうか。そのことも気がかりで仕方ない。今頃、弟妹たちが腹を空かせているのではないか、母はひとりで大変な想いをしているのではないか。あまりにも急いで出掛けたためになんの説明もしてこなかったことを、今更ながら後悔している。
  しかし、いくら悔やんだところで事態が好転することはない。唯一、咲にできることといえば、ただ目の前にある仕事を確実にやり遂げることだけだ。
  広々とした部屋をいくつも構えた対は、初めの日にお目に掛かったお美しい女人様がお住まいになる場所であることはすぐにわかった。あの御方が、このお屋敷で限りなく高貴なご身分にあることも。誰もわざわざ口にして説明してくれることはなかったが、誰もかれもの言葉尻から暗黙の了解が感じ取れた。この地に上がってから感じたどの雰囲気よりも重々しい。
  ――わざわざ口に出すことを躊躇われるほどの高貴な御方なのだ……。
  やはり自分は、とんでもなく場違いなところに来てしまったらしい。いったいどうして、こんなことになったのだろう。気軽に訊ねることのできる者の誰もいない場所で、咲はただひとり小さくなって震えていた。
  主である女人様が滞在なさるときも不在であるときにも、常に対には数えきれぬほどの女子が控えていた。そこには「侍女」と呼ばれる身分の者も、それよりも年若い「女の童」と称される者もいて、皆それぞれに決まった仕事があてがわれているようである。とはいえ、コマネズミのように休みなく働くことを日常としていた咲にとっては、彼女たちの生活はあまりに優雅なものに思われた。
  そして、その誰もが、庶民である咲から見れば目のくらむような美しい装束を纏っている。しかも、毎日その色目が変わっていくのだ。いったいひとりに何枚の衣が準備されているのだろう、それをまとめたところを想像すると気が遠くなりそうである。
  彼女たちはきびきびとよく動くが、それと同じくらい口も動かす。女子の集まる場所は常にそうであるように、ここでも噂話が最高の娯楽とされていた。どうしてこんなに次々に、と首をひねるほどに、あとからあとから新しい話題が提供される。そのどれもが、咲にとってはあまりに信じられない内容ばかりだった。
  西南の大臣様のお住まいであるこの豪奢な御館には、毎日数えきれぬほどの方々が訪問される。中には他の地方からご機嫌伺いに訪れる方もいたが、ほどんどは集落内の権力者の子息がほとんどであるらしい。彼らは月の半分ほどこの館に出仕し、決められた政を行っていた。
  館仕えの女子の最大の関心事は、いかにして裕福な御方に取り入るかということに尽きる。どこぞの領主様の跡目殿があの対にお入りになった、それならば夕餉の膳を運ぶ役目をどうしても回してもらいたい。
  同じような内容が、人を変え場所を変え毎日のように繰り返され、次第に目新しくもない念仏のようにも思われてきた。しかし、中には本当にそのようにして殿方に取り入ることに成功する者もいて、女子たちの羨望と嫉妬の的となる。舞い上がったり嘆いたり、本当に忙しい方々だと咲は内心思っていた。
  女人様はそのような騒ぎの中にいても、おひとりだけおっとりと構えていらっしゃる。その堂々としたお姿に、他の者にはないまっすぐなものを感じ取っていた。この方はなにもかもが他の人たちとは違っている。詳しいことなどなにも知らなくても、咲にははっきりとそれがわかった。
「あなたは本当に熱心ね、若いのに本当に感心だわ」
  もったいなくもそのようなお言葉がかけられたときなどには、いったいどういう返事をしたら良いものか焦りまくってしまう。
「これ、早くお返事差し上げなさい」
  近くにいた女子からそのように促され、慌てて手元を止めて向き直る。
「あ、ありがとうございます!」
  もっと他にいろいろと言葉を並べた方が感謝の意が伝わるようにも思うが、なにしろ常に緊張の極みの中にあり、気の利いたひとことも浮かばない。
「ほほ、本当に可愛らしいこと」
  女人様はどのようなときにもお優しく、決して声を荒げることなどなかった。
  それでも、お仕えする女子たちの間には女人様が対にいらっしゃるそのときにだけピーンと張り詰めたものを感じる。どんな些細な粗相も許されないという意識がこちらまで伝わって来るようだ。咲から見れば、どの女子も申し分のない作法を身に付けているのだが、それだけでは済まされないのだろうか。
  そのようなときだけは、ひとり蚊帳の外にいる自分が有り難いと思った。自分は今の仕事が終われば、二度とこの場所に足を踏み入れることもない。
  深夜になれば使用人のために宛がわれた一室で他の者と共に休むことになるのだが、そこでも気の休まることはない。女子特有の甘い香りにおのおのが身に付けている香油の香りが混ざり合い、なんともいえない異質な空間を作り上げている。そこにはすべての欲望が渦巻いているようにも思われた。
  髪の毛よりも細く頼りなげな金糸銀糸は扱いにくいことこの上なく、そこに通す宝石の穴もほとんど肉眼では確かめられない。指の先に載ってしまうほど微小なその一粒だけでも大変な価値があることは間違いなく、もしも手が滑ってどこかに落としてしまったらと思うと一瞬の気も抜けなかった。
  ――何故、このようなことをお引き受けしてしまったのだろうか。
  日に何度もそのことを後悔し、今からでもどうにか逃れる術はないかと知恵を巡らせた。しかし一度は決めてしまったことである。勝手のわからぬ身の上では、誰にどのように申し上げればお暇が叶うのかもまったく想像がつかなかった。
  ひとつの連を繋ぐのに丸一日も費やし、ようやくやれやれと思ったところで、別の問題点に気付く。そうしているうちにどんどん時間は過ぎていき、気付けば七日も経っていた。

 そんなある夜のことである。
  皆がすでに寝静まったそのあとも、咲はひとりで表の間に残って行灯の明るさを頼りに作業を続けていた。あまりに根を詰めすぎると翌日に差し支えることはわかっていたのだが、ようやく調子が出てきたところなので今夜じゅうにキリの良いところまで辿り着きたいと思ったのである。
  じっと目を凝らして手元を見つめていると、極限まで張り詰めた神経がふとした拍子に途切れそうになる。だが、ここで諦めたら今までの数刻がすべて無駄になってしまう。咲は血が滲むほどに唇を噛みしめ、気持ちを奮い立たせた。
  幾重にも繋げられた細かい装飾は、その糸の一本ずつまでが細かい編み込みでまとめられている。いったい、どこの誰がここまでの技巧を思いついたのだろう。
  このたびの仕事を引き受けて、咲は手作業の奥深さを改めて悟った。自分が今までやってきたことは、ほんの手遊び程度のことでしかなかったような気がする。世の中には想像を絶するような緻密な技を身に付けた職人が存在するのだ。
  そのことを思い知る度に気が遠くなりそうになり、しかしここで負けるわけにはいかないとどうにか踏ん張り直す。自分の中で迷い、進み、また戻る。そうしているうちにも時間ばかりが過ぎていく。
  ――と。
  庭先のどこかで、ふと今までとは違った気配を感じた。
  夜半を迎えた御庭では、今も夜警の者たちが一定の間隔で巡回している。数名が列になって進み、彼らが手にした松明が、ゆらゆらと幻想的な世界を創り出していくのを見送った、そのすぐ後のことであった。
「……?」
  わずかばかりの気の揺れにも、柔らかな衣の裾が舞い上がる。咲は手を止めて、その方角をじっと見守った。
「――おい」
  それは、鼓膜を微かに揺らすか揺らさぬかという程のささやかな声であった。人の声であるということにも、しばらくは気付かなかったほどである。
「――おい、こっちだ。わからないか、俺だよ、俺」
  前触れもなく、目の前にぬっと現れたのは、咲をこの御館に連れてきた親父さんであった。夜闇に紛れるような黒い装束に身を包んで、まるで盗賊のようななりである。
「え、……どうして」
  あまりにも突然の出来事だったため、驚きの気持ちばかりが先に出てしまう。咲は手元を止めたまま、呆然とその姿を見つめていた。
「なにしてんだ、ほらっ! 早くこっちに降りてこい……!」
  しかし、一方の親父さんの方はかなり慌てた様子である。きょろきょろとあたりを見渡し、何度も後ろを振り向いていた。
「で、でも! そんな、いきなり――」
  いったいどういうことなのだ、まったく合点がいかないままに聞き返すと、親父さんはもうこれ以上は待っていられないと思ったのだろう。泥足のまま板間に上がり、素早く咲の手を引いた。
「おいっ、わかっているのか!? このままここにいたら、終いには殺されちまうぞ……! 長屋の家族はもう安全なところに逃がした、そこでお前の帰りを待ってる。急げ、とにかくはここから抜け出すぞ……!」

 

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