TopNovel>薄ごろも・5


…5…

 

「……は?」
「何度も言わせるな。お前などに用はない、さっさと立ち去れ! 皆の者も良く聞け、こいつは客人などではない。大臣家から使わされた盗人のような者だ、相手になどするな」
  いきなり冷たい水を頭から浴びせかけられるような対応をされ、すぐには次の言葉が出なかった。
  やはり文は届いていたのだ、この男の反応がすべての証拠である。しかし、西南の大臣様の意向を知りながら、この仕打ちはただごとではない。咲は自分の背筋に冷たいものが流れていくのを感じていた。
「お、お待ち下さいませ!」
  これで話はすべて終わりと言わんばかりに踵を返した男に、咲は必死で声を投げかける。その頃には、自分たちを取り巻いていたすべての者たちが咲の敵に回っていた。
「わたくしはお役目を果たすためにこちらに参りました、このまま手ぶらで戻ることなど許されません。お怒りのご様子ですが、まずはわたくしの話を聞いていただけませんか?」
「うるさい、お前などに用はない!」
  まさか、ここまでの仕打ちを受けるとは想像していなかった。これでは聞いていた話とまったく違うではないか。もちろん、大臣家側の話をすべてを鵜呑みにするほど咲は愚かではなかったが、少なくとも先方に自分を受け入れる態勢がすでに整っていると信じていた。
  周囲の者たちが心配そうに見守っているのが手に取るように分かる。相手の意を汲んでこのまま黙って引き下がることが出来たならどんなにいいかと思う。でもそれは無理だ、大臣様のご意向に逆らうなどあっていいことではない。自分だけが罪を被るならそれでいいが、あの御方はそれだけでは済ますまい。
「しかし――」
  このまま押し問答を続けたところで、どうなるものでもないということは分かっていた。無言のままのにらみ合いが続く。
  女子だからどんな場所でも泣き落としが通用するとは思っていない。だから、どんなに辛くとも、涙だけは見せまいと必死に堪えていた。
「……おやおや、若様。これは如何いたしました」
  すると、その場にさらに新しい顔が現れた。他の者よりもいくらか品の良い衣を纏った男である。年の頃は咲の亡き父親と同じくらいか、最初に門の近くであった男よりは年若い。
「どうもこうもない。大臣家め、こちらの断りを無視して勝手にこの女を送り込んできた。まったく、人を馬鹿にするにも程がある」
「まあまあ、そう仰らずに……」
  その口ぶりから見て、この者は若者の側近的存在なのだろうか。立場をわきまえながらも、堂々とした風格である。この館にあっても、かなりの権力を持っているのだろう。
  彼は若者を取りなしたあと、咲の方へと向き直った。
「旅の御方、遠路はるばるお疲れ様でした。さあ、こちらにお出でください」
「おいっ、波留(ハル)!」
「――若様、」
  男は若者の言葉を振り切り、静かに告げた。
「頑なになるばかりが得策ではないと、いつも申し上げているでしょう。主たる者、常に冷静に、誰よりも賢くなくてはなりません」
「だ、だがっ!」
「では、お客人。こちらにお出でくださいませ」
  咲はかなり困惑していた。このまま、この者の言葉に従っていいものか。それとも館主の言うように、さっさと立ち去るべきなのか。
「さあ、このような場所で立ち話も良くありません。まずは旅支度を解いて、おくつろぎ下さい」
  しかし、その答えは誰も出してくれない。すべては自分の心の声に従うほかないのだ。だとしたら、取るべき道はひとつだけである。
「承知いたしました。お心遣い、感謝いたします」
  騒ぎを聞きつけて、さらに大勢の村人たちが集まってきていた。若者の態度を目の当たりにしたこともあり、冷ややかな雰囲気が辺りに漂っている。
  咲はその者たちから浴びせかけられる刺すような眼差しに気づかぬ振りをしながら、屋敷の奥へと進んでいった。

 通されたのは館の中ほど、客間と思われる一室であった。余計な装飾などは一切ないが、こざっぱりと気持ちよく片付けられている。
「では、まずはこちらでおくつろぎください。お召し替えに手伝いが必要でしょう、すぐに気の利いた者に声を掛けますので」
「いえ、結構です。わたくしはひとりで大丈夫ですから」
  親愛な眼差しで迎え入れてくれたその者の言葉を、咲はすぐに遮った。
  到着早々、信じられない扱いを受けたばかりである。少しの間でもひとりきりになって、混乱した頭の中を整理したいと思った。
「……左様にございますか」
  男は短くそう答えると、そのまま縁に膝を立てて控える。その気配を感じ取りながら、咲は衝立の後ろに回って素早く旅支度を解いた。
  そうたいそうな着替えではない。羽織ものを取り替えて、衣の丈を伸ばす程度だ。まとめていた髪も解き、軽く櫛を入れる。腰を覆うほどに長く伸ばした朱色の髪は、何の抵抗もなくさらさらと収まった。
  薄暗い場所で鏡を覗き、咲は小さく溜め息をつく。このままこの場所に籠もって、しばらく過ごすことができたならどんなにいいだろう。だが、まずは今後のことをはっきりさせなくてはならない。今抱えているのは自分ひとりの問題で済まされることではないのだ。
  衣を整えて戻ると、そこには茶道具が揃っていた。器にはなみなみと香茶が注がれている。柔らかな花のような香があたりに漂っていた。
  咲が敷物の上に座すると、男が目の前まで進んできて告げる。
「申し遅れました。私はこの地主の館で侍従頭をしております、波留と申します。先ほどは、大変失礼をいたしました。主に成り代わり、お詫び申し上げます」
「あ、いえ……こちらこそ、突然押しかけて申し訳ございません。わたくし、咲と申します」
  とりあえずは落ち着いて話のできそうな相手が現れ、ホッとする。あのまま、何の言葉も返せないまま追い出されたら、どうしたらいいのか途方に暮れてしまうところだった。
  このたびのお役目を大臣様からいただいたときにも、とんでもないことだと腰が引けたが、まさか実際に出向いてそれ以上の衝撃に出会うとは。これでは先が思いやられるというものだ。
「たいそう驚かれたことでしょう、普段はあのように気性の荒い御方ではないのですが……」
  男は慣れた手つきで茶の支度を調えてくれる。咲が慌ててその役目を代わろうとすると、それはやんわりと断られた。
「大臣様の名代となる方に、このようなお役目をさせるわけにはいきません」
  決して他意はないのであろう、だがその言葉は咲の胸に深く突き刺さった。誰もが自分を色眼鏡で見ようとする、それは目の前のこの者も例外ではないのだ。
「さあ、まずは一服。どうぞ、おくつろぎ下さいませ」
「ありがとうございます、いただきます」
  なみなみと注がれていたのは、少し色の薄い茶であった。器を手にすると、花のような不思議な香りがする。
「咲様は初めてでいらっしゃいますか。これは、この地方の名産である白花茶です。疲労回復の効果があると言われているのですよ。もうじき、目の前の畑で一斉に花が咲きそろうことと思います」
「左様で……優しい香りですね」
  咲は一口含むと、そのまま飲み干した。癖はなく、するりと喉を通る。説明を聞いたからか、旅の疲れがじんわりと癒されるような心地がした。ささくれ立っていた心までが鎮まるようである。
  男はそんな咲の姿をゆっくりと目で追ったあと、静かに口を開いた。
「早速ですが、これからのことをお話しなければなりません。よろしいですか」
「はい」
  咲が弾かれたように顔を上げると、男は穏やかな表情のままで続ける。
「祝言は三日後になります、それまではこちらの対をご自由にお使い下さい。あとで世話役の者を寄越しますから」
「……え……」
  当然のように話をされて、咲は思わず聞き返していた。
「その……わたくしはこのままこちらに滞在しても構わないのですか?」
「もちろんです」
  戸惑いを孕んだ言葉には、きっぱりとした返答が戻ってきた。
「大臣様のお言葉は天のお言葉。……左様でございますよね?」
「……」
  咲はごくりと唾を飲んだ。この者はわかっている、心の中でそう反芻しながら。
「主はあのように申しておりましたが、必ずや説得してみせます。大丈夫、賢い方ですから、すぐに承諾してもらえるでしょう。この土地と民を護る地位に立たれたのですから、個人的な感情だけで物事を決めることが敵わぬのは当然のこと」
  男はそこで一度言葉を切ると、まじまじと咲を見た。
「さすが……都でお暮らしだった方は垢抜けていらっしゃる。まさか、ここまでお美しい方がお出でになるとは思いませんでした」
「あ、いえ……そのような」
  慌てて首を横に振る咲に、男は肯定とも否定とも取れる笑みで応えた。
「こちらも喪が明けて間もないものですから、特別のことはできません。なにしろ、先代が亡くなってまだ二月ですから――おや、ご存じありませんでしたか?」
  咲の顔色を見て取ったのだろう、男は意外そうに訊ねてくる。
「え、ええ……申し訳ございません。わたくしは、ただ――」
  集落境にある山深い直轄地の地主の元へ出向くようにと言われたが、それ以上のことはなにも見聞きしてはいなかった。お悔やみの言葉を口にすることもなく、とんでもなく無礼を働いてしまったものである。
「いえ、咲様がお気に病むことなどなにもございませんよ」
  器の中で薫り高い茶がどんどん冷めていく。どこからなにを始めたらいいのか、その方法もわからずに咲はさらに途方に暮れるほかなかった。

 

<< 前へ     次へ >>


TopNovel>薄ごろも・5