TopNovel>薄ごろも・6


…6…

 

 世の中は、決して自分の思うようには動いていかないものである。むしろ、思うとおりに進まないことの方がよっぽど多い。
  そのことを咲は半年前に身をもって思い知った。

「ほらっ、早く! ぐずぐずしていると、誰かに見つかってしまうぞ!」
  あの夜、親父さんは咲の身を本気で案じてくれていた、その意味ではとても誠実な人だったと言える。でもそれと同じくらい、彼は愚かであった。後先を考えず、ひとつの行動がその後我が身になにを及ぼすかを察する間もなく、ただ気持ちばかりが先走ってしまったのだろう。
  彼の行いは、少しも報われることはなかった。それどころか、彼は咲になにも伝える間もなく、その先の人生のすべて失ってしまったのである。
  すぐに騒ぎを聞きつけて、夜警の者たちが飛んできた。そして彼らは、咲を無理矢理連れ出そうとしていた親父さんを後ろから一太刀に斬り殺してしまった。
「……まあ、なんと騒々しいこと」
  ハッとして声のした方を振り返ると、そこにはこの対の主である御方がいらっしゃった。夜半だというのに涼しげな衣を一寸の乱れもなく着こなしていらっしゃる。そのお姿は、少し前まで寝所でお休みになっていたとはとても思えぬものであった。
  この御方は、いったいなにをどこまでご存じであるのだろうか。
  咲はなにも言えなかった。そのときには言葉というものが自分の身体からすべて抜け落ちてしまっていた、――というより頭の中が真っ白になって、そもそも物を考えることすら出来なくなっていたのである。
  顔なじみの親父さんが、自分の目の前であっさりと斬り殺されてしまった。父が亡くなったときにその亡骸は目に焼き付けていたが、病魔に冒されながらも最後は苦しむこともなく安らかに逝った人のものとはまったく違う。まさに断末魔を上げようとしていたその瞬間を凍り付かせた彼の表情は苦悩に満ち、そのまま咲の脳裏にべったりと焼き付けられた。
「どうしました、悪い夢でも見ましたか。たいそう顔色が悪いようですね」
  女人様は次に咲の方を振り向かれると、慈悲に満ち溢れたお顔でそう仰った。しかし、もったいないお言葉をかけられても、咲は反応することが出来ない。震える唇は言葉を発する機能をすっかり麻痺していた。
  その態度を、どのように見て取ったのか。それでも女人様はお優しかった。
「……誰か、この者に気付けの薬湯を。可哀想に、夜風にでも当たって物の怪にでも出会ってしまったのでしょう」
  すぐに数名の侍女が現れ、咲は彼女たちにあれこれと世話を焼かれることになった。だが、その誰もが立った今、目の前で起こったばかりの惨事を気にも留めていない様子である。あまりに普段どおりに執り行われるそのすべてが、恐ろしくて仕方なかった。
「寝の刻になったというのにぐずぐずしているから、このような目に遭うのです。少しは反省しましたか」
「は、はい」
  馴染みの世話役に声を掛けられ、ようやく心が少し落ち着いた。だが、どす黒いおぞましいものがぐるぐると胸の内を回っている。それを少しでも吐き出したいと、咲は勇気を持って口を開いた。
「でも、これは……」
  今目の前で見たのは、物の怪の見せたまやかしなどではない。自分の腕を掴んだ親父さんの手の体温、あれは誠のものだ。親父さんは確かにここに現れた、そして命を落としたのである。
  世話役の侍女は親父さんと馴染みであった、そうなればとても平静ではいられないはず。
  だが、こちらを振り向いた彼女は、面のように整った顔を少しも歪めずに言い放った。
「お前はもう少し口を慎んだ方が良いですね、滅多なことを言うものではありません」
  それだけを告げたあと、女は咲を使用人の寝所へと促す。揺るぎない歩みに有無を言わず従うほかなかった。
  ――ここには、この館には、確かに魔物が棲んでいる。
  しかしそれは、恐ろしい妖怪などとは違う。当たり前に人の形をして、常人と少しも変わることなく生活をしている。
  咲はすぐにでも逃げ出したいと思った。だが、それは果たされるはずもなかった。侍女たちのあまたの手が自分へと伸びてくる。まるで、生き物をひとつ処へ押しとどめる檻のように。

 彼は裏山の泉の縁にひとり佇んでいた。鏡のように静かな水面に、凜としたその顔がくっきりと映っている。そこには行き場のない憤りが色濃く滲み出ていた。
  胸は乱暴に波打っている。普段の彼は、あまり感情を露わにする性格ではない。むしろ、人当たりは穏やかすぎるほどで主となる器には少し物足りないと囁かれるほどである。
  ほんの数ヶ月前までは、そのことに誰も異を唱えたりはしなかった。生まれ落ちたその瞬間から次期の地主となりこの地を治めることが決まっていた兄の下で、自分に与えられたお役目をこなしていけばそれで充分だったのである。
  しかし、今は状況ががらりと変わってしまった。ありとあらゆる重責が彼の上に折り重なり、ほとんど身動きの取れない有様である。
  ――このときとばかり、隙を狙ってきたのか……。
  西南の大臣家のやることは、改めて言うまでもなくそのすべてがあざとい。だから、こちらも心して掛からなければならないのだ。だがこのたびのやり方は、あまりに気に入らない。こちらの足下を伺うようなやり方が、彼の平常心を大きく乱した。
  表向きは、新しく地主となった自分に似合いの者を縁づけてやろうとする心づくしにも思える。だが、大臣家の息の掛かった女子など、どうして受け入れることができるものか。気軽に寝所に招き入れては、寝首を掻かれるのが落ちだ。
  ここ数年は流行病がこの地を襲い、それで彼の両親も兄も命を落としてしまった。もちろん、領地の民にも犠牲者が多い。農村では働き手が少なくなれば、直ちに禄高に響いてくる。もともとがそれほど豊潤な土地ではないことに加え、さらに冷害などの災難も続いていた。
  それでも、毎年の取り立ては相変わらずである。近隣の村々でも領地が召し上げられたり、統合されたりする事態が起こっていた。それは決して他人事ではなく、明日にでも我が身に降りかかってくるかも知れぬことである。
  痩せた土地を耕す村人の表情はそれでも明るい。皆、自らの不幸を嘆くことよりも、明日を信じる気持ちが強いのだ。その気合いに応えたいと思う、だが、その手だてがわからない。
  堂々巡りの中で、今回の出来事である。数日前に大臣家から届いた書状には目を疑った。兄の死を悼む言葉もそこそこに、信じられない話が展開されていた。新しく地主となる彼に、未だ決まった妻がいないことは落ち着かない、ならばこちらの見立てた良き女子を遣わそうと言うのだ。
  その上、女はすでに大臣家を出立してこの地に向かっているとのこと。これでは、今からその申し出をお断りすることもできない。こちらの思惑をすべて察した上で、出されたものといえる。
  まずは、冷静に感情を落ち着かせて考えねばと思った。短い期間ではあったが、あれこれと策を練り、最良の対処方法を考えてきた。
  だが、敵はさらに上手であったのである。やって来た女の顔をひと目見た途端、彼の中にきっちり並んでいたはずの段取りがすべて崩れていた。
「……若様」
  そのとき、背後から不意に名を呼ばれた。彼の肩がぴくりと一瞬動いたが、それ以上のことは起こらない。その声を聞けば、誰が後ろにいるのかすぐにわかったからである。
「余計なことは言わずとも良いぞ。お前がなにを考えているかくらい、私にはわかっている」
  彼は振り向くこともなく、そう言いはなった。
「左様で。それではこちらの手間も省けて幸いというところでしょうか」
  驚いたことに、背後の者は軽く笑い声すら上げている。そのことが、彼の感情を波立たせた。
「なにが可笑しい」
「……いえ、別に」
  含みを持たせた物言いはかんに障るが、これ以上突っ込めばいらぬやりとりをすることになる。面倒なことは避けて通ればいい、たいがいのことはそれで罷り通るのだ。
  彼はぐっと唇を噛みしめた。強く歯を立てたせいで、口の中にうっすらと血の味が広がっていく。
  それからしばらく、ふたりは同じ水面を静かに眺めていた。
「――あの者はどうした」
  ややあってから、口を開いたのは若者の方である。その言葉を耳にして、後ろに控えた男は口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「客座の方へ、ご案内申し上げました。お召し替えも済ませられ、今はおくつろぎくださっているご様子です」
「そうか、やはり度胸が据わっているな。さすがは大臣家の犬というところか、ただの女子ではなさそうだ」「……若様」
  背後の男はたしなめるように短くそう言ってから、しばらく思案するように押し黙った。
「どうした?」
「いえ、実は少しばかり困ったことがございまして……」
  男は適当な言葉を探そうとするのか、首を少し傾げた。
「あの御方は、世話役の者を側に寄せようとはしません。あらかじめ選んでおいた館の侍女を呼び寄せたのですが、必要ないからとすべてお返しになってしまって」
  若者はその話に、眉を少しつり上げた。
「まさか、それが先方のやり方ということか?」
「いえ、そこまでは……でもこのことが大臣家に知れたら、それだけで大事になってしまいます」
  こちらのもてなしに手落ちがある、そのことが西南の大臣の耳に届いては大変なことになる。それくらいのことは、村の子供でも承知していることだ。
「早速、私への報復ということか。随分と辛辣な態度であるな」
  だが、彼らの思うようにはさせぬ。それだけは守り通さなければならない務めである。
「敵も然る者、心して掛からねばなりません」
  水面に、名残の落ち葉がはらりと舞い降りた。その波紋は初めは小さく、次第に緩やかに広がっていった。

 

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