TopNovel>薄ごろも・7


…7…

 

 柔らかな春の日差しが板間の中程まで入りこんできている。
  そろそろ日も傾き、夕暮れが近くなったのだろうか。頬を撫でる気が心持ちひんやりとしたものに変わってきたのを感じながら、咲は小さく息を吐いた。
  波留という名の侍従頭が立ち去ってしまった後、屋敷の中程にあるこの場所は静寂に包まれている。時々庭先に舞い降りてくる小鳥たちの鳴き声が遠く近く聞こえる他は、人の声はおろか気配までがまったく感じられない。
  そっと瞼を閉じれば、今自分がどこにいるのかすら曖昧になっていく。もしかすると、長い夢を見ていたのではないか。再び目を開けば、そこには全く違う風景が広がっているかも知れない――
  そこまで想いを巡らせたところで、彼女は思わず低い忍び笑いを漏らしていた。
  ――愚かなこと。
  望んだところで果たされる夢など、もはや持ち合わせてはいない。すべてはあの日に置いてきた。親父さんが目の前で斬り殺された悪夢の一夜に。

 あの日を境に、咲は自分の気持ちを表に出すことをやめた。
  唯一の願いであった母親や弟妹の住む長屋に戻ることすら、決して果たされることはないと心の隅で覚悟を決めていたのである。
  厄介者はほとんど虫けら同然に口を塞がれる、それがこの場所での道理であった。とすれば、周囲の者たちが困惑するような立ち振る舞いをすれば、自分もいつ親父さんと同じ道を辿ることになるかも知れない。彼は自分を逃がそうとしてくれたのだ、それだけ危うい場所に足を踏み入れてしまったということなのだ。
  不安と恐怖が胸の奥でぐるぐると渦巻いている。それがふとした拍子に口元からうっかり転げ落ちないように、咲は細心の注意を払った。昼間で意識がはっきりしているときは当然、夜半にしとねに横になってからも気が休まる瞬間はついに訪れない。
  一日のほとんどを暗がりで過ごしているうちに、ほどよく日に焼けて健康的であった肌は透き通るように真っ白に変わっていた。娘らしくふっくらした頬にも生気はほとんどなく、決まった場所に座しているその姿は大きな人形が座っているようにも見えた。
  その変化をもちろん周囲の者たちも気付いていたはずである。だが、誰もがそのことを気に掛けていないように見えた。少なくとも表向きは。
  静かな、しかしたとえようもなく居心地の悪い空間が、咲の唯一の住処であった。その場所で、朝から晩まで与えられた作業に没頭した。想像を絶するほどに入り組んだ編み目は、一通りの技術を習得していた咲にも難しく、頼りない金糸銀糸を何度も結んでは解き、解いてはまた結び直し、それが永遠に続くとも思われた。
  日によっては指の先ほどの長さしか進まない日もある。しかし、途中ですべてを投げ出すことも出来なかった。もしも自分の口から否定的な言葉が飛び出したら――その後のことは考えたくもない。
  一度、馴染みの下女に頼んで、母子で暮らしていた長屋を見に行ってもらったことがある。しかし、その場所はすでにもぬけの殻になっており、親父さんが死に際に漏らした言葉が真実だと言うことを裏付けただけだった。隣に住む大家に聞いても、ある朝にまるで煙のように全員が消えていたのだと首をひねるばかり。綺麗に片付けられた板間には未払い分の家賃だけが残っていたという。
  親父さんがすでにこの世にいないとなれば、他に誰が彼らの行き先を知っているのであろう。しかしそのことを周囲の者に訊ねるのはどうしても憚られた。もしもその話が巡り巡って偉い方々の耳に届き、家族に害が及ぶことになったら大変である。
  いつかお役目が済んで晴れて自由の身になったら、そのときはどんな手を尽くしてでも探しだそう。咲にとって、それだけが生き続ける望みとなっていた。
  たっぷりと二月近くが過ぎたころであろうか。朝晩の冷え込みが耐えきれぬほどに厳しくなってきた頃、ようやく飾り輪が従来のかたちに戻った。とはいえ、それがもともとの姿であったかは咲ひとりでは判断のつけようがない。何度も見直して作業の手順に間違いがないと信じられたとき、とうとう女人様にそのことを告げた。
「まあ……なんと素晴らしい仕事でしょう。咲、あなたは本当に良き腕の持ち主でありますね。こうして元どおりの姿になって、誠に喜ばしいこと」
  おっとりとしたお声の中に嬉しいお気持ちが溢れていることが、咲にも深く伝わってきた。もったいないほどのお言葉に胸が震える。しかし、その瞬間に彼女の心を満たしていたのは安堵の気持ちだけではなかった。
「存分に褒美を取らせなくては。なんでも望むものを言いなさい、すぐに用意させましょう」
「い、いえっ……そのようなことは……」
  咲は喉から出掛かった言葉を、慌てて呑み込む。欲しいものなどなにも思いつかない、ただ家族の元に戻りたい。でもそのことを素直に口にしていいものか。
  女人様の前でひれ伏しつつも想いを巡らせていると、急ぎの使いが渡りをやって来た。
「まあ、騒々しい。いったい、どうしましたか」
  女人様は戸口に控える侍女をちらと見て、短く言い放つ。
「失礼いたします、都より急ぎの文が参りましたのでお届けに上がりました。すぐにお返事がいただきたいとのこと、使いの者があちらで待っております」
「都から? ……まあ、なにがあったというのかしら」
  女人様は眉をひそめると、侍女を手招きする。その者は、咲を物珍しそうに眺めつつも文を手に部屋に入ってきた。
「珍しいこと、美莢からではないの」
  はらりと文が開かれると、そこから芳しい花の香が漂ってきた。向こうが透けるほどに美しい薄様紙に流れるような達筆の文字が並んでいる。
  見る気もなしに女人様の方をうかがっていた咲は、そのお顔の色がみるみる青ざめていくのがわかった。女人様がここまで感情を露わにされることはとても珍しい。少なくとも咲にはそのようなお顔を見るのは初めてのことであった。
  すぐに声が上がることはなかった。二度三度と文を読み返し、そのたびに音にもならない溜め息を漏らされる。たとえようもなく恐ろしい沈黙、女人様を取り巻く気がまるで青白く燃え上がっているように見えた。
  都、と聞いても咲にはなんのことかさっぱりわからない。
  その場所には竜王様の御殿があり、美しい絵巻物のような生活が営まれているのだということを人づてに聞いているだけである。想像しようにも絵巻物というものを垣間見たこともないままであったから、どうにもならない。
  それまでにも都からの文は時折届いていたが、そのときはいつもどおりのお変わりのない対応であったと思う。それらと今回の文では、いったいどこが違うのであろう。
  ややあってから、ようやく女人様はお口を開いた。
「まったく……あの子にも困ったこと。やはり美莢ひとりに任せておいたのが間違いだったのかしら」
  白魚のように美しいお手を額にあて、傷心の面持ちである。深くお気を落としているのはわかるが、状況が掴めないのであるから対処のしようもない。
「誰か、硯と筆を」
  続いて女人様は奥の部屋に声を掛ける。すると、今まで人の気配もなかったその場所から数名の侍女が飛び出してきた。それぞれの手には違ったお道具がある。そして、そのうちのひとりが女人様のお側に文机を広げた。どうもお返事の文は代筆で書かれるらしい。
「あ、あのっ……わたくしはこれで」
  なんとも場違いな自分に気付き、咲は慌てて後ずさりした。すると、それまでうつむきがちになにかを思案しているように見えた女人様がパッと顔を上げる。どうも、少し前まで咲と話をしていたこともすでにお忘れでいたらしい。
  女人様は驚いたような表情を見せたあと、急に目を輝かせた。
「……お待ちなさい、そうね、どうして今まで気付かなかったのでしょう。ああ、なんて名案。これはすぐに支度に掛からなければ」
  それまでの憔悴ぶりはどこへやら、女人様は突然別人のように生き生きした姿でその場にお立ちになった。そして特に懇意にしている侍女を数名呼んで、なにやら早口に指示を出している。お声を潜めておいでなのでその内容までは聞こえなかったが、お話をうかがっている侍女たちがちらちらと自分の方を見るのがとても気になっていた。
  どうしたものかと思っているうちにお話に区切りが付いたのだろう。すると、呼ばれた侍女たちは次に群れをなして咲の方へとやって来た。
「さあ、すぐにこちらへ。ぐずぐずしている暇などありませんよ」
  とくに恰幅のいいひとりに横脇にでも抱えられるほどの勢いで手を引かれ、そのまま奥の間に引きずり込まれてしまう。そして、この館に着いたあの朝と同じように、身に付けていた衣を次々に脱がされていった。
「あ、あのっ……いったいこれは」
  衣を変えろと言うのなら、自分ひとりでもできる。このように大勢に手を焼かれるのは、なんとも居心地のわるいことであった。
  しかし、すぐにピシャッと言葉を投げ返される。
「余計な動きでこちらの仕事を邪魔しないで欲しいですね。これだから下々の者は……お前が相手だと私たちがやりにくくて困ります。ほら、とにかくじっとしていて。半刻ののちには西南の大臣様がこの対にお渡りになるのですよ、それまでに支度を終えなくては」
「……え?」
「だから、動かないでって。ああ、女人様も……いったいなにをお考えなのでしょう」
  その頃には四方八方を十人は下らない侍女に取り囲まれていた。彼女たちの鬼気迫った面持ちに、それ以上のことが言えなくなる。この御館で起こることはすべてが咲の想像を大きく超えていたが、自分の意思とは遠く離れた場所で当然のように行われるすべてがやがては我が身すらを巻き込もうとする。
「顔色がたいそう悪いこと。これは頬紅をたっぷりはたかなくては、紅もとくに明るい色にしましょう」
  その頃までには、あの女人様がこの御館の主である西南の大臣様の正妻様であることは薄々承知していた。誰もが当然知っていることであるから改めて教えられることもなかったが、そういうことは皆の話や行動で知らないうちに伝わってくるものだ。
  だが、その大臣様がこちらの対にお渡りになることはなかった。もしもご用のあるときには女人様のほうから出向かれる。今まではいつもそうしていたはずだ。それが……何故。
  新しい恐怖がすぐ側まで迫っていることも知らず、咲はあまりの喧騒にただただ振り回され続けていた。

 

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