TopNovel>薄ごろも・8


…8…

 

 刹那、周囲の気が凍り付いた。
  直前まで、せわしなく立ち振る舞っていた者たちも瞬時に動きを止める。皆の緊張した面持ちが、勝手の分かっていないはずの咲にもはっきりと感じ取れた。
「……さ、あなたはこちらへ」
  他の侍女たちが部屋の隅に壁や襖にへばりつくほどに縮こまって控えている中で、堂々と中央の座に着いた女人様はにこやかなお顔で咲を手招きした。
「……え、でも」
「そのように離れていては、姿も良く確認できないではありませんか」
  あくまでも穏やかに、決して強引な物言いではない。だがしかし、女人様のお言葉にはいつでも凜として他の何者も寄せ付けないような厳しさがあった。もちろん、ほかの誰も助けてはくれない。
  咲は身体にまったく馴染まない霞のように軽く頼りない衣を重ねた身体を引きずるように、おずおずと敷物の際まで進み出た。香油をたっぷりと染みこませた髪はとても重く、それだけで両肩がずっしりとしている。衣の裾も引きずるほどに長く、しかも幾重にも着込んであるため、動きにくいことこの上ない。
  それはあまりにぎこちなく情けない身のこなしであったのに、一連の動作をじっと見つめる女人様のお顔には満足げな色が広がっていた。
「ほほ、やはり。誠に愛らしいこと……皆もそう思いますよね」
  はっきりと声になった返答はないものの、にわかなさざめきはその全てが女人様のお言葉に同意しているように感じ取れた。
「――お成りにございます。大臣様のお渡りにございます」
  やがて、対の向こうから高く伸びやかな声が響いてくる。それに続いて、あまたの衣擦れの音がざわざわと途切れなくまるで川面の波音のように聞こえてきた。地を這うようなその音はあまりにも恐ろしく、咲には面を上げてそちらを確認する勇気も出ない。ただひとつ場所にひれ伏して、留めようにもどうしようもない身体の震えを持てあましていた。
  板間を踏みしめる足音の中に、ひときわ重くどっしりしたものがある。それがどんどんこちらに近づいてくるごとに、部屋の中の気がさらに張り詰めていった。それはうっかりと指先をわずかに動かしただけで、その場所に深い傷を作る程に思われる。
「――お出でなさいませ」
  女人様のお声に、自分の背後に控えた者たちがびくっと反応したのが感じ取れる。それに従って、咲の身体の震えもさらに大きなものになっていった。
  ――恐ろしい、あまりに恐ろしい。まるで次の瞬間には取って食われてしまうのではないだろうか……
  大声で泣き出したいほど追い詰められているのに、逃げ出すことはおろか声を上げることもできないまま。本当にこのまま事切れてしまうのではないかと危惧していた。
「どういうことだ、翠。このような場所まで呼びつけるとは」
「ご無礼をいたしましたこと、心よりお詫び申し上げます。しかしながらこのたびは、すべてを内密に行う必要があると思いましたので。……どこに間者がいるとも知れませんゆえ」
  どかっと大きな音がして、板間が揺れる。しかし、それでも咲は面を上げることができなかった。
「で? この者がそうなのか。なんだこの形は、あまりに貧相ではないか。どうしたのだ、翠。とうとう気が触れたか」
「……まあ、お戯れを。もっと良くご覧下さいませ、なかなかに愛らしい娘でございましょう。ほら、面を上げて御館様にご挨拶申し上げなさい」
  その女人様の呼びかけが自分に向けられていることは、すでに疑いようがなかった。そんなことは絶対に無理だ、自分には出来るはずがない。そう思うのに、身体は心を離れておずおずと反応してしまう。
「……お、……お初にお目に掛かります……」
  自分は今、どんなにか青ざめているのだろう。身体も大きく左右に震え、なんとみっともないことか。唇が震えて、言葉がうまく出てこない。
  心の中のざわめきに胸を押しつぶされそうになりながらも、咲はとうとう目の前に座した御方のお顔を見た。
  ――この方が、西南の大臣様。
  誰に確認するまでもなく、そのことが分かる。なんと大きく逞しいことか、頑として揺るぎないことか。お召し物のきらびやかなこともこの上なく、あまりのことに目がくらみそうだ。
「――ほう、悪趣味ということもないか。たまには大きく趣向を変えてみるのも一考か」
「はい、誠に。あの子の本音はわたくしども親であっても掴みかねるところがございます。ここはどのような手を使っても、こちらの意に沿うように事態を好転させなければなりません」
「そうであるな、なにしろ時間がないのだ。このまま手をこまねいている暇はない――あとは良きに計らえ」
  そこまで仰ると、大山のような御方はおもむろに立ち上がられる。側に控えていた男衆も慌ててそれに続いた。
「お前もなかなかに賢いな」
「恐れ入ります」
  そのやりとりの意味もこちらに分からないまま、大きく荒々しい足音が今来たばかりの渡りを遠ざかっていく。いったい、これはどういうことなのか。咲は意表を突かれたまま、その場所に再びひれ伏すほかなかった。そうしなければならないと自制したのではなく、半ば腰が抜けたような状態で身体にまったく力が入らなかっただけであるのだが。
「皆の者、いつまでもぼんやりしているのではありません。御館様のお言葉をいただいたのです、急ぎ支度に掛かりましょう」
  そのお声に咲の周りでざざざっと野を渡る風のような音が起こる。竜巻に取り込まれたようだ。あっという間に通り過ぎた緊張の余波で未だ身体に力が入らない状態で、咲は両側から侍女たちに抱えられるように立ち上がらせられた。
「……あ、あのっ……」
  岩のように頑として恐ろしかった先ほどの御方に比べたら、女人様はいくらかマシであるように思われる。だからどうにかお訊ねしようとした、自分の周りでいったい何が始まろうとしているのかを。
  必死の面持ちな咲に対し、女人様はすでにすべてが決まったように悠然と微笑まれた。
「御館様のお言葉を聞きましたね、あなたには大切なお役目が与えられました。でも案ずることはありません、あとは皆が良きように計らってくれるでしょうから」
「……え……」
「あなたはこれから都に上がり、竜王御殿で時期竜王となる御方にお仕えするのですよ」
  そこまで伺っても、未だに話が良く掴めない。解せないままの表情でいる咲に、女人様は少しばかりお声を潜めて続けられた。
「もちろん、ただお側にお仕えするだけではありません。より親密な関係になってもらいます」
「……」
「あなたなら、そのお役目を全うすることができるはずです」
  それだけ仰ると、女人様は何事もなかったかのように敷物の上で肘置にお身体を預けた。ご自分の夫君にお目に掛かったわけではあるが、それでもいくらかの疲労が訪れたのだろうか。そのお姿を見ると、とてもさらなる言葉を掛けられなくなった。
「ほら、ぐずぐずするのではありません」
  世話役の侍女がそんな咲を強引に奥の間に引き入れる。
「お前は本当にぼんやりしていますね、困ったこと。どうしてすぐに御礼の言葉が出てきませんか、女人様のご厚意で思いがけなく幸運が訪れたのではありませんか」
  西南の大臣様とその正妻である女人様の間にお生まれになった末の若様が次期竜王候補として幼き頃より都に上がられていることは咲も人づてに聞いていた。その御方のお側に上がるなど、もったいないことである。だが、どうしてそのことを「幸運」と呼べるだろうか。
  すぐにでもこの場所から逃げ出したい、でもどこかに潜んでいる家族に害が及ばないよう大人しく過ごしているしかない。そう自分を戒め、息を潜めて機をうかがっていた咲であった。
  ようやく飾り輪の修理も終わった。そうなれば、お暇を告げられるのもすぐだと信じていたのに。
「もっと、嬉しそうな顔をしたらどうなの」
  今にも泣き出しそうな顔をしていたであろう咲に、彼女は更に言葉を重ねる。
「竜王様の側女なんて、望んでも叶うはずのないことでしょう。……そう、たぶん今夜には御館様からも閨にお召しがあるはずですよ。もちろん、内密にですけど」

 あの頃も今も、咲は荒れ狂う川面に落ちた惨めな落ち葉に相違ない。
  自らの意思で動くことなど許されず、言われるがままに右へ左へと漂っていく。そうして行き着いた場所にも長く留まることなどない。
  ――そのような身の上であることを、とうに承知していたはずなのに……
  未だに自分の中に密やかな望みがあったことを、咲は心から恥じていた。そして、それを跡形もなく打ち砕かれてしまった今も、誰を恨むつもりもない。
  咲は閉じていた瞼をそっと開き、衣の袖から覗く自分の手のひらを見つめた。
  小さくて頼りなくて、どこにも掴まることのできない惨めな存在。そんな立場であることを、我が身ではっきりと思い知らされる。
  浅い春の日はさらに傾いて、黄金色に縁を染めている。偽りの温もりでも構わないとそこに指を伸ばしかけたとき、戸口でことりと控えめな物音がした。

 

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