TopNovel>薄ごろも・9


…9…

 

 それまであたりがひっそりと人気のないことに安心していた咲は、慌てて姿勢を正した。その上で、緊張した声で言い放つ。
「……どなた?」
  すると硬く閉じていた引き戸が少しだけ開き、そこから小さな人影が覗いた。
「あ、あたしですっ、美津です!」
  少し上ずったその声に、凝り固まっていた咲の緊張が一気に解けた。
  部屋を訪れて来たのは、先ほどこの館まで案内してくれたあの童女であった。若草色の衣もそのままである。それが戸口の隙間からちらちらと見え隠れしていた。
「まあ……なにかご用?
  思えば、この者には可哀想なことをしてしまった。良かれと思って道案内を買って出てくれたのに、その結果が家長である彼女の兄の怒りを買うことになってしまったのだから。もちろん、彼女自身に落ち度があるわけではなく、それを悔いる必要もない。だが、そうであっても嫌な想いをさせてしまったことは確かである。
  そのことを、まずは詫びなくてはならないと思っていた。だが、わざわざ呼び寄せるのも申し訳ない。こうして相手の方から訪ねてきてくれたのは幸運である。
「え、ええと……別に用があるとか、そういうわけではないのですが……」
  美津という名のその娘は、恥ずかしそうに引き戸を開けて膝先を進めてきた。
「あたし、咲さまがおひとりで退屈していらっしゃるのではないかと思って。先だって波留が呼び寄せた女子たちは、皆居所に戻ってきてしまったし」
  ああ、そういうことか。合点のいった咲は、美津には気付かれないようにふっと溜め息を漏らした。
  先ほどの侍従が連れてきた女子は六人ほど。しかし、その誰もが居心地が悪そうに部屋の入り口でそわそわとしながらお互いを突き合っていた。時折、ひそひそ声も漏れてくる。己の意にそぐわない場所に嫌々連れてこられたのだということがすぐに分かった。
  なにも用がないからと暇(いとま)を申し渡したときの一様にホッとした顔と言ったら。そのような場面でもないのに思わず噴き出してしまいそうになった程だ。
  まあ、使用人たちのそのような態度も当然のことではある。この館を訪れた折りの騒動はすでに村中に知れ渡っているはずだ。主であるあの男が忌み嫌っている客人などと親しくしようと思う者などいないだろう。下手に関わって、とばっちりでも食らったら大変である。「触らぬ神に祟りなし」ということだ。
  もしも自分が彼女たちの立場にあったら、やはり同じような行動を取っていたであろう。そう考えれば腹も立たない。
「そうであったの、心配を掛けてしまったわね。でもわたくしは大丈夫、長旅で疲れているのでひとりでのんびりと楽しんでいたところよ」
  それは決して負け惜しみなどではなく、心の底から零れた真実の言葉であった。
  一緒にいても息の詰まるばかりの相手ならば、いない方がマシである。大勢の中にいても始終孤独を感じている日常を、咲はほんの半年ほどの間に嫌と言うほど味わってきた。それなりの処世術も身に付けはしたが、ひとりきりになれるときの気楽さには代え難い。
「で、でも……初めての館で、いろいろとお困りのこともおありかと。あたしでお役に立てることがあれば、喜んでお引き受けします」
  美津はなおも食い下がってくる。
「そう、でも本当に――」
無垢な瞳にじっと見つめられると、咲はついに言葉に詰まってしまった。
  もしかすると自分は、ひとりの時間を少し持てあましていたのかも知れない。その証拠に、美津の訪問は素直に嬉しかった。想像以上に冷たい仕打ちを受け、今は気持ちもぱっきりと折れてしまっている。この先、いったいどうしたらいいのか、想いあぐねていたのもまた事実であった。
  ただ流されるままに生きていた身の上では、咄嗟の機転など思いつくはずもない。もしも誰かと心細い気持ちを分かち合うことができたら、どんなにか救われるだろう。
  ただその一方で、この娘の立場も考えてやらなくてはならない。自分と親しくすることは、この者にとってなんの利にもならないのだから。幼い娘であるから、そこまでは分かっていないのだろうか。そうであるなら、年長者である自分がはっきりとそれを伝えてやらなくてはならない。
「咲さま」
  すると美津は進み出て、そっと咲の手を取った。
「そんなお顔をなさらないで。兄上はあのように仰ったけど、あれはきっと本心ではないのです。ええ……きっと、咲さまがあまりにお綺麗なのに驚いて、今は照れていらっしゃるだけですよ」
  なんとも都合の良すぎる解釈である。子供らしいと言えばそこまでだが、あの剣幕を目の当たりにしてここまで前向きに捉えることができるのは立派であった。
「あたし、嬉しいんです。兄上のお嫁さまが咲さまのような方で。大臣様の御館からお出でになる方と聞いて、どのような恐ろしい方がいらっしゃるのかと正直不安に思っていました。でも、咲さまなら。こんな素敵な姉上様で夢みたいです」
  美津はさらに言葉を重ねる。愛らしい口元からこぼれ落ちるそれらから、温かな愛情に育まれて成長した真っ直ぐな心根が感じ取れた。
  懐かしさと切なさ、ふたつの感情が混ざり合って咲の胸を深く刺す。
  こんな気持ちは長いこと忘れていた気がする。たった一年足らずの間に、自分はどこまで変わってしまったのだろう。できることなら、あの頃のまま、何も知らないままでいたかった。
  叶えられるはずもない願いに後押しされるように、咲は口を開く。
「ありがとう。そうね、……それでは荷ほどきの手伝いをお願いしようかしら。ひとりではとてもやりきれないと思うから」
  咲の出立により早く、輿入れ用のあれこれが大臣家より運び入れられているはずだ。こちらに辿り着くまでの細道にもはっきりとそれと分かる、太い轍が残っていた。それを確認する度に、まるで絶対的な権力を誇示しているように見えて気恥ずかしく情けない気分になったものである。
  ――大臣家の犬、などと呼ばれるのも仕方のないことなのだわ。
  決して自分の意で動いているのではないと説明したところで、分かってもらえるはずもない。いつでも他人は目に見える結果でしか評価してくれないのだ。
  西南の大臣様は、この事態をどこまでご存じなのだろう。もしもすべてを承知した上でさらなる火種となる存在として咲を送り込んだのだとしたら……考えたくはないが、あり得ない話ではない。
  あの御方は世の中がご自分の意のままに進むことだけを望んでいらっしゃる。もしも目の前に障害が現れれば、それがどんなに些細なものであったとしても決してお許しにはならないだろう。
  そう、そのお相手が血を分けた実の息子様であったとしても例外はなかったほどなのだから。
  だが幸いなことに、このたびは思慮深そうな侍従の計らいで、どうにか門前払いだけは免れた。とりあえず、このままこちらに留まることができれば、大臣様のご命令に背かずに済む。あの御方の逆鱗に触れることを思えば、針のむしろに座るような現状も心地よく思えた。
「届いたお荷物は、奥の対に運んであります。そちらが新しいご夫婦の寝所になりますので。如何ですか、まだ夕餉には時間がありますし、一度ご案内しましょうか」
「ええ、でも……」
「いいじゃありませんか、ご自分のお住まいになる場所なのですから」
  無邪気な誘いに導かれ、どうにも断り切れなくなってしまった。  

 あの忌々しい客人が勝手に奥の対へと立ち入ったという話は、すぐに彼の耳に届いた。
「なんと……図々しいにもほどがある。まずはこちらにひとこと申し出るのが当然であろう」
  目の前に本人がいれば、あらん限りの言葉を並べて罵倒することもできた。しかし、それが得策ではないことも今はわかっている。大切な村人たちの上に立つ身の上では、些細な失態が命取りになるのだ。いつどこに大臣家が使わした間者が潜んでいるかも知れないと、波留にも先ほどきつく釘を刺されている。
  それならば、この湧き出で続ける怒りをどこに逃したら良いものか。
「大臣家が勝手に決めた婚礼など……どうして受け入れることができる?」
  今、彼のそばには誰もいない。波留も婚礼の準備に追われ、方々を飛び回っている。それなのに、主役であるはずの自分はまったく蚊帳の外であった。
  もちろん、腹心の侍従には絶対的な信頼を寄せている。あの者ならば、かならず物事が正しい方向へと進むように取りはからってくれるであろう。両親の亡き後は兄の存命中も、身体の弱い主人に成り代わり政(まつりごと)のほとんどを任されていたほどであるのだから。
  そうなのだ、波留に任せておけば間違いない。彼の言葉に黙って従っていれば、すべてが上手くいく。
「このままで済むと思うなよ、必ずやその化けの皮を剥がしてやる」
  見上げた天は、鮮やかな朱に染まっている。呻くような彼の言葉は、その美しい輝きの中に溶けていった。

 

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