TopNovel>薄ごろも・12


…12…

 

 届かないものに手を伸ばし続ける夢を、いつの頃からかよく見るようになった。そんな夜は必ずひどくうなされる。目覚める頃には身につけた肌着が冷たい汗でぐっしょりと湿っていた。
  そのときによって、空間は白かったり闇色であったり。だがどちらの場合も、咲はそこにひとりきりでさまよい続けている。白いときは霧の中だと思い、墨のような黒い闇を漂うときは再び明けることのない永遠の夜だと感じていた。
  ――だけど、今度こそは。
  乾いた口元から、声にならない声がかすれ出る。
  ――だけど、今度こそは幸せになれると思ったのに。
  自分はどこまでも愚かであった。西南の大臣様からこのたびのお話を告げられたとき、にわかにそのような希望が胸をかすめたのである。このまま大臣家に囲われていても永遠に日陰の身、しかも厄介者として肩身の狭い想いをしなければならない。
  でももしも、どこかに自分を必要としてくれる、そんな場所があるのだとしたら――。 

「……う……」
  誰かに強く腕を引かれるように、眠りの淵から強引に引き剥がされていた。まぶたを開けると、障子戸の向こうにまばゆい日差しが差しているのが見える。咲は慌てて起き上がった。
「ずいぶんと遅いお目覚めだな。皆はもう、忙しく立ち働いているぞ」
  思いがけず間近で声をかけられ、ひどく慌ててしまった。振り向くとふたつ並んだしとねの空いていた方に男が座っている。彼の衣はすでに寝着から日常の生活着に改められていた。
「なにをそんなに驚いている」
  男は驚きのあまり声のでないでいる咲に冷ややかな視線を投げかけてくる。
「私としても、このようにすることは不本意だ。だが、表向きは取り繕わなくてはいろいろと都合が悪い。お前も誰にも悟られるではないぞ、美津にもなにも話してはならない」
  寝起きでみっともない姿をしているのを見られてしまったのは、なんとも気恥ずかしいことだ。たとえ夫婦となったとはいえ、決してうち解けた仲ではない。だが今更、出て行ってくれとも言えなかった。
「承知……いたしいました」
  咲は震える声でそう告げると、夫となった男にするりと背を向けた。
  就寝前に翌朝の着替えはひととおり準備してある。格式のある家柄ならば使用人たちに任せることなのだろうが、そのように堂々と構える気にもなれなかった。生まれ育ちは自ずと人を分けていく、そのことは西南の大臣様のお屋敷に上がった折も、その後都で過ごした日々でも痛感した。
  婚礼前の数日のうちに、咲はこの地で自分がどのような衣を身につけるのがふさわしいか、おぼろげながら分かり始めていた。地味すぎるのも良くないが、派手すぎるのも都合が悪い。そうなると程々ということになるが、実はその見極めが一番難しいのだ。
  ご自身の勢力を誇示するためなのだろう、大臣様はこのたびの婚礼に際して納戸がひとつ埋まるほどの衣を持たせてくれた。柄物も無地も素材も様々に雑多に詰め込まれた中から、自分の立場に見合う物を探すのは骨が折れる。
  帯をほどいた寝着を肩に掛けたままで素早く肌着を取り替え、その上から重ねを合わせる。立ち上がって袴を替えれば身支度は調った。続いて髪を梳き、紅を軽くひく。顔色はあまり良くないが、病的なほどではないだろう。ほお紅は必要ないと判断する。
  都に上がっていた頃は、化粧をきちんとするのが礼儀とされていた。だが、色を加えることで自分が他人のような顔になるのがどうにも落ち着かない。だからごくごく控えめで済ませてしまい、侍女長からたびたび叱られていた。それも仕方のないこと、彼の地では飾れるだけ飾り立てて高貴な御方のお目にとまりご寵愛を受けることだけが大切だったのだ。
「お待たせいたしました」
  振り向くと、男もまた咲に対して背を向けていた。そのまま立ち上がり、表の間へと進んでいく。余計な会話はしたくない、そのような意思表示なのだろう。
  咲も続いて立ち上がり、彼のあとに続く。磨き込まれた板間が、まるで凍った湖面のように冷たかった。

 しばらくは代わり映えのない穏やかな日々が続いていた。
  亡き兄の喪が明けて間もないことが幸いしたのだろう、祝いごとにはありがちの行事がいくつも中止となったのは幸いと言えるのか。
  その日も彼は、日課である村回りをしていた。朝餉のあとに屋敷を出て、馬を使い領地境の山裾まで真っ直ぐに下る。少し高台になったその場所から眺める村の全域が、彼のとくに気に入っている風景のひとつだった。
  痩せこけた土地に根付く作物は少なく、どうしても裕福にはなれない運命らしい。それでも村人たちは朗らかで、泣き言のひとつも言わずにせっせと働く。だから自分も、その心意気にどうにか応えたいと思っていた。
  ――それなのに……大臣様はいったい私のなにが気に入らないと仰るのだ。
  あの女を寄越したのには、相応の理由があるはずだ。あの者に問いただしたところで口を割るとも思えぬが、なにか秘密を隠しているのは明らかだ。虫も殺せぬような顔をして、女子というものはしたたかである。
  男は鞭を使い、馬を急き立てた。驚いた愛馬は一瞬怯んだものの、すぐに体勢を立て直して勇ましく蹄の音を響かせる。そのまま風を切り、どんどん進んでいった。
  人里から遠ざかると、違った風景が見えてくる。白く固まった大地を彼は奥に奥にと進んでいった。ここは幾度となく開墾を試みて挫折した場所である。
  山間部で壁砂が多い。そのために耕すのに骨が折れ、農具などもすぐに駄目になってしまう。山向こうの川から水路を引けばと思ったこともあるが、そのためには莫大な資金と人手が必要だ。どんなに深く掘った井戸もすぐに涸れ、人々を嘆かせる。
  やがて、立ち枯れの古木の根元にささやかに湧いた泉のほとりに彼は馬を休ませた。
  欲をかいて掘り進めば、この泉も涸れてしまう。大きすぎる夢を描けば、すべてが打ち砕かれる。それがわかっていても、強い意志で立ち続けなければならない。
  志半ばで儚く散っていった両親や兄の無念さを思えば、なにがあろうと負けるわけにはいかなかった。
  しかし、あの女はいつまで経っても尾っぽを見せない。居住まいである対に一日中ひっそりと佇んでいて、なんの文句も言わず、彼の妹と時折会話をするだけで静かに過ごしているらしい。ずいぶんと冷たく接しているつもりであるが、こちらをなじる素振りもなかった。これもあの者が編み出した作戦なのだろうか。
  妹の美津はあの女をたいそう気に入っている。幼くてなにも知らないのだから、それも仕方のないことだ。相手の腹黒さも知らず、本当の姉のように慕っているのが哀れでならない。だがもうしばらくはこのままで過ごさねばならないだろう。都で贅沢な暮らしをしてきたのだ、このような田舎暮らしはそう長く耐えられないはずだ。
「ああっ、誠に忌々しいことよ……!」
  屋敷に留まれば、嫌でもあの者と顔を合わせることになる。それがたまらなく煩わしく、留守がちになってしまう。あの女さえいなければ、すべてが元どおりになる。だから早く、一日も早く音を上げてはくれまいか。
  夜明けと共に女の眠る寝所を訪れるのも、未だ慣れぬことであった。
  人目に付かぬよう夜も明けきらぬうちに離れ館から移動するのであるが、冷え切った屋外から中へ入ると、そこには花の香りが充満している。初めのうちは、妹の美津が気を利かせて珍しい花でも飾っているのかと思ったが、いくら見渡してもそのようなものは置かれていない。数日悩んだあと、その香りが女自身から放たれていることを知った。
  彼が訪れる頃、女はいつも眠っている。しかし必ずしもそれは心地よいものではないらしく、時折ひどくうなされたり、苦しげな表情を浮かべたりする。かすかなうめき声に覗く気もなくそちらを振り返ると、露わになった首筋に一筋の汗が流れていた。
  そのような折、ふと考える。この者はどうやって生まれ落ち、今日までどのように生き延びてきたのかと。しかし、不意に湧いた興味も次の瞬間には打ち消す。これも女の作戦に違いない。わざと秘密めいた態度に出て、こちらの興味をそそろうとするのだ。そうに決まっている。

「咲さま、今朝のご気分はいかがですか?」
  弾むような足音が渡りの向こうから近づいてくる。微笑ましくその響きを聞きながら、咲は筆を置いた。
「おはようございます。まあ……もしやこれは大臣様からの御文ですか?」
  板間に開かれたままになっていたそれを見つけ、美津は目を丸くする。
「大臣様は……とても荒々しい文字を書かれるのですね」
  その言葉に咲は黙ったまま微笑み返す。その言葉のとおり、大臣様からの文は感情をそのまま投げつけたような荒々しさがあった。たいした内容はない、変わりなく無事に過ごしているかと簡潔に綴られている。
「それでお返事を書かれるのですね」
「ええ、でも……なかなか良い文章が浮かばなくて」
  咲の父は教養のある人だったので、幼い頃から手習いや算術は教え込まれていた。だから、今のような身の上になってもなんら困ることはない。ただ、問題はその内容だ。
「やはり大臣様はたいへん恐ろしい御方なのですか? ……いえ、皆がそのように噂しているので」
  美津は恐る恐る訊ねてくる。
「ええ、そうね。そのように仰る方もいるわ」
  自分の置かれた立場はわかっている、だから余計なことは言えない。咲は胸の奥に鈍い痛みを覚えながら、言葉を選び選び答えた。
  そしてまた筆を手にするのだが、やはり途中で止まってしまう。すると、その様子をうかがっていた美津が声を掛けてきた。
「ああ、そうです。本日は咲さまをお誘いに来たんです。ようやく村の畑で白花が咲き始めました。その文を書き上げたら、一緒に眺めに行きませんか?」
「え、でも……わたくしは」
「いいじゃありませんか、こんな日和に部屋内ばかりにお籠もりになっていてはいけません。これから咲さまがお暮らしになる村なのですよ、あたしがご案内します」
  くるくるとよく動く瞳に見つめられて、咲の心が少し動いた。
「そうね……では、早くこのお返事を仕上げてしまいましょう」
  数日の内にも季節はどんどん色を変える。そろそろ歩き出さなくてはと、咲は自分の心に強く言い聞かせていた。

 

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