…13…
衣を外歩き仕様に改め外に出たのは、昼前のことであった。
春の輝きに照らし出される大地から生命の強い息吹を感じる。頬を通り過ぎる気の流れも心地よい。咲は久方ぶりに自分の気持ちが華やぐのを感じていた。
屋敷を出ると程なくして、かぐわしい白い絨毯が現れる。
「まあ……これは」
数日前とはまったく表情を変えた風景が、誇らしげに咲を出迎える。指の先に乗るほどの小さな花を鈴なりに咲かせた白花の群衆が辺り一面を覆い尽くしていた。澄み切った天の青や芽吹きだした山々の若草色と鮮やかな対比を見せている。
「素晴らしいでしょう、まるで咲さまのご到着を歓迎するように一斉に咲き出しました。今年の開花は例年よりも半月ほど早いのですよ」
美津は嬉しそうに説明しながら、咲を花畑の中に設けられた通路へと導いた。
「花が散るとそのあと小さな実が付きます。それを乾燥させて保存するのです。難しいのですよ、摘み取りを一日間違えるとすべて地面にこぼれ落ちてしまうのですから。収穫の時期は村人が総出で作業に当たります」
白花は痩せた大地でも元気に育つため、村の大切な収入源になっていると言う。花畑の中では、今も数名の者たちが手入れを続けていた。皆、美津の姿を見つけると顔を上げて挨拶をする。
「こんにちは、お嬢様」
「ご苦労様、精が出ますね」
このようなやりとりを聞いていると、自分を案内してくれているのが由緒ある家柄の娘であるのだいうことを再認識する。そのあと彼らは咲を見て不思議そうな顔になった。
「こちらは兄上の元にお輿入れなさった咲さまよ。みんな、よろしくね」
美津の説明に、村人たちは顔を見合わせてなにかを囁き合っている。咲は彼らから投げかけられるぶしつけな視線に気づかない振りをした。
「――あら」
足元ばかりを見て歩いていたからだろうか、畑の隅に抜き捨てられている雑草の山に目がいった。
「どうしましたか、咲さま」
前を行く美津が振り返って声を掛けてくる。
「ああ、いえ……これはもしや香辛草なのかと思って」
「香辛草? それはなんですか?」
耳慣れない言葉だったのだろうか、美津は不思議そうに訊ねる。
「薬草の一種よ、ヨモギやドクダミと一緒に磨り潰して傷の手当てに使うの」
咲はまだ抜き取られたばかりと思う一本を手に取り、茎を爪で潰す。独特の香りがそこから広がり、確信した。
「ええ、やはりそうね。間違いないわ」
「これが薬草なんですか、知りませんでした。数年前から急に増え始めて畑が荒れるので、実は困っていたんです。抜いても抜いてもあとから出てくるんですよ」
「当然だわ、とても精の強い品種ですもの」
指先に残る香りをかぐと、懐かしさが胸の中に広がっていく。
「わたくしの生まれ育った土地では、この香辛草の栽培がとても盛んだったの。収穫の時期には方々の村から買い出しの人々が訪れていたわ」
大きな行李をいくつも背負った男たちが山を越えてくる。彼らは自分たちの村で採れた野菜や木の実、干し魚と香辛草を交換するのだ。時には目にも鮮やかな織物や珍しい玩具などがその中に混じっていることもある。実りの季節は子供たちにとっても待ち遠しいものだった。
「へえ、そうだったんですか」
「きっと、小鳥かなにかが他の土地から種を運んできたのでしょう。とても生育の状態が良いから、この土壌に合っているのだと思うわ」
「すぐに村の皆にも教えなければ、きっと驚きますよ」
村人たちは、ちょうど昼の休憩に入ったところであった。輪になって座っている者たちの中に、美津は割って入っていく。物怖じしない行動力に、咲は昔の自分を見ているような気がしていた。
白い花はかすかに音を立てながら揺れている。土地が変われば栽培する作物も変わり、そこに息づく人々の気質も変わる。だが、この手入れの行き届いた大地を見れば、ここに暮らす人々がいかに日々を慈しみ過ごしているのかがわかった。
「――咲さま……!」
美津が花の向こうから手を振っている。
「こちらまでおいでいただけますか、皆が詳しいお話を聞きたいそうです」
娘の後ろに控えた者たちは、相変わらず親しみとは縁遠い表情を浮かべている。それでも咲は淡く微笑んで美津の言葉に従った。
離れ館の御方のご様子は、相変わらず芳しくない。あまり他の者が寄りつかないので、自然と彼が話し相手になることが多いのだが、その口から出てくるのはご自身に対する嘆きと、奥の対に住み着いた新しい女に対する恨み言ばかりである。同じ話を幾度も繰り返されるのには辟易するが、これも自分に与えられた使命だと思う。
『悪いのはすべてあの女、あの女さえいなければ、あの女さえいなくなれば……』
その言葉は呪詛のように彼の身に絡みつく。
あの者を厄介者と思っているのは彼も同じであったので、憎しみの鎖はそれほど重くも煩わしくもなかった。
女は祝言からしばらくは部屋奥でひっそりと過ごしていたが、そのうちに村へ降りていくようになった。なんの変哲もない寂れた土地であるから、どこかに目新しいものがある訳でもない。すぐに飽きるだろうと思っていたが、その予想は外れ、半月ほど経った今でも毎日のように出かけているらしい。
今朝などは、村の女たちのような質素な衣で出かけていくので驚いてしまった。男の姿を見ると、彼女は静かに会釈をする。地主の奥方ともあろう者がどういうことだと言ってやりたがったが、その顔を見ると言葉が出てこない。
野良仕事の姿はしていても、清楚な美しさは隠しようもない。しばらくの間に日に焼けて生き生きした肌が、さらに輝きを添えているようにも見えた。
「さあ、咲さま! 早く行きましょう」
傍らには妹の美津がいる。美津だけではない、下の弟や妹もいつの間にか彼女の周りに集まっていた。
年若い娘を前にして、本当の姉様が現れたような心地になっているのだろう。幼子たちは女の内面に潜んだ黒い部分に気づかない。哀れなこととは思うが、年端もいかぬ者たちに安易に知恵を与えれば、いろいろと面倒なことになる。
子供たちの声は高く響き、離れ館の奥の間にも聞こえているのだろう。諍いを起こすことだけは避けて欲しいが、そのことを直接告げるのも気が引ける。
――そう、悪いのはすべてあの者なのだ。すべての原因はあの女にある。
男が中庭に出ると、麻袋を抱えた侍従頭と鉢合わせをした。
「おや、若様。離れ館の御方のお話はお済みですか?」
彼もまた、野良仕事の支度をしていた。皆、揃いも揃ってどうしたのだろうか。
「お前、その荷の中身はなんだ」
訝しげな眼差しを向けられても、波留は落ち着いたものだ。
「ああ、若様はご存じありませんでしたか。本日は表の休耕田で、薬草の種まきをするのです。これはそのための乾燥肥料です」
「……薬草?」
「奥方様が、遠方の村より薬草の苗を取り寄せてくださったのですよ。もちろん、無事根付くかどうか定かではありませんが、試す価値はあるようです」
今初めて聞く話に、彼はにわかに憤りを感じていた。
「なんだ、私になんの断りもなく。勝手な真似は許さんぞ、何様のつもりだ……!」
頭にカッと血が上り、どうにも抑えようがなくなる。男はすぐさま表門から外に飛び出そうとした。
「お待ちくださいませ、若様」
それを制したのは、やはり冷静な侍従頭である。
「畑にはたくさんの村人たちも出ております、皆の前で奥方様を罵ることは避けた方が宜しいかと。それでは若様の評判が悪くなってしまいます。それでは今後、なにかと都合の悪いことになりますから」
「だがっ、波留、」
「私に考えがございます、ですからこの場はいったん、お引きください」
そのように言われたところで、怒りが治まるはずもない。沸々となおも湧いてくるもので、彼の頬が朱に染まった。
侍従頭が行ってしまうと、彼はくるりときびすを返し井戸端へと向かう。すぐに勢いよく水を汲み、自らの頭に浴びせかけた。さらに二杯、三杯と。
「……畜生っ! なんだって、私がこんな目に――」
元服の折、亡き父と共に一度だけ西南の大臣家に上がった。そこで対面した忌々しい面構えを、今でもありありと覚えている。
あいつらは、自分たちを人として扱おうとしない。いつだって、都合良く動かせる駒のようにしか考えていないのだ。
顎から、髪の先から、ぼとぼとと雫が垂れていく。
負けるものか、負けてなるものか。ここで権力に屈しては、自らにもこの村にも未来はない。
侍従頭の策に勝機があるかは知らない。だが、どうにかして今の迷い道から抜け出し、明るい場所に戻らなくては。
<< 前へ 次へ >>
Top>Novel>扉>薄ごろも・13
|