…15…
都にあっては、女子らしさの欠片もないと笑われた肉付きの悪い腕。そこに今は、紅い指の痕が付いている。
そう強く握られたわけではない、痛みもほとんど感じなかった。だがしかし、泥汚れをすべて綺麗に洗い去ったあとも、その痕は消えるどころかさらに色を増したようにも見える。
まるで、すべてが真実であることを知らしめるように。
まさか彼が、あの場に現れるとは思ってもみなかった。しかも植え直しの作業を最後まで手伝ってくれるなんて、今までの言動からは想像もつかない。自分が見た都合のいい夢ではないかと疑ってしまいたくなるが、そうもできない現実が目の前にある。
「咲さま、ただいま戻りました。失礼いたします」
愛らしい声がして、続いて障子戸が開く。頬を紅くした美津が入ってきた。
咲は紅い痕を、慌てて衣の袖で隠す。素早く行ったので、美津はそのことには気づかれずに済んだ。
「良かった、もう衣を改められたのですね。今朝はおふたりで薬草の畑を見に行かれたのですか、本当に仲がよろしくて羨ましいほどです。ご一緒にお食事を召し上がれれば良かったのですが、あいにく隣村まで出かける用事があるとかで着替えもそこそこに出かけてしまいましたね」
娘は嬉しそうに告げると、遅い朝餉の膳を咲の前に差し出した。
「兄上、いつになく優しいお顔をなさってましたよ。最近ではお人が変わったように恐ろしくなってしまったのが、あたしたち弟妹には悲しくて仕方がなかったのです。でも、咲さまがお出でになったのですからもう大丈夫ですね。兄上もきっと、ほどなく以前のように戻るでしょう」
咲は箸を持つ手を止めると、美津の方へ向き直った。
「上の……兄上様がお亡くなりになったのは、確か二月ほど前と聞いたわ。それは突然のことであったの?」
父親が死んだ夕べのことを、咲は思い返していた。もともとあまり丈夫な人ではなかったが、いつものようにちょっと寝付いたと思ったら、そのまま二度と起き上がれぬ身体になってしまった。もちろん家族は皆、必死に看病したがあっけない最期であった。
「ええ、そのとおりです」
美津の声はとても辛そうであった。当時のことを思い出したのだろう、目尻が少し濡れている。
「この里では、冬の冷え込みが強くなる頃に毎年のように流行る病があります。一日中咳が止まらなくなって、最期には体力を使い果たしてしまうようです。先年亡くなった両親も、同じ病でした」
「……そう」
ほんの二月や三月で、悲しみが癒えるはずもない。表向きは明るく快活に過ごしている村人たちの心の奥に潜む傷跡に、自分はもっとしっかりと目を向けなくてはならないだろう。なにも知らないから仕方ないでは済ませられない、向こうから告げられないならこちらから訊ねるまでだ。それが難しくても、察することはできる。
「上の兄上もお可哀想でした。お嫁さまをお迎えして、ようやくこれから落ち着いて、というところで。……華やかな祝言の余韻も冷めやらぬうちの不幸でしたから、皆の落胆ぶりもひとしおでした」
「……お嫁さま? 長兄様には奥方様がいらっしゃったの?」
「ええ、そうです」
それは初めて聞く話であった。だが、順序としては十分にあり得ることでもある。新しく家長となるものであれば、まずは身を固めることが先決。でも婚儀から程なくして夫となった人に先立たれるとは、なんと深い悲しみであったことだろう。
「それで、……その御方はお里にお戻りになったのね?」
咲は都から戻る際の、自分の心情を思い起こしていた。もちろん、初めから勝機があったわけではない。南所の御方のお心に誰が住んでいるかなど、誰の目にも明らかであった。それでも心根のお優しいその方のお側に上がる幸運を少しばかりは願ってしまった数月。そんな自分が惨めで情けなくて、今にも消え入りそうであった。
しかし、美津は咲の言葉にあっさり首を横に振る。
「いいえ、上の兄上のお嫁様は今もこの屋敷にいらっしゃいます。ご存じありませんか、敷地の西にひときわ立派な離れ館がございますでしょう。そちらに留まっていらっしゃいます」
侍従頭の波留が離れ館の御方からの文を携えてやってきたのは、その日の昼下がりのことであった。
「是非に、良きお返事がいただきたいとのお言葉です」
夫となった男は、そのときまだ外出先から戻っていなかった。隣村といっても、山をふたつも越えた向こうにあるという。馬を使っても往復で一日仕事になってしまうらしい。
「わたくし宛に……御文をいただいたのですか?」
「左様にございます」
突然のことに戸惑う咲に対し、波留は悠然と微笑んでいた。仕方なく、差し出されたものに手を伸ばす。
「では……拝見いたします」
その文は美しい桜色の薄様紙に包まれていた。ほころんだばかりの花の一枝も添えられている。同じ屋敷の住人に届けるにしては、かなり凝った趣向である。
折りたたまれているのも、品の良い手漉き和紙であった。近頃では大量生産をするために特殊な薬品を用いて一度に畳一枚分もの大きさの紙を漉く技法もあるが、これは丁寧に昔ながらの職人仕事で作られたものに違いない。
亡き長兄殿の奥方様はたいそう裕福なご実家から嫁がれたのだということが、これだけの情報で確信できた。
さらに文を開くと、上品な墨文字がさらさらと流れるように並んでいる。女子特有の柔らかな筆跡に、教養も高くお美しい方であると推察した。咲も都にあっては他の仲間から代筆を頼まれるほどの筆自慢であったが、この御方には到底敵わない。
文の内容は挨拶が遅れたことへの詫びと祝いの言葉、最後に是非一度お目に掛かりたいという言葉で丁寧に結ばれていた。
「どうでしょう、本日は若様も日暮れまでお戻りになりませんし、早速出かけられては。奥方様におかれましては、姉上様となる御方なのですよ。おふたりが仲良くされることは、若様も望んでおられることでしょう」
「え、ええ……」
自分ひとりの考えで安請け合いしてしまっていいのだろうか。あいにく美津も席を外していて、相談する相手もいない。
「あちらは訪ねてくる者もあまりなく、ひとりお寂しく過ごされています。お歳もそう変わりませんから、良きお話相手になれるのではありませんか?」
半刻ののち、衣を改めた咲は離れ館の前に立っていた。
未だに迷いはあったものの、すでに文はあちらに届けられている。侍従頭からもあれだけ強く勧められ、断る理由は見つからなかった。
――どうしよう……
なるべく控えめにしようと選んだのは鶸色の重ね。喪は明けているとはいえ、良人を亡くして間もない御方なのだ。それをわきまえず、華やかな装いは場の雰囲気にそぐわないと判断した。
この場所は、咲のために用意された奥の対とは敷地内でも端と端に位置している。歩けばたいした距離ではないが、わざわざ足を向けるには躊躇するような独特の間があった。
こちらの庭も、また素晴らしいしつらえになっている。奥の対の前の庭とは対照的に、華やかな大輪の花を咲かせる低木が数多く植えられ、それらが一斉に満開のときを迎えていた。その中を流れる遣り水も、他ではあまり見られないような凝った造りになっている。
「お待たせいたしました、どうぞこちらからお上がりください」
中の様子を確認に行っていた侍従頭の波留が戻ってくる。彼は水桶を手に、咲を招き入れた。
板戸をすべて外した表の間に通されると、その内装の素晴らしさに息を呑む。天井の高さはもちろんのこと、使われている材木もそこに施された彫刻も、かなりの贅を尽くしたものであった。
西南の大臣家や都の竜王御殿で過ごした咲には、本当に良いものを見極める目が育っている。今まであまたの贅沢な場所を訪れてきたが、ここはそのどれと比べても見劣りしない見事なものであった。
高い場所から改めて美しい庭を眺めていると、程なくして渡りの向こうからかすかな衣擦れの音が響いてきた。
「まあ……これは、ようこそ」
その声に咲が慌てて向き直ると、戸口に艶やかな女人が立っている。光の加減で青光りをする赤毛を身丈よりもよほど長く伸ばし、華やかな薄青の重ねをしっとりと着こなしていた。その裾には目のくらみそうな細かい描き文様が施されている。
刺し文様と比べれば格の下がる仕立てであるが、その価値も職人の腕や使われる色粉によってまったく違ってくる。目の前の御方が身につけているのは、すべてにおいて最高級を与えられるに相応しいものであった。お顔立ちも涼やかで気品に満ちあふれている。どこぞのお姫様と言われても納得してしまいそうな風格だ。
「お、お初にお目に掛かります。咲と申します」
床に手をつき頭を垂れる。そのようにすることを誰からか促されずとも、身体が勝手に動いてしまうだけの気迫が感じられた。
「……そう、どうぞおよろしくね」
彼女はちらと咲を見ると、当然のように上座についた。そこには台座があり、肘置きも用意されている。長い髪が河のように板間の上に流れていった。
「都暮らしの戻り女と言うからどんな女子かと思っていたけど、想像した程でもないわね。その地味な衣もとてもお似合い。あなた、元は随分と貧しい暮らしをしていたようね」
なんとも形容しがたい眼差しが、刺すように注がれる。初めは気のせいかとも思ったが、あまりにもあからさまで隠すつもりもない様子だ。
「それで、どうかしら。もうこちらの暮らしには慣れた? 甲斐はあなたに良くしてくれているかしら」
高い場所から次々に声を掛けられると、それだけで臆してしまう。離れ館の御方は小さく縮こまっている咲を、興味深そうに見つめた。
「彼はとても優しいのよね、私のことをとても気遣ってくれるの。あなたがいらしてどうなるかと思ったけれど、なんの心配もなかったわ」
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