TopNovel>薄ごろも・16


…16…

 

 半刻足らずの滞在のうちに、手足の指先がすっかり冷え切ってしまっていた。
  もともと口数は多い方ではないし、このしばらくで相手の顔色ばかりを窺う生活がすっかり定着している。
  話のすべてを自分主導で進めていく女主人は始終満足げに微笑んでいたが、咲はどうにか話を合わせ、相づちを打つだけで精一杯だった。
  そろそろ疲れたので退座すると切り出したのも、当然あちらからであった。すぐにどこからともなく侍従頭が現れ、かいがいしく手を貸している。ふたりが渡りの奥に去ってしまったあと、咲は静かに席を立った。
  不思議なほど、頭の中はすっきりしていた。
  今まで心に引っかかっていたものがすっと溶けてなくなったような、清々しさすら感じる。傾き掛けた日差しに照らし出される庭はそろそろ冷えてきたが、咲は何度も後ろを振り向きながらゆっくり歩いていった。
「……咲さま!」
  すると、あちらから慌てた様子で美津がやってくる。
「驚きました。お部屋にいらっしゃらないので、いったいどこにお出かけになったのかと方々捜してしまいました」
  息を切らしながら目の前までやってくると、彼女は目を見開いて咲を見上げた。
「お顔の色が……優れませんね?」
  思っても見なかった指摘に、咲の方も目を見開く。
「いえ、そのようなことはないわ。きっと長いこと屋内にいたので、そのように見えるのでしょう」
「もしかして、離れ館の御方からお誘いがあったのですか?」
  自分の声が予想よりも大きく響いていたことに気づいた美津は、慌てて口元を抑える。
「……すみません。でも、珍しいこともあるものだと思いまして」
「珍しい?」
「ええ、あちら様はご自分からなにかを働きかけたりしない方ですから。あたしたち弟妹も、未だに満足にお話をさせていただいたこともないのです」
  咲大きな驚きを持ってその言葉を受け止めたが、すぐに返答することは避けた。
  あちらの方は、屋敷の内情も村の様子も事細かに心得ている。館主でありこの一帯の地主である咲の夫の動向はもちろんのこと、何番目の弟妹が今年いくつになることや、末の子が先月三歳になったのでそれを祝って手鞠を贈ったらたいそう喜んだことまで、ひとつひとつの事柄をまるで目の前で見せるように話してくれた。我こそがこの館の女主人であるという自信と風格に満ちあふれてた表情で。
「そう、……きっとお寂しいのでしょうね」
  ひとつの方向から聞いた話だけをうかつに信用してはならないことは、短い都暮らしの中で嫌と言うほど思い知らされた。もともとが田舎育ちだということもあるのだろう、自分には人の言うことをなんでも素直に信じてしまう癖があり、その結果、様々な場面でつじつまの合わない事実に遭遇した。
「……そうなのでしょうか?」
  何気なく後ろを振り返る咲に、美津はまだ訝しげな眼差しを向けている。
「ええ、あちらの方も皆と仲良く過ごしたいと思っていらっしゃるはずよ」
「でも――」
  美津はさらになにかを言いかけたが、そこで口をつぐんでしまった。
「あ、それよりも、咲さま。今、戻りがけに畑の方を回って参りました。苗は思いの外、しっかりとしていましたよ」
「まあ、そうなの。それは良かったわ」
「村の者たちが作ってくれた柵も、とても頑丈なものになりました。あれならば、二度と畑が荒らされることはないでしょう」
  その言葉に、咲は淡く微笑んでみせる。しかし、心内では少し違うことを考えていた。
  ――あれは、獣の仕業ではない、人の手によるものだ……
  たぶん、夫となった男も、それに気づいていたのだろう。だが、そのことを口には出さず、獣避けの柵を造らせることだけを提案した。たぶん、それには彼なりの意図があるのだろう。
  頑丈な柵をこしらえてしまえば、そこを越えて来られるのは人間だけだ。独特の香りと渋みのあるあの苗を好んでついばもうという鳥はいない。彼らが好むのは最後になる実だけだ。もしも再び同じような被害があれば、誰かの仕業であることが誰の目にも知らしめられる。
  先手を打って、敵を制することができるのは、知略に優れた者だけだ。彼には人の上に立つ器量があると咲は判断していた。
「あの草は精も強いし生育もとても早いの。あっという間に育ってしまうから、夏の盛りには収穫が出来ると思うわ。日差しが強ければ強いほど、効力がたっぷり蓄えられるのよ」
「へえ、咲さまはなんでもよくご存じなのですね!」
「いいえ、これは偶然耳にしただけのこと。それほどたいそうなことでもないわ」
  咲としても、このたびのことを自らの手柄にするつもりはなかった。村人たちの生活が今よりも少しだけ裕福になればそれでいい。香辛草を売っていくらかの銭が入れば、それで栄養のある食べ物や良質の薬を手に入れることもできるだろう。
  山中の村を襲う冬の病には確実な特効薬はないが、しっかりと健康な身体を作ることで多少は回避することができる。他にもなにか村が潤う手だてはないかと、咲はすでに次のことを考えていた。

 その日、甲斐が戻ってきたのは、すでに日の落ちた刻限であった。
  しんとした屋敷の中に、にわかに蹄の音が響き、主の帰還を皆に告げる。すると、小さな弟妹たちが我先にと庭に飛び出していった。
  馬からひらりと下りてその歓迎を受ける姿を、咲は遠くからひっそりと眺めていた。
  妻であれば、夫の帰館を誰よりも先に出迎えても良いだろう。だが、それを彼自身が望んでいないこともまたわかっていた。疲れて戻ってきたところに、さらに機嫌を損ねさせるような真似はしたくない。
  手綱を下男に任せ、こちらに歩いてくるその手には一抱えほどの花枝があった。
「お帰りなさいませ、若様」
  不意にふたりの間に、侍従頭が立ちはだかる。彼は礼を尽くして主の出迎えを済ませたあと、晴れやかに顔をほころばせた。
「おお、これは! 離れ館の御方のお好きな花ではありませんか。さすが若様、気が利いていらっしゃいますね。ええ、こちらはすぐに私がお届けいたしましょう」
  波留は主がなにも答えないうちに、花枝のすべてを自分の腕へと受け取ろうとする。
「――待ってくれ」
  そのまま黙って従うのだとばかり思っていた人が、首を大きく横に振る。
「しかし……」
  対する侍従頭はとても信じられないというように主を見つめていた。
  甲斐は花枝の束を大きく広げると、そこからただ一枝だけを抜き取る。そして、なにごともなかったかのように残りを波留に差し出した。
「では、こちらを頼む」
「は、はい。かしこまりました、それではすぐに行って参ります」
  出迎えの皆が見守る中で、少し奇妙なやりとりが終わり、彼はまた自分の住処となっている奥の対へと向かってくる。咲は縁を出ると履き物を履き、外の階段を下りた。
「……お帰りなさいまし」
  土の上に片膝をつき、頭を低く垂れる。そのときには髪が乱れることや衣が汚れることには頓着してはならない。大臣家の館に上がってからの日々、ひととおりの礼儀作法は身につけていた。生まれながらの姫君や全てを心得た館仕えの女人とは一緒にならないが、使用人としては合格点のもらえる仕上がりだと思う。
  しかし、男の方はいつでもそんな咲の行為を見て見ぬふりをしながら通り過ぎるのみ。毎日のように同じ光景を繰り返し、すでに慣れっこになっていた。
「……」
  しかし、その日はどこかが違っていた。
  甲斐はいつまでも咲の前に立ったまま、一歩もそこを動こうとはしない。もしや、使用人たちが足を洗う水桶を準備していなかったのだろうか。そう思って顔を上げると、鼻先に先ほどの花枝が差し出された。
「受け取れ」
  そう言われても、すぐには頷くこともできない。そんな咲の態度に苛立ったのか、甲斐は少し眉を吊り上げた。
「私からの土産が受け取れないのか」
「あ、いえ……」
  慌てて両手を差し出すと、そこへ見事な枝が投げて寄越される。多少乱暴に扱われてもびくともしないほど、蕾も花も枝にしっかりと付いていた。
  この一帯の山に咲く、替わり種の桃花である。香りがことのほか高く、また花びらが紅色に近いほど濃いのが特徴だ。花のあとにつく実は小さくて食用にはならないが、この見事な花を楽しむために山裾では広く栽培されている。
「すぐに着替えを出せ、今日は疲れた……!」
  彼は水しぶきを上げながら足を洗うと、そのまま板間へと駆け上がっていく。その背中が衝立の向こうに消えるまで、一度もこちらを振り向くことはなかった。

 美津を下がらせた寝所で、咲はひとり花器に向かって座っていた。
  今日は早朝から忙しく過ごしていたのに、疲れた身体とは裏腹に気持ちが高ぶって上手く寝付けない。ひとつだけ残した燭台の炎がゆらりと揺れ、咲の頬を明るく照らした。
  甲斐は今夜も宿直の番へと出かけていった、その行く先は言わずと知れた離れ館の御方の元だ。このことは、美津も他の弟妹も知らない、使用人の中にも気づいていない者が多いだろう。
  花枝はなにも知らず、可憐に咲きほころんでいる。
『彼はとても優しいのよね、私のことをとても気遣ってくれるの。あなたがいらしてどうなるかと思ったけれど、なんの心配もなかったわ』
  昼間の御方の声が、耳元で何度も繰り返される。あれはなにを言わんとしていた言葉なのだろうか。それを考えると胸が詰まる。
  自分ひとりでどうにかできることならば、選ぶ手段はある。だが、このたびは西南の大臣様の命でやってきたのだ。そう思えば、軽々しいことはできない。それがわかっているから、途方に暮れるしかなかった。

 

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