TopNovel>薄ごろも・17


…17…

 

 三日三晩は吹き荒れるという春の終わりの嵐は、西南の山間部を広く覆い尽くす。話には聞いていたものの、実際に体感してみるとそれは想像を遙かに超えるものであった。
  この地にやってきて早二月、咲はその瞬間をいつもとは違う村の風景で感じ取っていた。
  天の色が変わり兆候が現れると、人々は家屋の手入れを念入りに始める。雨戸をきっちり閉じ、その上からさらに留め具で固定して戸が外れないようにするのだ。屋根も飛ばされないように縄で押さえ、普段は外に置く道具もすべて納屋に戻す。それと同時に当座の食料も確保しなければならない。どんなに手際よく始めても一日仕事になり、年によってはすべての支度が終わる前に嵐がやってくることもあった。
「あねさま、まっくらになってしまいました」
  夫の末の妹は、不安そうにずっと咲にしがみついている。もちろん、本当に真っ暗闇になってしまったのではなく燭台の灯りはあるのだが、それは気の荒れに合わせて右へ左へと絶え間なくたなびくのでなんとも心許ない。
「やかたがとばされてしまいそうです」
「大丈夫よ、ここはとても頑丈にできているから」
  この幼子は加津(かつ)という名で、生まれ落ちて間もなく両親を次々に亡くしている。その後は乳母に育てられていたが、人見知りが強くなかなか人に懐かないと言われていた。そのような事情もあり、使用人たちもなかなか咲の元へは連れてこなかったが、対面してみると意外にもすぐにうち解けることができた。
  咲の夫となった今の館主は八人兄弟、長兄はこの世にいないが、美津の下にさらに五人の弟妹がいる。美津も初対面のときには七つ八つ程かと思っていたが、来年には裳着を迎えるのだと聞いて驚いた。栄養の行き届かない土地柄にあって、子供たちの生育も今ひとつであるらしい。
  土地の者たちは自分たちの境遇を至極当然のこととして静かに受け止めているが、咲としてはささやかな手が届く範囲のことからでも少しずつ改善していければいいと願っていた。ただ、そうするためにはこの村は貧しすぎる。人々の努力が収穫に結びつかない痩せた土地で、労力ばかりが無駄に消費されていた。
  この春の終わりに訪れる嵐は、せっかく根付いた春の芽吹きを根こそぎさらってしまうという。わずかに残ったものだけが生育を続けることになるのだが、えぐり取られた大地では満足なできばえにはならない。
  ――だが、それでもなにか方法があるはずだ。模索し続けることは決して無駄ではない。
「大丈夫よ、ここはとても頑丈にできているから」
  咲が優しく語りかけると、加津はさらに強く衣を握りしめてきた。小さな手が、必死の想いに白んでいる。そこに浮かんだえくぼに、咲は胸がつうと引かれる気分になった。
  外が荒れているので、皆で同じ部屋に集まっていた。使用人たちも家族のある者は家に戻している。普段よりもさらに人気がなくなり、館は閑散としていた。
  子供たちに囲まれていると、まるで昔に戻ったようである。しっとりとしたぬくもりもあの頃と同じ。家族は今、いったいどこにいるのだろう。どんなに会いたいと願っても叶うことはない、その生死すら知りうる手がかりもないのだ。どうか無事であって欲しいと天に祈るばかりである。
「咲さま、見てください。こんなに進みました」
  美津とその下の妹の麻津(まつ)は組紐作りに夢中になっていた。
  台座の付いた専用の台を使い編んでいくのだが、これが簡単なように見えて難しい。糸を渡す順番を間違えると、そこから先がすべて駄目になってしまうのだ。ふたりはやり方を工夫し、お互いが扱う糸の色を決めて交互に作業をしているらしい。
「まあ、本当。とても綺麗ね」
  この地では農閑期を利用して、色糸を染めているという話を聞いた。仕上がったものを見せてもらうと、なかなかに見事な出来である。ただ、糸のままではどうしても買い叩かれてしまい、安値での取引になってしまっているという。
  さらに詳しく聞くと、奥の山で採れる岩絵の具はとても質の良いものであった。ただ上手に加工する技術を持ち合わせていない。この話を西南の大臣様にお伝えすれば、腕の良い職人を寄越してくれるだろうが、きっとすべてを独り占めされてしまう。それは咲の望むところではなかった。
「でも驚きました、組紐ってもっと難しいものだと思っていましたから」
「ええ、糸の色を変えれば趣も変わるし、色々な発見があるわ。どうせこの荒れでは外に出られないのですから、いろいろ試してみましょう」
  美津の言葉に、咲も微笑んで応えた。
  部屋の反対側では、男の子ふたりが木刀を手に遊んでいる。磨き込まれた床板に影が長く伸びていた。裸足で遠慮なく踏み込むのでかなりの音が出るが、それもまた賑やかで心地良いものである。
  口元に新しい笑みを浮かべ、咲は自分の手仕事を再開した。
  輿入れの際に西南の大臣家から運び込まれた荷の中には、古ぼけた装飾品も多くあった。もともとの品物は良かったのかも知れないが、長い間どこかに忘れ去られていたようでその保存方法もぞんざいであった様子。繋いだ糸はあちらこちらでほころび、とても身につけられる状態ではなかった。
  そのままうち捨ててしまっても良かったのだが、ふと閃いた。どうせそのままでは使い物にならないなら、別のものに生まれ変わらせてみてはどうだろう。幸いにも糸はたっぷり手元にある。これを使わない手はない。
  組紐も飾り輪も、見よう見まねで作り方を覚えたまで。正式に習ったこともなく、技術的にも胸を張れるものではなかった。しかし、素人仕事であることが時として幸いする。誰にでも簡単に習得できる仕事ならば、すぐに土地の者たちに浸透させることが出来るだろう。
  香辛草の栽培を共に行うことで、村人たちとも次第にうち解けていた。大臣家から使わされた得体の知れぬ存在であることは変わりないが、それでも今では道で出会えば挨拶を交わすし、時には立ち話をして交流を深めたりしている。
  屋敷の使用人についても同様であった。腫れ物を触るようなよそよそしさはあるものの、初めの頃と比べれば幾分警戒感が緩んだように思われる。少なくとも、ひとりでぽつんと捨て置かれることはなくなった。夫の弟妹も今ではずいぶん懐いてくれている。
  ひとつひとつのやりとりはささやかであっても、地道に積み重ねることでなにかが少しずつ変わり始める。咲の胸奥には確かに希望の光が差していた。
  ――ただ、ひとつの事柄だけを除いては。
  不意に指先が震え、桜色の珠が板間に落ちる。こつんと鈍い音がしてから、それは予想よりも遠くまで転がっていった。
「……あ……」
  珠の行く先にちょうど居合わせた中の妹の麻津がそれを拾い上げる。珍しそうに燭台の光に照らしながら、こちらに届けてくれた。
「姉さま、兄上はまだお戻りにならないのですか?」
  心細そうに濃緑の瞳が揺れるのを、咲は静かな微笑みで見守っていた。
「ええ、きっと……遅くなられるのでしょう。お戻りは皆が寝静まった頃になるかも知れないわ」
「で、でもっ……外はこんなに荒れがひどいのに。兄上がいなくては、恐ろしくて寝付くこともできません」
  なおも食い下がってくる娘の頬に咲はそっと手を当てた。
「地主様には大切なお務めがあるのだから、わたくしたちはご無事を祈ってお待ちするだけしかできないの。きっと足下も定まらずにたいそうお困りでしょう、でも必ずこちらに戻っていらっしゃるわ」
  ひとつひとつ言葉を選びつつ、咲はちりちりと心が痛むの感じていた。
  ――あの御方は、今宵もこの対にはお戻りにならないのではあるまいか。
  毎晩、夜更けになると当然のように離れ館まで出かけてしまい、そのまま夜明けまで滞在する。本人は宿直だと言うが、真意の程はわからない。自分からは問いただす気にもならなかった。
「でも先ほど、兄上の馬の鳴き声がしました。それならば、もう程なくいらっしゃるのでしょう?」
  幼子の五感の鋭さには時として驚かされる。兄を慕う子らは、その到着に誰よりも敏感だ。
「そうね……」
  この上になんといって答えたらいいものか、咲は苦慮していた。
  甲斐は決して薄情な男ではない。幼い弟妹たちが、慣れない荒れの中で怖がっていることも承知しているはずだ。皆の話によれば、昨年までは今は亡き長兄を含めて兄弟そろって嵐の夜を過ごしていたという。
  彼が戻ってこないのだとしたら、それは自分のせいだ。意にそぐわぬ妻の顔を見るのが嫌で、どうしても足が向かないのではないか。本当にそうだとしたら、この者たちにとても申し訳ない。
「では、わたくしが外の様子を見て参りましょう」
  咲はやりかけの手仕事を盆の上に戻すと、すっと立ち上がった。美津が慌ててあとに続く。
「無理です、咲さま。このような天候に慣れない方が外に出られては、飛ばされてしまいます。それになにかが飛んできて当たったりしたら大事ではありませんか」
「なにをいうの、こんな悪天候の中でも見回りに出ている者たちはいるのよ」
  ほんの気休めにしかならないとも思う。だが、それでも構わなかった。
  誰かに嫌われることなど、たいした苦しみではないと思っていた。大臣様のお屋敷にあっても、都に上がってからも、蹴落とさなくては蹴落とされるような過酷な日常の中で暮らしていたのである。こちらにはその気はなくても恨まれ疎ましがられることも少なくなかった。
  ――なのに、今はこんなに胸が痛い……
「でも、咲さま」
「大丈夫、渡りの向こうを少し覗くだけだから」
  心配する美津に微笑みかけると、咲は出入りのためにひとつだけ開け閉めができるようになっている戸口に手を掛けた。
  すると驚いたことに、こちらがまだ指先に力を入れる前に、独りでにそれが動く。初めは風の仕業かと思ったが、あっという間に鈍い音を立てながら人が通れるほどの隙間が空いた。強い気の流れに、咲の髪が衣が後ろにたなびく。
「……あ……」
「なにをしている、道をふさいで私を閉め出すつもりか」
  嵐はさらに激しさを増していたが、まだ日は暮れていなかった。なにもかもが右へ左へ揺れる中、髪から衣から雫を滴らせた男が立っている。
「早く着替えを出せ、いつまで濡れ鼠の姿でいさせるつもりか」
  彼は素早く部屋の内に入ると、元どおりに戸を閉めた。

 

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