TopNovel>薄ごろも・19


…19…

 

 二本の細竹の間に縄を渡し、そこに摘み取った葉を数枚ずつ差し込んでいく。効率よく薬草を乾燥させるために広く用いられている方法で、これならば少しばかり強い風が吹いても心配ない。
  夏の盛りを迎える頃、香辛草も収穫のときを迎えていた。最初の葉を摘み取れば、そのあとから二番手三番手の新しい芽が次々に出てくる。村人たちは大人も子供も一緒になって、畑と丘を忙しく往復していた。
  皆の表情はとても明るい。それは、先日初めてこの薬草を買い付けに来た行商の者の対応を目の当たりにしたからであろう。
  いくつもの山を越えて炎天下をやってきたその男は、収穫された葉の出来を確かめて目を輝かせる。そして、道中の疲れを吹き飛ばすほどの勢いで、皆が想像もしなかった高値をあっさりと提示したのだった。
  元はといえば、畑を荒らす雑草だと思っていた草である。皆もそのときまでは半信半疑でいたのだろう。
  しかし、今は違う。その行商の男は次回の取引を約束するだけではなく、同業の仲間にも声を掛けてくれると言った。働けば働いただけ暮らしが豊かになる、そんな当たり前のことが村人たちの心に火を付けたのだ。
  春の終わりの荒れた天候にも、香辛草の畑はびくともしなかった。しかも、しっかりと根を張ったその土壌に守られたのか、周辺の田畑も例年ほどの被害もなく生育は今も良好である。
  収穫の最盛期、咲は朝餉もそこそこに作業に加わり、昼の休みを挟んで一日中村人たちと共に汗を流した。無我夢中で働くのは楽しい、余計なことを考える暇もなく、夜になれば心身共にくたくたに疲れ切っている。しとねに横になれば、あっというまに寝入ってしまえた。
  村人に混じって働いているといっても、彼らとの距離が近くなったわけではない。地主の奥方として一目置かれてはいるのは感じるが、やはり腫れ物を触るような微妙な空気がお互いの間に漂っていた。無理もない、自分はどこまでも「大臣家の回し者」として見られているのだから。
  幼き頃に咲が住んでいた村でも、西南の大臣家の執拗な取り立てに苦しんでいた。あの土地は今住んでいる場所ほどは痩せてはいなかったが、それでも自分たちの働きが根こそぎ持って行かれてしまう虚しさは子供心にもしっかりと感じ取っていたように思う。
  疫病が流行しても、治癒のための薬も満足に手に入らない。贅沢品はすべて大臣様の元に差し出さねばならず、細々と暮らす村人には希少な薬など高嶺の花であった。
  それでも、あの頃は良かった。何故なら、はっきりと口には出さないまでも、皆で大臣家への不服を共有することができたのだから。
  ぽつりぽつりと入ってくる情報に寄れば、この土地に対する大臣家の圧力が強くなったのはここ半年ほどのことであるらしい。それまでも周辺の土地と同様に厳しい取り立てはあったが、「目を付けられている」というほどではなかったようである。その証拠に、亡き長兄の奥方であった離れ館の御方は近隣の村の出身であると聞いている。
  まあ、あの大臣様のことだ。適当に目星を付けて、叩いて埃が出ればそれも幸いと考えているのかも知れない。現地の者から見れば迷惑この上ないことであるが、お上の気まぐれにはただ黙って従うほかないのだ。
  ここの村人はもちろん、屋敷の者たちも咲の本当の素性を知らない。夫となった男も、また同様であった。表向きは大臣家重臣の養女となっている、それくらいの身の上がなければ都にあがることは許されなかったのであるから当然だ。
  真実を告げることは、大臣家を欺くことになる。そう思えば、絶対に口を割ることはできなかった。
  今の咲にできる唯一のことといえばただひとつ、この土地の者たちに自力で道を切り開く手助けをすることの他にない。薬草の育て方や加工法を教え、仲買の行商を紹介する。しかし、その後のことについては、まったく関与してはならない。
  村人の暮らしが急に裕福になれば疑念を持たれる可能性もあるが、彼らは今まで通りの生活を変える様子もなく、慎ましやかに過ごしているので心配はなかった。なにより「お目付役」である自分がいることで、大臣家は安心しきっていると思う。これも村人にとっては幸いなことであった。
  この地に足を踏み入れて、咲は多くのことを思い知らされたような気がする。西南の集落はその多くが芳醇な土地で人々は豊かに暮らしているというのが他の集落の者たちに一致した見解であるが、それは正しくない。そして大臣家から管理を任された領主が取り仕切る平地に比べ、山間にある大臣家の直轄地はさらに厳しい状況に置かれているのだ。
  どんなに真面目に誠実に野良仕事に励んでも、過酷な気候には対抗できない。さらに毎年のように疫病が蔓延しては、さらに働き手が少なくなってしまう。
  あら探しをして不正をめざとく見つけるだけでは、直轄地はいつまで経っても裕福にならない。まずは民の暮らしを豊かにしなければ、上がってくる禄も期待できないだろう。
  それがわからないのが中央の者たちだ。皆が頭の中や紙の上で考えたことだけで議論しているのだから、埒があかない。しかも、誰もが自分の利益ばかりを考えているのだ。
  手足を泥だらけにしながら館に戻ると、水桶を抱えた美津が飛び出してきた。
「お帰りなさいませ、咲さま。本日はご一緒できずに申し訳ございません」
「いいのよ、それよりも加津の様子はどう?」
  末の妹が昨晩から熱を出していた。日差しの強いときには館に留まるようにと言い聞かせているのに、お付きの者が目を離した隙に薬草畑までやってきてしまう。そんなことが二度三度と続くうちに、とうとう幼い身体が参ってしまったらしい。
「はい、咲さまが調合してくださった薬草が効いて、ずいぶん楽になってきたようです。ご心配お掛けしました」
  美津の顔にも安堵の色が広がっている。
  咲がここに来るまで、彼女は官職に就いてしまった兄に代わり、幼い弟妹の世話を必死にこなしていた。もちろん、世話役は何人もいるが、やはり肉親のぬくもりには遠く及ばない。この家はもともと家族の絆がとても強かったのだろう。それと同じように所帯を持った使用人たちへの配慮も忘れない。先日の嵐の数日間の対応などをみてもそのことが身をもってわかった。
「それより……咲さまは大丈夫ですか? 昨夜はほとんどお休みにならなかったのでしょう、お顔の色があまりよくありませんね」
「いいえ、そのようなことはないわ。私はもともと丈夫にできているの、少しくらい無理をしても平気よ」
  咲は慌てて美津から顔を背け、何事もなかったかのように手足を洗った。
  確かに、少しばかり疲れが溜まっている。連日の畑仕事は久しぶりであったし、なによりこの炎天下だ。普通にしているつもりでも、ときおり気の遠くなりそうな瞬間がある。
「薬師に頼んで、気付けの薬湯をいただきましょう。咲さまにもしものことがあったら、あたしたちが兄上に叱られてしまいます」
  その言葉に、思わず笑いがこみ上げそうになった。しかし、そのような感情を表に出してはならない。すぐにそう思い直し、気を引き締めた。
  夫となった男は、相変わらずこの対に居着かない。着替えや食事には立ち寄るが、それが済むとすぐにどこかに行ってしまう。そんな彼が、果たして自分の身を案じてくれることなどあるのだろうか。
  心のどこかでこうも考えている。
  もしも自分の身体になんらかの異変が起こり日常生活に支障を来すようになったとする。そのときはいったいどのような処遇を受けるのだろう。大臣家にとっても、役に立たないお目付役など必要ないはずだ。この館の者たちも、厄介者を引き受けるほどの温情はないだろう。
  しかし、そうなったときはそこまでだ。
「……あちらは、今日もずいぶんと賑やかね」
  その気もなしに離れ館の方に目をやる。数日前から館の修理が行われ、多くの職人たちが働いていた。なんでも痛んだ外壁を塗り直し、障子戸なども取り替えるという。侍従頭の波留も、屋敷の主である甲斐も、その対応に追われていた。
「あちら様はお部屋の模様替えがお好きですから。多いときには二月に一度は壁を塗り替えさせています。しかも今回は夏の盛りの作業ですから、職人たちも大変です」
  咲もその言葉にまったくの同感であったが、そのことを口にすることは控えた。
  地主職に就いた夫も、館のすべてを取り仕切る侍従頭も、皆が離れ館の御方には一目置いている。彼女の実家はその村でもとくに裕福な家柄で、何不自由なく育てられた方であるらしい。幾度かは大臣家に輿入れする話も浮上したとかで、それくらい地位も財力もあるということだ。
  お話相手として幾度かあちらに参上しているが、未だに打ち解けることができない。気のせいだろうか、彼女の前に座ると品定めをされているような心地がする。いつ、自分の本当が暴かれてしまうか、それを考えると恐ろしくてならなかった。
「さあ、……そろそろ加津の様子を見に行きましょう。あまりひとりにしては、寂しがるでしょうから」
  その言葉に美津も頷く。
「そうですね。それではあたしは夕餉の支度の様子を見てきますので、よろしくお願いいたします」
  美津が渡りの向こうに見えなくなったあと、咲は小さくひとつ溜息を落としてから部屋に上がった。夏の盛りであるが、対の奥は不思議なほどひんやりとしている。
  昨夜から、加津は咲が普段休んでいるしとねに寝かされていた。体調を崩してからあまりに咲を慕って泣くので、困り果てた侍女が連れてきたのである。その者もこちらの対に留まると申し出てくれたが、今夜は家族の元に戻っていいと暇を出した。
  ――夫の不在が皆に知れては、いろいろと厄介なことになる。
  自分たちが夫婦として成り立っていないことが広く知れては、さまざまな面倒ごとを呼び込むことになってしまう。もちろんそれを恐れて夫をこの対に留まらせようとまでは思わないが、彼の真意もわからぬまま途方に暮れている。
「……あねさま」
  ぐっすり寝入っているとばかり思っていた加津は、咲が枕元までやってくるとぱっちり目を開けた。
「お加減はどう? 辛い思いをさせたわね」
  穏やかな温かさに戻った額に手のひらを置くと、加津はくすぐったそうに目を細めた。
「よかった、あねさまがいらして」
「……え?」
「あねさまがいなくなってしまったら、いや」
  小さな手が咲の衣の袖口を掴む。それは驚くほど強い力だった。
「あちらさまは、あねさまがじゃまだって。じじょたちが」
  咲は大きく目を見開いたが、なんの言葉も口にできなかった。
「でも、いや。あねさまがいなくなるのは、いや」
  その声が必要以上に高く響いたことに慌てて、咲はあたりを見回した。幸い人影はひとつも見えず、その代わりに床の間で一輪の百合の花が白く揺れていた。

 

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