TopNovel>薄ごろも・20


…20…

 

「お暑うございます、お加減はいかがですか?」
  炎天下の畑で汗を流している村人の方から先に声を掛けられ、なんともばつの悪い思いがした。そろそろ秋の風を感じる頃となったが、それでもまだ日の中はうだるような暑さとの戦いである。
  日よけの菅笠越しに見るのは、新しい苗が根付いたばかりの薬草畑。二ヶ月程の収穫期を終えて、掘り起こされたばかりの黒土が目に鮮やかだ。
  不思議なことに薬草を育てたあとの土は他の畑のものと比べてしっとりとして吸水性が高い。そのことに気づいた村人たちの中には、秋の収穫を終えた田畑で冬の農閑期に薬草種をなにか育ててみようかと提案する者も出てきていた。そうすれば、翌春の作付けが例年以上に良くなるのではないかと予想するのだ。
  今まで新しいことに着手するのを躊躇う土地柄だったのに、短期間のうちにすっかり様変わりしている。やはり目の前で成果がはっきり現れれば、重い腰も上がるというものなのだろう。
  ――しかし……。
  彼はさりげない振りで歩みを続ける。そのうちにも額に首筋に汗が次々に流れていく。
  再び背筋を伸ばして遠くまでを見渡していたが、目当ての者はどこにも見当たらなかった。
  ――いったい、どこまで出かけているのやら。
  この一月ほど、妻が日中不在がちになっている。誰にも行く先を告げずにふらりと出かけてしまう様子で、数刻ののちにはなにもなかったように戻ってくるらしい。
  妻の身の回りの世話を買って出ている妹の美津も不思議そうにしているが、他にもいろいろと用事がありひとつのことばかりに構ってはおれないようだ。
  もともとがいてもいなくても変化がないほど大人しい気性の女である。薬草畑の収穫期には村人に混じって作業をしていたが、すっかり馴染んでしまいどこに彼女がいるのかなかなか探し当てられなかった。じっと見れば匂い立つほどの艶やかさがあるのに、彼女はとても器用にその色を隠してしまう。
  自分でも愚かなことをしているのはわかっている。
  他の誰も気にしていないことに己ひとりが引っかかりを感じ、久しぶりに公務のない日にこうして野歩きをしている。
  ――しかし、あまり野放しにしておいては、あとで厄介なことになるかも知れない。
  所詮、余所者は余所者だ。同じ西南の民でありながら、彼女は髪の色も肌の色もこの土地の者たちとはどこか違っている。そしてそのことを、彼は近頃とくに強く感じるようになっていた。
  それにも理由がある。
  いつの頃からだろう、妻が以前にも増して余所余所しい態度を取るようになった。最初の頃から決してうち解けることはなかったが、それでも彼女の方から何かにつけさりげない心遣いがあったような気がする。しかしいつからを境に、彼女の気持ちが固く閉じてこちらに少しも見えなくなっていた。
  こちらとしても、日々を忙しく過ごしているのだから、些細な変化になどなかなか気づけない。正直なところ、しばらくは気のせいかと軽く考えていた。しかし、毎日顔を合わせていれば、それが偶然の産物でないということに気づく。彼はいつか自分の心の中に、密やかな焦りが生まれていることを知った。
  そのようなこと、誰かに告げられるはずもない。
  そもそもこのような事態になるのは当然至極のことだと思える。表向きは当たり前の夫婦のように過ごしているが、自分たちには通い合うなにもない。最初にそうし向けたのは彼の方であったし、妻も異を唱えることはなかった。もしかしたら、あまり深く考えていないのかも知れない。
  畑に出ない日は、村の女子供を集めて手仕事などを教えることもあるそうだが、今日はそのような道具を持ち出したあとはない。それならばどこに。今日こそはその行き先を突き止めてやりたい。
  ――もしや近くに情夫を匿っていて、その者に会いに行っているのではあるまいか。
  ふとそんな想いが頭を横切るとき、彼は自分の胸がカッと熱くなるのを感じていた。強い怒りがこみ上げてくる、夫を持つ身でありながらとんでもない裏切りではないか。決して許されることではない。
  誰かに聞かれたら、笑い飛ばされてしまうような戯れ言ではある。だが、真実を突き止めるまでは油断ができなかった。もちろん、妻の態度になにか隠し事があるようには感じられない。それでも不安があるのは、今まで自分が彼女に対しひどい仕打ちをしてきたことを思い知っているからに他ならない。
  すべては自分が蒔いた種だとは知りながら、行き場のない憤りを持て余している。顎を一筋の汗が伝っていく。彼の歩みがまた早くなった。
「おや、地主様ではありませんか」
  不意に背後から声を掛けられ振り返る。そこには庄屋の主人が立っていた。庄屋といえば村人の中でもとくに裕福な家柄で、代々三役として地主の良き相談役になってくれている。
  すると、相手は嬉しそうに話し出した。
「先日お話のあった水路の件ですが、隣村の役人たちとの合意が取れました。秋の収穫が終わったら、すぐに作業に掛からせていただきます。先方も思いがけない提案だととても喜んでくれました」
「水路……?」
  それまで考え事を続けていたから、頭がすぐにそちらに反応できない。
  なんの話かさっぱりわからずに首をかしげると、庄屋はおやおやと目を見開いて言う。
「どうしました、あまりにも様々な公務がおありで、うっかりお忘れになりましたか。ほら、先だってわたくしに命じられましたでしょう。隣村の者たちとは懇意にしているから、直々に頼んでくれと。水路の話は今までにも何度も出ていましたが、双方の話がかみ合わずに流れてばかりでしたからね。ようやく作業が始められてホッとしてます」
  聞けば、山奥にある大きな湖から竹筒を繋いで水を引いてふたつの村に分けようというのだ。あの場所は一年を通して水が涸れることはないので、もしも水路がきちんと機能すれば、この先の農作業にとても有益になる。
「水路を巡らす経路につきましても、地主様がお考えになったもので進めていく予定です。最初にご提案があったときは何故わざわざ遠回りするのか不思議でしたが……なるほど、高低差を利用できるので水の流れが良くなるのですね」
  彼は黙ったままで相手の話を聞いていた。
  ――違う、その話をしたのは自分ではない。
  すぐにそうは思ったが、不用意に言葉を返すのは避けた。
「わからない」「できない」「知らない」――そのような否定的な言葉を不用意に口にしてはならない。人の上に立つ者は常に堂々と振る舞わなくてはならないのだ。
「そうか、それは良かった」
  もっともらしく頷いてから、さらに頭の中で思いを巡らす。
  農村部では命の要とも言える水源。この土地には細い川があるだけで、夏場の日照りの時期になれば毎年のように干上がってしまう。いくつかの溜め池を造り対処しているが、それでもかなりギリギリの状態だった。
  水路の話はこれまでもたびたび寄り合いの席で提案され、あれこれ審議されていた。だが、実現に至るまでにはいくつもの問題が横たわっている。そういえば、少し前にそのことで侍従頭の波留を呼んで夜更けまで意見を出し合ったことがあった。
「その話をお前に伝えたのは波留か?」
  そのときは今聞いたような具体的な話は上がらなかったが、それから改めて考えをまとめたのかも知れない。
  ようやく話のつじつまが合って、ホッと胸を撫で下ろしかけた。しかし、目の前の男は不思議そうな顔をしている。
「いえ、この話は奥方様から承りました」
「……妻から?」
「左様にございます。先日村の女たちに飾り紐を教えに来てくださった折り、話があると呼ばれました」
  ――あの女が? いったい、どうして……
  戸惑いを顔に出さぬように気をつけながら、甲斐はしばし考える。
  波留と話し合いをしていたのは、奥の対だった。あの者は離れた場所であれこれ片付けていた様子だったが、実はこちらの話に耳をそばだてていたのだろうか。
  盗み聞きとは正直あまり気分の良いことではないが、それよりも彼女が庄屋の主人に話した内容が気になる。素人の思いつきにしてはあまりに具体的であるし、あの者にそれほどの知識があるとも思えない。となれば、どこかに情報を提供した第三者がいるのだろうか。
  ――もしや、大臣家が一枚噛んでいるということはあるまいか……?
  まったくあり得ないことではない。むしろ、その方向で考えるのが妥当と言えよう。
  いったい、彼女はなにを考えているのか。そして、この先どうしようと企んでいるのだろう。
「あなた様は幼少の頃から利発で様々なことに興味をお持ちの方と感服しておりましたが、いつの間にか水路の知識についてもこれほどまでに深く通じておいでとは。この村の将来が楽しみになってまいりました」
  なにも知らない庄屋の主人は、どこまでも上機嫌だ。一方の甲斐は納得のいかない気持ちをやり過ごすのに必死だった。
「では、また話が先に進みましたらご報告に上がります」
  庄屋が行ってしまうと、彼は汗の浮いた額に手を当てた。
  やはり、あの者とは一度きちんと話をしなくてはならない。だいたい、この頃の行動についても一切の説明がないままなのだ。そのことだけを取り出してみても、責められるに当然のことではないか。
  しかし、こちらがなんと言ったところで、適当にかわされてしまう気がする。あの者は歳は自分よりもふたつ三つと若いのに、妙に知恵が付いている。こちらの考えていることなどすべてお見通しだと言わんばかりの眼差しで見つめられると、なんとも落ち着かない気分になった。
  彼女は村人たちが自分をどう見ているかということも、はっきり感じ取っていると思う。ここでの生活はすべての面において窮屈で居心地の悪いものだろう。自分を慕ってくれる者もいるにはいるが、もしものことがあったときには幼子など到底頼りになるはずもない。
  ――里の方に姿が見えないなら、思い切って探す場所を変えた方がいいだろうか。
  短くなった自分の影を踏みしめながら、彼は山の方角へときびすを返した。

 

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