TopNovel>薄ごろも・21


…21…

 

 山裾の森へと足を踏み入れると、それまでのうだるような暑さが嘘のようだ。透き通る蝉の声もどこか涼やかで、汗ばんだ肌に心地よく響き渡る。
  その合唱が一瞬静まったときに聞こえてくる水音。そこここに湧き水のあるこの場所は、足下がぬかるんだ湿地帯になっていた。乾いた土地では見られないシダや苔といった植物がその表面をびっしりと覆っている。
  うなじを撫でるひんやりとした気が遠い記憶を呼び覚ます。まだ幼かった頃、亡き長兄やその仲間たちに連れられて、よくこの場所を訪れていた。着物をぐっしょり濡らして館に戻り、母や侍女にひどく叱られたのも懐かしい思い出だ。
  あの頃の村は今よりもずっと活気があったように思う。そのあとに流行りだした疫病が、なにもかもを奪い去っていったのだ。村人の数は極端に減り、子供たちの元気な声もあまり聞かれなくなった。
  どうしたら、以前のようにこの土地は蘇るのか。両親も長兄もそのことだけを願い、夢半ばで散っていった。彼らの無念さを思うにつけ、甲斐の心には焦りと不安が湧いてくる。
  同じように疫病が猛威をふるい、手の施しようがないままに壊滅状態になってしまった土地のことも聞いている。いつ何時、自分たちも同じ目に遭うか知れないのだ。
  村の存続のことだけで頭がいっぱいなのに、大臣家の差し金でさらなる厄介ごとを抱えてしまった。あの女の存在が、ようやく均衡を保っていた村を地盤から揺るがそうとしている。そのことを知りながら、ただ手をこまねいている訳にはいかない。
  派手な立ち振る舞いはせずに、ひっそりと里の風景に溶け込んでしまいそうな頼りなさがかえって嘘くさい。いったいあの者はなにを企んでいるのだろう。今日こそは、女狐の尾っぽを掴んでやる。
  蔓草の巻き付いた木々の幹を伝い、足首まで水に浸かった状態でどんどん奥へと進んでいく。山に分け入る道はここ一本しかない。あの女は、かならずこの森のどこかにいるはずだ。
  少し歩けば一度森が切れることも知っている。とりあえずはそこまで進んでみようと思った。

 蝉の合唱に包まれていると、自分の現在地がよくわからなくなる。どこまで歩いても同じような風景が続き、心細いことこの上なかった。
  ――確か、この方向で合っていると思うのだけど……。
  咲は一度足を止めると、あたりをゆっくりと見渡した。
  一度森が途切れて明るい場所に出たが、そこを通り抜ければ次は山への入り口となる。この数年は山に人の手が入ることもなく放置されていると聞いたが、まったくそのとおりでこの先は道なき道を進んでいくほかなさそうだ。
「……あっ!」
  急な坂道に足が思うように前に進まない。必死で掴んだ細枝が、パキンと乾いた音を立てた。当然、そのままうつぶせに倒れ込んでしまう。
  肘や膝に湿った土の感触を得て、ふたたび立ち上がろうとする。これくらいのことで音を上げていたら始まらない。ぐずぐずしていたら日が傾いてしまう、とにかくは先を急ごう。そう思って一歩踏み出そうとしたとき、足首に鈍い痛みを覚えた。
  もしや、今転んだときに捻ったのだろうか。きちんと力が入らず、大地を踏みしめることができない。そのままの姿勢を保つことも難しく、とうとうその場所にうずくまってしまった。
  ――きっと、しばらく待てば楽になるはず……。
  しかし、その期待とは裏腹に、痛みがだんだん強くなる。見ると、足首は瞬く間に元の倍くらいに腫れ上がっていた。咲はあまりの情けなさに唇を噛みしめる。冷たい水に浸かれば少しは回復するかと思うが、湧き水のある森まではずいぶんの距離を引き返す必要があった。

「――おい」
  どこからか人の声が聞こえてきたのは、それからだいぶ経ったあとだった。腫れ上がった足首は痛みを通り越して、感覚が麻痺し始めている。夕暮れが近づき、蝉の声もいつの間にか止んでいた。
「そんなところでなにをしている」
  ふたたび、山裾に澄んだ声が響き渡る。
  咲はゆるゆると後ろを振り返った。声の主は菅笠を被り、こちらに大股で近づいてくる。
  ――何故、この人が……。
  心の中でそう呟いたが、声にはならなかった。
「なにをひとりで歩き回っている、外に出るときには供の者を連れて行けと言っているだろう」
  咲がなにも言葉を返さないうちに、彼はあっという間にそばまでやってきた。慌てて腫れた方の足を隠そうとしたが間に合わない。彼はその場にしゃがみ込むと、軽く舌打ちをした。
「まったく……きちんとした支度もなく山に分け入ろうとするからこんなことになるんだ」
  返す言葉も見つからなかった。もちろん、草履履きのままでは無謀であることはわかっている。だが、もしもそれなりの装備を揃えようとすれば、皆が黙っていないだろう。誰かの手暇を煩わせるのは不本意だ、目立たないようこっそりと実行に移したかった。
「歩けないのか」
  これでは、隠しようもない。咲は仕方なく小さく頷いた。
「このまま放っておけば、ますますひどくなるぞ。まずは冷やさないと駄目だろう」
  その言葉に、またひとつ頷く。
「立てるか?」
  咲はハッとして顔を上げた。しかし、またすぐに俯いてしまう。
  支えがあれば立つこともできるかも知れない。だが、片足が言うことをきかないのだから、歩けるかどうかはわからない。
「黙っていたらわからないだろう、このままだと日が暮れるぞ」
「……先に戻ってください。あとは自分ひとりでどうにかします」
  やるべきことはわかっている。どうにかして水場まで戻り、そこで腫れが治まるまで患部を冷やす。そのあとは来た道を戻るまでだ。
「またそんなことを言うのか、相変わらず強情な女だな」
  彼は吐き捨てるように言うと、乱暴に咲を抱き上げた。
「……えっ、なにをなさいます……!」
  そのまま森に向かって歩き出すので、慌ててしまう。
「下ろしてください! 平気です、わたくしはひとりで歩けますから……!」
  甲斐はなにも答えない。こちらから目をそらしたまま、唇を噛みしめていた。いったい、なにを考えているのかもまったく見当がつかない。
  やがて、森の入り口の水場まで戻ってくると、彼は岩場に咲を下ろした。
「しばらくこうして足を漬けておけ、そのうちに少しは楽になるだろう」
  そう言うと、彼も少し離れた岩の上に座った。汚れた腕や足を清水で洗っている。その水音が森の中にやけに大きく響き渡った。揺れる水面をじっと見つめていると、次の問いかけがされた。
「――どうして、こんな山奥までやってきた」
  この質問は必ずされるとわかっていた。別に隠すほどのことでもない、咲は素直に口を開いた。
「以前この山のどこかで染料の元になる質の良い岩が採れたと聞いて、それを探していました」
「……なに?」
「糸染めの材料がそろそろ乏しくなってまいりましたので。もしも自前でどうにかなるなら、わざわざ行商の者から買い求める必要もありませんし」
  それほど山深い場所ではなかったと聞いて、それならば自分ひとりでもどうにかなると判断した。供を頼めば、その者が自分の仕事を中断しなければならなくなる。また、目的のものにたどり着けなかったとき、がっかりさせることになってしまうだろう。
  明日への希望を抱くことは生きる糧になるが、それが打ち砕かれたときの絶望もまた大きい。咲自身、そのことは身にしみてわかっていた。
「土地勘もない余所者が、勝手なことをするんじゃない。お前が勝手にでかければ、屋敷の者が心配するだろう。ましてや夜まで戻らなければ、村人が総出で探しに出なくてはならないのだぞ」
  彼は咲を厳しい目で睨み付けた。
「お前は大臣家からの預かりものだ。もしものことがあったら、お咎めを受けるのは私たちだ。どうしてそれがわからないのだ」
  その言葉はもっともであった。
  わかってはいるのだ、自分は厄介者であり本来ここにいてはいけない存在なのだということを。しかし、だからといって部屋奥に引きこもってなにもせずに時間を潰すのはやりきれなかった。でも彼の言うとおり、そのことがかえって皆の迷惑になってしまうなら元も子もない。
「――染料のことを調べたのか?」
「はい、村の者に古い反物を見せてもらいました。とても美しい発色で、なかなか他では見ないような質の良さでありましたので」
「だが……山から染料を採っていたのは何十年も前の話だろう。今となっては、正確な場所を知るものも少ないはずだ。しかも彼らは皆高齢であるから、今更山に分け入るのは難しいぞ」
  そのことは咲も考えた、だから詳しく訊ねることはせず、詳細は屋敷に残る文献に頼ることにした。
「でも、もしもそれがあれば、この土地が潤う源となるでしょう。探す価値はあると思います」
  そうは言ったものの、あまり自信があるわけではなかった。もしかすると、ほんの気休めにしかならないかも知れない。しかしあの反物を目にしたとき、はやる気持ちを抑えることができなかった。見事に染め上がった糸で作る飾り紐はどんなに見事な仕上がりになるだろう。
「――やはりこの話は、今はあまり広めない方がいいだろうな」
  彼はそう言ったあと、しばらくなにかをじっと考えている様子だった。
「これに懲りたら、今後はひとりで勝手に外出することを控えろ。ただ、どうしても山に入りたければ、私の休みの日に連れてきてやる。それ以外の日は館で大人しくしていろ」
「でも、それでは――」
「わかったな、これは命令だぞ」
  さらさらと夕べの気が森の中を流れていく。水面に落ちた枯れ葉がゆっくりと漂っていくのを咲はじっと見つめていた。

 

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