TopNovel>薄ごろも・22


…22…

 

 その日、ふたりが屋敷にたどり着いたのは、夜がだいぶ更けてからであった。
  冷たい湧き水に浸したことで足の腫れも少しは引いたが、とても自力で歩けるまでには回復しない。それならばひとりでここに留まると言っても、甲斐は頑として受け入れてくれなかった。仕方なく、最後は彼に負ぶわれて長い野道を進むことになる。
「……申し訳ございません」
「うるさい、黙ってろ」
  頼りない天の光の他には足下を照らすなにもない。あたりの草むらからは虫の声が響いていた。未だに昼は蝉の大合唱が聞ける時節なのに、ここにも確実に秋の気配が感じられる。周囲をすっぽりと山に囲まれた土地は、季節の輝きをそのまま閉じこめているようだ。
  その地形が、幸いとなり災いとなる。何事もそうであるように、明るい顔の裏には暗い影が潜んでいるのだ。
「余所者」という言葉が、咲のあとをいつもついて回っていた。その響きにはたとえようのない蔑みが含まれている。だが、余所者であるからこそ、見えてくるものもあるだろう。少なくとも今は自分の「目」を信じていたい。
「――兄上っ! 咲さま……!」
  心配でいてもたってもいられない状態だったのだろう。人里の外れまで、美津が迎えに出てきていた。
「すぐに薬師を呼べ、もしかすると骨が折れているかも知れない」
「わかりました。あと、寝所の支度もして参ります」
  そのやりとりを耳にしながら、咲は自分の額がじっとりと汗ばんでいるのを感じていた。涼しい夜の気に当たっていたのに、何故か全身が火照っている。もう下ろしてくださいと言いたいのに、声が出てこないのだ。
  その後のことは、よく覚えていない。
  しとねに寝かされたあとに足下に幾人もの人の気配を感じ、彼らの話す声がまるで水面のさざめきのように意味をなさずに耳に届いた。
  我が身の自由がきかないほど、もどかしいことはない。身体を痛めることで発熱することもあるとは知っていたが、これほど重いものは生まれて初めてのことだった。

 都に上がってからの生活は、どこか霞がかっていてよく思い出せない。
  その場所は様々な髪の民が入り乱れ、いつも騒然としていたように思う。あまり大勢の人数の中で揉まれることに慣れていない咲は、皆が身につけている衣の煌びやかさに気後れし、嗅いだことのないおしろいや紅の香りに悪酔いした。
  自分に向けられる華やかな微笑みの中に、安堵の色を見る。その色とりどりの瞳には「あなたは私の敵じゃないわね」とはっきり記されていた。
  竜王御殿の南所に仕える女子たちは、皆例外なく次期竜王の最有力候補と言われている御方の寵を争っていた。その御方こそが、西南の大臣様と女人様の間にお生まれになった末の若様だったのである。
  とはいえ、咲がその御方を間近で見ることなどありはしなかった。
  お目覚めからご就寝まで、絶えず女子たちが彼の周りを取り巻いている。日中は東所の竜王様の御許でご公務に就かれるため不在となるが、その間は皆、自分を磨くことに忙しい。中には誰の目にも明らかにわかる仮病を使って、自室である女子寮に戻ってしまう者もいた。
  西南の大臣家での生活も、田舎育ちの咲にとっては雲の上とも思えるものだった。しかし、都のそれはさらに数段高い場所にあるもの。こんなところにいて自分はどうなってしまうのかと、空恐ろしくなった。
  そもそも、殿上人のお側に上がるなど、自分には到底叶うはずもない。最初からそれが身にしみてわかっていたから、それほどの落胆もなかった。多くの女子たちが負の感情に苦しめられている中で、まだ幸せだったのかも知れない。
  細々とした衣類やお道具の手入れを手伝い、毎日を過ごしていたように思う。咲の願いは、早くお暇をいただき故郷に戻ることだけだった。それまでは不安定な人々の中で生きながらえなければならない。
  定期的に故郷から文の届く者たちが本当に羨ましかった。咲は自分の家族がどこにいるのかもわからない。無事に過ごしているのかすら、確かめる手だてがないのだ。
  だが、ここで諦めてしまったら、最後の希望を手放してしまったら、二度と夢にたどり着けなくなる。誰の感情も信じることができない日々を、歯を食いしばって生き抜いた。

 ふっと意識が浮き上がる。瞼を開けると、燭台のほのかな灯りをぼんやりと映した天井が見えた。障子戸越しに、夜の気が渡る音がする。まだ戸を立てる時節ではないため、外の様子が手に取るようにわかった。
  ――まだ夜明け前なのだわ……。
  身体は相変わらずだるく自由がきかなかったが、それでもしとねに押さえつけられるような重さはなくなっていた。よろよろと手を伸ばし額に触れてみる。汗ばんだその場所は、ひんやりとしていた。
  ちり、と額の奥に痛みが走る。
  都にいた頃の夢を見ていた。誰もが同じ顔に見えて、誰にも心を開けず、いつも逃げることばかりを考えていたあの頃の。
  だが、今の咲は知っている。本当の孤独はその先にあったのだということを。
  お役目を果たすこともできず都から舞い戻った咲に対し、大臣家の人々はとても冷たかった。大臣様と女人様の夫婦仲もさらに険悪になっていて、お互いを罵り合う声が館じゅうに響き渡ることも頻繁であった。
  それには咲が都に上がったあとの出来事が関係していたらしいのだが、館にお仕えする侍女たちは皆それを口にしようとはしない。だから、ただただ恐怖ばかりが襲いかかり、昼も夜も心静かになれる場所がなかった。
「戻り女」と呼ばれるようになった咲は、厄介者扱いながらただ人としては破格の待遇を受けていた。大臣家の表に対を与えられ、何人もの侍女をあてがわれる。なんとも居心地の悪いことであったが、しばらくして彼女たちが自分を見張っていることに気づいた。
  一度は大臣様直々に命を受けた者、決して間違った行動など許されない。外出する際もひとりきりというわけにはいかず、自分がどこでなにをしたかは逐一大臣家に報告されていた。
  これでは家族を捜すこともままならない。もしも咲に生き別れの母や弟妹がいると知ったら、大臣様はどうなさるだろうか。手を尽くして見つけ出し再会させてくださるか、あるいは――考えるだけで恐ろしいことだ。
  根無し草のように生きることが辛かった。どこでもいい、自分がしっかりと根付ける場所を見つけたいと思った。身の振り方まで自由にならない立場でも、願うことだけならば自由だろう。
  そんな風にして一月ほどが過ぎた頃、突然大臣様から呼び出しがきた――。
「……?」
  衝立の向こうで、さらっとなにかがめくられる音がする。そのときまで、意識して無駄な動きをしないように心がけていた咲も、思わずよろよろと音の方に顔を向けていた。
「――なんだ、起きていたのか」
  驚きすぎて、すぐには声も出なかった。すると、彼はさらに続ける。
「眩しいなら、灯りを消してもいいぞ」
「あ、いえ……大丈夫です」
  まだ夜明けまでにはだいぶありそうな気がする。こんな時間に彼がここに戻ってくることはないはずだ。しかし、いつから? そもそも、山から戻って今日で何日目なのだろう。
  様々な思いが頭の中を駆け抜けていくうちに、またじわりと疲れが出てきた。
「ずいぶんと声がしっかりしてきたな。少しは加減が良くなったか」
「はい、お陰様で……もう大丈夫です」
  そう告げながらも、ふっと意識が遠のいていく。
  今が初めてではない、熱に浮かされている間にも誰かとこのようなやりとりを続けていた気がする。でもすべては記憶の淵からこぼれ落ち、確かなものはなにも残っていなかった。

 次の日からはしとねの上に起き上がれるようになった。
  すると、いつでも枕元に美津がぴったりと寄り添っている。はじめは数時間で席を外すのかと思っていたが、彼女はあれこれと咲の世話を焼いたり話しかけたりしながら、一向に立ち上がる気配がない。
  不思議に思って訊ねると、美津は少し拗ねたように言った。
「私はここで咲さまを見張っているのです。少し楽になったからといって、無茶をされては困ります。薬師様も仰いました、骨がしっかりと元どおりになるまでは養生しなければと。もしも、あたしが席を外すときには妹たちを代わりに座らせます」
  なんと念入りなことか。そして、その言葉はしっかり実行に移された。
  食事の膳を運ぶために美津が退座する際には、麻津と加津がやってきてちょこんと座る。必死にお役目を果たそうとしている表情に、知らず笑みがこぼれた。
  ――このようなお目付役なら大歓迎だわ……。
  咲が動けないでいる間、皆が奥の対へと足を運んでくれた。侍従頭の波留も離れ館の御方からの見舞いの品を届けに来る。
「お元気になられましたら、またお出でくださいとのことです」
  美しく生けられた秋の花は少し香りがきつかったが、退屈な毎日に色を添えてくれた。
  あちらとしても様々に思うところはあるのだろう、しかしこうして静かな友好関係を続けてくれる。本当に有り難い限りだと思う。
  いつまでも病人のようにしていては駄目だと思うが、美津の言うとおり治りきらないうちに無理をしてはあとからかえって皆に迷惑をかけることになるだろう。気持ちは焦るばかりだが、ここは静かに時の過ぎるのを待つしかない。
  障子戸を開け放ってもらうと、中庭の趣はだいぶ変わっていた。ほんの半月の間に秋草が咲き乱れ、その細く繊細な身を気に揺らしている。
「今、帰ったぞ」
  表の方でことんと音がする。すぐさま美津が立ち上がり、水桶を持って出迎えた。
  彼はいつになくせわしない様子で、そそくさと部屋に上がってくる。そして、咲のしとねの上に、匂い袋ほどの小さな麻袋を投げてよこした。
「まあっ、兄上。咲さまは怪我をなさってるのに……乱暴なことはお止めください」
  あとからやってきた美津が非難の声を上げたが、彼はなにも話さない。
  咲はその袋を拾い上げると、そっと中を開けてみた。
「……これは」
  指の先ほどの岩がいくつか入っている。そのひと粒をつまみ上げて、咲は息を留めた。
「ずいぶん奥まった場所だったぞ、女子の足では到底無理だ」
  彼はそれだけ言うと、着替えのために部屋を出て行った。

 

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