TopNovel>薄ごろも・23


…23…

 

 新しい水路造りは、秋の収穫を終えたあとに始まった。
  例年よりも田畑の実りが良かったためか、村人たちの表情は一様に明るい。こんな生き生きとした彼らを見るのは久しぶりで、こちらまで嬉しくなってきた。
「おはようございます、お嬢様。本日も良い日和ですね」
  特に足腰の丈夫な若者たちが集められ、今日は山の手入れも行われるという。熊手や斧などの道具を手に通り過ぎていく者たちを、晴れやかな心地で見守る。
  なにが急に変わったということはない。作物があらかた刈り取られた農村の風景も去年とそれほど変わらない。だが確実に、人々の心が塗り替えられている。自分たちの力で少しでも良い方向に変えていこうという心意気が、彼らの力強い言動からうかがえた。

 物心ついた頃から、どこかよどんだ重々しい雰囲気に包まれていたように思う。もちろん、周囲の皆は美津たちのことを温かく大切に見守ってくれた。しかしそのことを心苦しく思うほど、この土地は追い詰められていたのである。
  寒さが厳しくなる頃に毎年決まって村に蔓延するようになった疫病は、まずは幼い子供や身体の弱った老人たちの命を次々に奪っていった。毎日のように一緒に遊んでいたはずの村の子が、ある日を境にぱったりと姿を見せなくなる。どうしたのだろうと思っているうちに、その子が命を落としたことを人づてに聞いた。
  まるで枯れ木から木の葉が散るように、人の命が消えていく。はじめは恐ろしく悲しく思った。だが、何度も何度も同じような場面に遭遇しているうちに、いつの間にか涙を流すことすら忘れてしまったような気がする。
  両親が相次いで亡くなったときも、美津は一粒の涙も流すことが出来なくなっていた。泣きじゃくる弟や妹を抱きかかえながら、これからどのように生きていけばいいのかとその不安の方が遙かに大きかったように思う。
  暗い顔など出来るはずもなかった、いつでも明るく振る舞おうと心がけた。しかし、本当の春は果てしなく遠かったのである。
  必死に生きているうちに、両親の声もぬくもりも遠くなってしまった。夢の中でだけでも甘えてみたいと思うのに、一度も現れてくれない。どうしてなのだろう、亡くなったあのときに泣くことの出来なかった自分を嫌っているのだろうか。美津はひとり隠れて悲しみに暮れ、その感情を心の奥に押し込めた。
  跡目となった上の兄上の婚礼は、久しぶりに明るい出来事であったように思う。近隣の村から嫁いで来たその方は、裕福な実家を持つだけあって輿入れにあってはかなりの御衣装やお道具をお持ちになった。使用人もたくさんお連れになり、奥の対は連日とても賑やかで華やいだ雰囲気であった。
  しかし、美津は義理の姉上となったその御方とどうしてもうち解けることが出来ないでいた。どうにかして仲良くしていただきたいと思うが、直接お話がしたくても侍女たちが取り次いでくれない。季節の花を摘んでお届けしても、通り一遍の礼が返ってくるのみであった。
  館の侍女たちの噂によれば、お出でになったお嫁様は本来ならば大臣家へ上がるお立場にあったのだという。幼い頃からそのように育てられ、いざそのときがきたら大臣家側から待ったが掛かったらしい。頃合いが悪いだけでいずれはと言われたが、待ち望んだ話を不意にされたことで腹を立てたご実家はあれこれと理由を付けてご辞退申し上げてしまったのだとか。
  もちろん、大臣家に上がるならばお輿入れ先があるわけではなく表向きは使用人である。だが、好色で知られる一族であるから運が良ければお手がつき側女となれるかも知れないと踏んでいたのだろう。多くの女性たちの中で寵を争うなど美津からみたらとても悲しいことであったが、それを良しとする御方も確かに存在するのである。
  大臣家と直轄地の地主ではそもそも立場が天と地ほど違う。意に反してただ人の妻となってしまった御方の嘆きは相当なものがあったのだろう。
  折に触れて高価な贈り物はくださるが、その頃には美津も気づいていた。自分たちが欲しかったのは、新しい家族ではないか。こんな他人行儀な関係を続けていては、なにも始まらない。
  その後、不幸にも上の兄上までが亡くなってしまったが、離れの館に移られたその御方がお声を掛けるのは次の跡目に決まった次兄のみであった。美津もどうにかしてお側に上がりお慰めをしたいと思うが、その機会はなかなか訪れないまま日々は過ぎていく。
  そのうちに長く厳しい冬が過ぎ、大地は芽吹きの季節を迎えていた。新しい輝きと共にこの地に降り立ったのが、天女とも見紛うお美し過ぎる御方だったのだ。

「咲さま、こちらにお出ででしたか」
  屋敷のどこを探しても姿が見えないのには肝を冷やした。おひとりで山に入られて大怪我をなさってからはご本人も無謀な行動は慎んでくださっている。それならばどこにと方々を探し回り、ようやく見つけたのが屋敷の裏山であった。
  山と呼んではいるが、ここは小高い丘のような場所である。なだらかな坂道を少し進めば現れる広々とした更地で、崖の淵にはぐるりと木々が植えられていた。
  なにもなかった場所には今、竹竿が張り巡らされ、染色を終えた糸や布が掛かっている。重い荷物を持って長い道のりを歩くのは骨が折れるので、急ごしらえの竈を元からあった井戸の隣に設置した。
  咲さまの話によれば、これからの気の乾いた季節が染め物を乾かすには都合がいいとのこと。組紐の材料となる絹糸は艶やかに染まり、色とりどりに仕上がっている。
  染め粉の元となる岩が採れる場所を次兄が探し当て、その後は村人の中から体力のある者を選び、何度もその場所に分け入っていた。しかしどうにも道が険しいので、このたびの山掃除となったのである。
  長い間荒れ果ててはいたが、元のとおりに綺麗に山道が整備されれば女子供でも山菜採りに入れるようになるだろう。良質の茅も多く手にはいるから、それで村人たちは屋根を葺いたり焚き付けにしたりできる。
  それらの副産物はもちろん、やはり素晴らしいのはこの染め物たちだろう。この土地で生まれ育ちながら、このような鉱物が山に眠っていたとは知らなかった。原料となる岩は、その採掘場所により朱や藍、また翠と様々な色味があり、それらを調合することでさらに多くの色が生まれる。
  この作業は何度手がけても飽きることがなく、村の女たちも競って手伝いを申し出ているほどだ。若い頃は機織りの腕自慢を誇っていたある老婆は十数年ぶりに手織り機の前に座り、織り上げたその布を染めて欲しいと持ち込んでくる。
  その反物の素晴らしさに他の女子たちも目を見張り、その後は老婆が村の若い娘たちに織物を教える師匠になってしまったのだ。今では曲がっていたはずの腰もしゃんと伸び、別人のように生き生きとしている。
  なにかをきっかけに、人は内側から突き動かされていく。
  そのことを最初に教えてくれたのは、香辛草の作付けだったと思う。今では薬草の種類も増え、荒れ地がどんどん開墾されている。
「こちらで作業をなさるなら、ひと声掛けてくださればよろしかったのに。おひとりでは大変でしたでしょう?」
「いいえ、今日はそれほど量も多くないから、誰かを頼むまでもなかったの。そろそろ片付けに入るところよ」
  そう言って微笑むお姿は、人里離れて凛と咲く山百合のよう。怪我をなさったあとからはあまり里に下りることもなくなり、屋敷の中でひっそりお過ごしになることが増えていた。大きく広げた薬草畑は村人たちに任せ、ご本人は屋敷の隅で新しい品種の苗作りをなさっている。
  皆の前に進んでお姿を見せなくなったことで、村人たちは寂しがり、その理由をあれこれと推測しようとする。その中でもとりわけ多く囁かれているのは「ご懐妊ではないか」という言葉であった。
  咲さまが次兄の元にお輿入れをなさってから、すでに半年以上が過ぎている。なかなか吉報が聞けないことに、皆は気を揉んでいるのだろう。
  とはいえ、赤さまは天からの授かり物でもあるから、あまり強く言い立てても良くないという。それで皆は直接ご本人には訊ねられず、美津や屋敷の使用人たちに探りを入れてくるのだ。
  もちろん、美津としても新しい命の誕生はとても待ち遠しい。末の妹の加津はまだ三つ、これからお生まれになる赤さまとは兄弟のように育つことができるだろう。
  自分はすでに月のものを迎え、来春には裳着を迎える。そうなれば遠くない将来、どこかに嫁いでいくことになるはずだ。
  少し前までは、そのような考えに至ることはなかった。自分は両親に代わって弟妹を守っていかなくてはならない。新しく地主となられた次兄がこの土地を守っていくなら、家を守るのが自分の使命だと考えていた。
  だが、今は違う。咲さまがいてくだされば、この村も屋敷の皆も安心して暮らしていける。そう信じられるからこそ、初めて自分の幸せを掴んでみたくなったのだ。生涯寄り添うその相手がどこにいるのか、今の美津にはまだ知るよしもないが、それでももしもその方に出会うことが出来たなら、次兄と咲さまのようなふたりになりたいと願っている。
  美津は知っていた、次兄はどこにいても常に咲さまのことを気に掛けている。少しでも姿が見えないと慌てて探し回るし、遠出をされても必ずその日のうちにお戻りになった。出先で手に入れた草木の花を大切に持ち帰り、こっそりお渡しになっている。わざわざ誰にも見つからないように袂の中に隠していることもあり、あとから衣を手入れすると袖からたくさんの花びらがこぼれてくることもあった。
  上の兄上が身罷られてから、次兄は人が変わったように恐ろしく頑なになってしまった。それまでの気の良い優しい気性がなりを潜め、いつもピリピリと緊張なさっていたように思う。いきなり両肩にのし掛かった重圧に押しつぶされないようにと気負っていらっしゃったのだろう。
  それが近頃では、昔の兄上が戻ってきたようで嬉しくてならない。咲さまは不思議な御方だ、どんなに凍り付いた心もあっという間に溶かしてしまう。そしてその場所に、新たな生きる勇気を植え付けてくれるのだ。まるで、開墾したばかりの荒れ野に薬草がしっかり根付くように。
「この布は、辻の婆さまが手がけたのですか? 他のものとは目の綺麗さが全然違いますね」
  目の覚めるような朱色の布に心が奪われる。美しいものを見て心から感激することも、長いこと忘れていたような気がした。
「その反物で、あなたの晴れ着を作ろうと思っているの。専用の薬品でところどころ色を抜けば、きっと見事に仕上がるわ」
「……え?」
「あまり手の込んだことは出来ないけれど、次の正月はあなたにとって特別ですものね。祝いの席に相応しい衣装に仕上げたいと思うわ。そうそう、晴れ着の仕立ても教えましょうね。いつか必ず役に立つから」
  季節は秋から冬へ、足早に過ぎようとしている。だが、今年の冬はきっと辛くはない。美津は心からそう信じることが出来た。

 

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