TopNovel>薄ごろも・24


…24…

 

 パチン、と甲高い音が天井の高い広間に響き渡った。
「――奥の対は、その後どのようなご様子?」
  切り出された花枝を、水盤の手前に挿す。いつもながら迷いのない、眩しいほどの手つきだ。
  この季節にはなかなか手に入らない赤い花は、南方の村よりわざわざ取り寄せたものだという。咲きほころんだばかりの花弁が涼しげな香りを漂わせている。
「お陰様で、息災に過ごしているようです」
「あらあら、……相変わらず他人行儀なこと」
  目の前の女人は手元から顔を上げると、乾いた笑い声を立てた。
「やはり荷が重すぎたのかしらねえ、大臣様が直々に寄越した奥方様は。あなたも、ずいぶんと気詰まりなのではなくて?」
  好奇に満ちた瞳は、同意の言葉だけを求めていた。
  この御方はとてもわかりやすい。その表情や態度から、考えていることが手に取るように感じ取れる。
  普段ならば、苦笑いなどをしてその場を収めたのだろう。しかし、今日の甲斐は少し違った。
「……義姉上、頭痛が治まらないので、本日はこれで失礼いたします」
  眉間に手を当てながら俯くと、女人は驚いたように腰を浮かせた。
「まあっ、それは大変ね。すぐに薬湯を運ばせましょう、西方から希少な品が手に入ったの。それを飲めばすぐに良くなるわ」
「いえ、ご心配には及びません。少し横になれば、すぐに回復すると思います」
  そう言って頭を下げて礼を尽くすと、女人は再び敷物に座り直した。そしてしどけなく肘置きに身体を預ける。いつの間に新調したのだろう、今日の上掛けも今までに見たことのない一枚だ。
「そう? それならば良いのだけど……甲斐、あなたは働き過ぎなのよ。例年だったら今は暇な時期なのに、水路や鉱山のことで毎日のように出かけているでしょう。もう少しゆっくり休んだ方がいいわ」
「もったいないお心遣い、感謝いたします」
  甲斐はもう一度頭を下げると、さっと立ち上がった。
「それでは、今宵はこれで」
  何度同じ内容を聞いたかわからない長話に付き合っているうちに、外はすっかり日が暮れている。
  離れ館を出て少し歩くと、後ろからもうひとりの足音が追いかけてきた。
「……若様!」
「どうした、波留」
  甲斐は足を止めると、面倒くさそうに振り返る。
「どうした、ではございません。今宵もあちらの宿直をなさらないとはどういうことです。これで三日続けてではありませんか」
「私は疲れているのだ、横になってゆっくりと休みたい」
「それでしたら、あちらにしとねの準備をしても構いません。さあ、早くお戻りくださいませ」
  執拗に引き留められることに辟易し、甲斐は吐き捨てるように言った。
「寝床の準備ならば、すでに奥の対にできている。私は自分の居住まいに戻るだけだ」
「またそのようなことを……あちらの御方がどんなにお嘆きになることでしょう。夫君を亡くされた痛手から未だ立ち直っていらっしゃらないのですよ、おいたわしい限りではございませんか」
  しかし、侍従はさらに食い下がってくる。その眼差しには有無を言わせぬものがあった。
「若様が、ここまで非情な御方とは存じ上げませんでした。お優しい、心映えの優れた主様だとばかり思っておりましたのに……」
  今までの甲斐であったら、この言葉に流されていたかも知れない。父の代からこの家に仕えてきた波留は今となっては唯一無二の存在である。彼は正しいことしか言わないし、道を違えそうになったときもすぐに戒めてくれた。
「奥の対には、美津様たちがお出でになって賑やかなご様子ですよ。騒がしい女所帯では、気が休まるところがありませんでしょう。それにくらべ、御方の館の風流なことといったら」
「……あちらにも、それよりも大勢の侍女が住まっているではないか」
  そろそろ、言葉を返すのも億劫になってきた。
  離れの館の宿直も、元はといえばこの侍従の申し出であった。波留は義姉と同郷の出身である。長兄が亡くなり、心細く過ごしている義姉のために力になって欲しいと言われたのだ。
  甲斐も根が真面目なたちであったから、言われたことを素直に実行してきた。奥の対に妻を迎えた折りにはその役目も終わるかと思ったのだが、なんとも気詰まりな初夜に気が変わってしまった。波留や義姉はそんな彼のことを諫めるどころか、歓迎しているようにも見える。
  宿直では柱にもたれかかって眠ることしかできず、少しも休んだ気がしないままに次の朝を迎えていた。
  なんとなく始めたことであるから、終わりにするきっかけが掴めない。
  しかし、このままずるずる続けているのも良くないだろうと考え始めていた。
  会話を打ち切ってさっさと歩き出そうとした甲斐に、波留は思い詰めたような表情で言った。
「若様は……亡き兄上様が最後に仰ったお言葉をお忘れになりましたか。そんな薄情者に、大切な領地を任せることはできません」 
「それは……」
  少し前までの自分だったら、思い違いを恥じて目の前の侍従に詫びていただろう。だが、何故かこの頃はこの者の背後に歪んだ歯車が見え隠れするようになっていた。
  ――なにかが違う、なにかがおかしい。
  すべてが正しいと思っていた実直な侍従の言葉に、どこか引っかかりを覚えてしまう。近頃では領地内の有力者とも膝をつき合わせて話す機会が増え、もっと広い視野で物事を見て行かなくてはいけないと思うようになっていた。
  兄の影になり終えるはずだった一生が、不幸な偶然からいきなり表舞台に押し出されることになった。戸惑うばかりであったこの一年、しかしようやく自分の足の裏がしっかりと地面に着いたような気がする。
「わかりました、今日のところはあちらを上手に取りなしておきましょう。早く体調を整えていただきたく思います」
  含みを持たせた言葉を残し、侍従が離れ館へと戻っていく。その背中を眺めながら、甲斐は長兄の臨終を思い出していた。
  ――この家を、我が妻を、よろしく頼む。どうか、皆をしっかり守っておくれ。
  あのとき、彼の脳裏にはどんな未来が描かれていたのだろう。それはあの場に居合わせた、ほとんどの者が胸に思い浮かべたのと同じ情景だと思う。……しかし。
  足下には、咲き遅れの秋草が寒そうに縮こまっている。甲斐はそれを摘み取ると、先を急いだ。

 無駄なものがひとつもない奥の対は、今夜もすっきりと片付いていた。
  あれこれと並べ立てて飾り立てるよりも、この方が上品に思えるのが不思議である。妹たちが戻ってしまった部屋は、衣擦れの些細な音すら聞こえるほどに静まりかえっていた。
  妻は板間の奥で縫い物をしていた。最近はいつでも針を動かしているように思う。見るたびに手にしている布の色が違うが、鮮やかな手さばきは変わらない。山奥から切り出した材料で染め付けたと思われる鮮やかな布地は、燭台の炎にキラキラと輝いていた。
  もともと大人しいたちだとは思っていたが、いつの頃からか妻は己の存在すらも消してしまうほどにひっそりとしてしまった。初めのうちはこちらにうち解けようとあれこれ努力してくれているようにも思えたが、そのような態度もすっかりなりを潜めている。
「――そろそろ、休むぞ」
  なるべくさりげない口調で告げてみる。その言葉に特別の意味合いを探してしまう自分が、気恥ずかしくてならなかった。妻は手を止めて顔を上げる。
「左様でございますか。おしとねの準備はできております、ごゆっくりお休みくださいませ」
  それだけ告げると、彼女はまた縫い物を再開した。
  余計な詮索など、する気もないようだ。たまにこちらで休む日にも「宿直にお出でにならないのですか?」などと訊ねてくることもない。まるでこちらの行動になど、少しも興味がないように思えて、それがひどく気に入らない。
「お前の方は、毎晩ずいぶん遅くまで起きているようではないか。あまり根を詰めると、今に身体を壊すぞ」
  妻は再び顔を上げる。その表情にはいくらかの驚きの色が見えた。
「いえ……、わたくしは頑丈にできておりますので、ご心配には及びません」
  そう告げた口元が、少しだけほころんだように見えた。彼女の背後には先ほど摘み取ってきた薄紫の花が生けられている。
「なにが頑丈だ、そんな細い身体をして。いつまでも貧相ななりをしていては、いい笑いものだ。地主の館では奥方になにを食わせているのかと陰口をたたかれるぞ」
  その言葉が意外だったのか、妻は大きく目を見開いた。それから、改めて衣の袖から出た自分の腕を確かめている。
「それは、……申し訳ございません。きちんと食事を取っても肉がつかないのは血筋でありましょう、母もとても線の細い人でしたから」
  刹那、たとえようのない気が彼女を包み込む。潤んだ瞳が、涙を我慢しているようにも見えた。
「そ、そうか……大事がないならそれでいいのだが」
  急に落ち着かない気持ちになる。
  家族の話がでたのは、初めてのことだ。だから不思議な心地がしたのだろう。
「そういえば、お前の家族はどこにいるのだ。文のやりとりもないとは、薄情なことだな」
  妻にも両親や家族がいる、考えてみれば当然のことだ。
  しかし今まで彼女宛に届いたのは、大臣家からの文のみだ。それもあまり頻繁なものではなくこの半年で片手に余るほどであった。
  妻は針を持つ手を止めると、なにか探し物でもあるのかこちらに背を向けた。
「……便りのないのはよい便り、とも申しますので」
  さりげない動きに合わせて、美しい髪がさらさらと流れる。
  それほど頻繁に手入れをしているようにも見えないが、いつもこざっぱりと清潔感を保っている。あれこれ飾り立てなくても、彼女の内面から美しさがにじみ出ているようだ。
  山からの帰り道、抱き上げたときの匂い立つような香りとあまりにも頼りなげであった身体を思い出す。そういうことは、この頃では日に何度もあった。そのたびに、甲斐の身体の奥が鈍く痛む。
  世間に許された仲でありながら、妻はあまりに遠い。最初の頃に冷たく接してしまったことが災いしてか、いつまでもうち解けることができないでいる。
  ――こちらから誘いかければいいのか、だがしかし……
  そのときの妻の反応を思うと、どうしても臆病になってしまう。彼女は甲斐にとって、崖の上に咲く花の如く遠かった。

 

<< 前へ     次へ >>


TopNovel>薄ごろも・24