TopNovel>薄ごろも・25


…25…

 

 「己にとって一番大切なものを見誤ってはならない」
  それが亡き長兄の口癖であった。
  彼はとても寡黙で穏和な性格であり、自分と年の差が三歳しかないようにはとても見えないほど落ち着いている。いつまでもどこまでもこの御方には敵うまい、そう心に刻んで生きながらえてきた。
  耳に残るその言葉は、今となっては彼の遺言にも聞こえる。
  なにかにすがってしまいたくなったとき、必ずその言葉を思い出して、突き放されたような心地になる。すべては自分の心で判断しなくてはならない。それを見誤った自分だからこそ、苦しみ続けなければならないのだ。
  離れ館を退座したとき、追いかけてきた波留の厳しい表情が忘れられない。
  彼もまた「己にとって一番大切なもの」をしっかりと持っている人物であった。だからこそ、一時も心を揺るがせることなく、真っ直ぐに信じ続けることができるのであろう。
  あの者の心を曲げるのは不可能だ。だからといって、今までのように巻き取られているばかりでは駄目だ。
  自分には見えないものが彼には見える、しかし彼には見えないものが自分には見えることもある。
  どうしてそのことに、もっと早く気づかなかったのだろうか。
  いや、違う。本当は知っていたのだ。自分の真心がしっかりと受け止めていたものを、素知らぬふりをして通り過ぎようとしていた。諍いを起こすのはよくない、彼の言うことはすべて正しいと信じ込もうとして。
  今、長兄は遠き天上より、この地をどのような心地で眺めているのだろうか。

 師走に入ったからだろうか。館の使用人たちも田畑に出る農民たちも、その立ち振る舞いがどこか気ぜわしく感じる。しかしそれは、決して心地悪いものではなかった。
  新しい年を迎えるにあたり、あれこれと準備をする。そこまで心が配れるようになったのは、喜ぶべきことであった。毎年猛威をふるっていた流行病が、今年はこの地を避けているようにすら思う。
  秋の実りは例年にないほどの豊作で、さらに水路の整備が進んで来春の作付けに明るい希望が生まれている。人々の表情はとみに明るい。新春に裳着を迎えることになった美津の元にも、次々と祝いの品が運び込まれていた。
「ここまで楽な生活ができるようになったのも、すべては地主様のお陰です」
  異口同音にそう言われても、まったく実感が湧かなかった。
  あの長兄のようになれるはずもない、だが他に頼る者がないなら己が足で立ち上がるしかない。悲痛な思いを胸に再起を誓った春浅いあの日から、随分と長い時間が過ぎてしまった気がする。
  妻の針仕事も一区切りがついたらしい。仕上がった衣はすべて行李に収め、道具もすべて片付けてしまっている。今は馴染みになった村の家々を周り、請われるままに手仕事を教えたり、相談相手になったりしているらしい。
  つい今し方までそこに座っていたかと思うと、もうどこかに消えている。慌てて探し回るのだが、大抵はすぐに目につくところで細々とした用事を片付けていた。枯れ草の片付けなど、一声掛けてくれれば手伝ってやってもいいのに、妻はそれを望まない。
  こちらから話しかければ返事はするが、自分からはなにか働きかけてきたりしない。始めの頃からそうであったはずなのに、何故かとてももどかしく物足りない心地がしていた。
  だから、つい強い口調で詰問のように話しかけてしまう。しかし、どんな荒々しい言葉を投げかけられようと妻は動じず、普段どおりに慎ましやかに対応した。
「咲さまは、どこかお加減が悪いのでしょうか?」
  あるとき、美津が神妙な面持ちで訊ねてきた。気にしていたのは自分だけではない、それがわかっただけでも幸いであるが、事態が好転することはなかった。

 夜半にふと目が覚める。妙な胸騒ぎがして起き上がり隣を見れば、妻は静かに寝息を立てていた。天の輝きが部屋の奥まで忍び込み、白い頬を浮かび上がらせる。固く閉じた瞳では、なんの表情も探し当てられなかった。
  ――お前は今、幸せなのか?
  もの言わぬ寝顔に、心の中で訊ねてみる。返事が戻ってくるわけもない。しかし訊ねずにはいられなかった。
  こうしてしとねを並べてみても、なんの変化があるわけではない。離れ館の方では、あれこれ騒ぎ立てている様子だが、それすらも他人事のように思えた。
  一度凍り付いてしまった関係は、そう簡単には改善しない。すべては遅すぎるのか。どうにか心を引き出そうとあれこれ言葉を繋いでも、見えない壁でさっと避けられてしまう。柔らかな物腰の彼女だからこそ、そのあからさまな態度に有無を言わせぬものを感じる。
「己にとって一番大切なものを見誤ってはならない」
  長兄の言葉が、ふたたび脳裏を過ぎる。そのまま綿毛のようにふわふわと広がり、見えない刃となって甲斐の心を苦しめ続けた。

「兄上、ちょっとよろしいでしょうか?」
  昼餉の少し前。人気の消えた奥の対で、美津がこっそりと呼んだ。妻もどこかに出かけている。幼い弟妹たちは庭に出て思い思いに遊んでいた。
「――どうした?」
  そう答える間もなく、寝所に引っ張り込まれる。ここならば、よっぽどのことがない限り立ち入る者はない。そう考えてのことだということはすぐにわかった。
「実は、……お昼前に咲さまから仕立て上がった晴れ着についての説明を受けました」
  そう言いながら、彼女はしきりに壁際に積まれた行李を気にしているようだ。
「ああ、そのようであったな」
  ふたりがなにやら楽しそうに話している声が寝所から漏れていた。その内容まではわからないが、時折美津の感激したような叫び声も上がっていたのだから、明るいやりとりであったのだろう。
「それがどうかしたか?」
  美津はしきりに戸口の方を気にしている。妻が戻ってこないか、不安に思っているのだろうか。
「……実は、咲さまは晴れ着の一枚ずつを重ねる薄物から下に合わせる袴まで一揃えで教えてくださいました。兄上はもちろん、あたしたち兄妹、そして侍従頭の波留に……離れの御方のものも」
  それを聞いたときは、なるほどと納得した。あの妻のことだ、それくらいの心配りはするだろう。先方が気に入るかそうでないかは別として、ひととおりの礼を尽くす。そこになんの見返りも求めてはいないのだ。
「そのすべてが、とても見事な仕上がりにございました」
  言葉とは裏腹に浮かない表情なのが気になる。甲斐が眉をひそめると、美津は続けた。
「それで……最後の一枚まで広げても、咲さまの分がないのがとても気になりまして」
「自分の衣を仕立てていない?」
  そんなはずはないだろう、いくら控えめな性格だとはいっても、自分の置かれた立場くらいはわかっているはずだ。正月の席に地主の妻が古びた衣を身につけていたら、いい笑いものになってしまう。最近は近隣の村々との親交も深まったから、新年にはいつになく来客が多くなるとも思われる。
「あたしも気になってお訊ねしたんです。そうしたら、色粉が足りなくなってしまったので染めきれなかったと仰って。ご自分はお輿入れに持たせてもらった品の中から選ぶからそれでいいと。でも……そちらの行李にはもう、品の良い絹は一枚も残っていないんです。めぼしいものはみんな解いて、兄上用に仕立て直してしまいましたから」
  妻の仕事をそばでずっと手伝っていたのだ、美津はそのこともすべて知っていた。
「兄上、このままでは咲さまがお可哀想です。あたし、これから里に下りて腕のある者に仕立てを頼むつもりです。そのことを兄上だけにはお話ししておこうと思いまして……その、あたし、出過ぎた真似はしていませんよね?」
  甲斐は思わず唇を強く噛んでいた。
  控えめでいつも人の影に隠れて目立たなくしているのは、妻の美徳のひとつだとは思っている。しかし、時と場合によっては、それが裏目に出ることもあるのだ。
  ――いや、そればかりではない。
  自分は、妻にもっと堂々として欲しいと願っていた。時には自分の手柄を自分のものとしてもいいじゃないか。どうして、すべてを他人に分けてしまうのだ。
  水路のことも、染め粉のことも、……そして薬草のことすらも。気づいたときにはそれらは皆、甲斐が口をきいたことになっていた。
  人の手柄を横取りしていい気になっているほど、自分は馬鹿ではない。たまにはできた妻を持ったことを誇りに思う余裕を見せるのもいいものではないか。
「……兄上?」
  かなり険しい表情をしていたのだろう、美津が不安そうに声を掛けてくる。
「ああ、……いや、助かるよ。今の話、急ぎ頼む。ただ――あれに悟られると厄介だ、くれぐれも内密にするように」
「はいっ、わかっております!」
  新年までは一月を切っている。しかしそうであっても、腕の立つ者ならば数日で見事な晴れ着を縫い上げることができるだろう。それならば、たまには驚いた妻の顔をみるのも一興だ。目も覚めるような美しい絹を前にすれば、きっと頑なな心もいくらか緩むに違いない。
  美津が出て行ってしまうと、甲斐は自分の文机に向かった。そして傍らに置いた道具箱をそっと開く。
  誰にも触らせないその場所には色とりどりのかんざしや飾り紐が隠れていた。どれも遠出をした際に求めたものばかりである。
  吟味に吟味を重ね、ようやくひとつを選び出すことはまったく苦にならなかった。しかし、大変なのはその先である。どうしても土産だといって手渡すことができず、そのままになってしまった。
  気づけばひとつの引き出しに収まりきれないほど、量が増えてしまっている。
  今更、こんなものを手渡したところで、妻の心が癒えるとは思わない。自分はそれだけのことをしてきた、彼女をひどく傷つけた。だから、今がある。
  しかし、それでも願ってしまう。もしもひとしずくの望みがあれば、そこから少しずつでも互いをたぐり寄せることができるのではないかと。
  妻はこの地の民たちに希望をもたらしてくれた。それならば、今度は彼女自身が幸せになるべきだ。

 

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