TopNovel>薄ごろも・26


…26…

 

 気ぜわしく過ごすのは嫌いではない。あれこれと物思いに耽る暇がないのだから、むしろ幸いといえよう。その朝も咲は朝餉の膳が下がるとすぐに村に降りていった。
  怪我のこともあり一時は方々へ出かけることも自粛していたが、最近では見咎める者もなくなったこともあり、ある程度は自由に過ごしている。皆が正月の準備に忙しく、手が回りきれないということもあるのだろう。
  地主の屋敷を出て真っ直ぐに下れば、程なくして一面の薬草畑が現れる。季節を問わずに植え付けと収穫を繰り返すことのできる種を選んだこともあり、農閑期になってもこの畑の手入れだけは変わらずに続いていた。しかし農民たちはそれを苦にするどころか、先を競って作業に当たりたがる。
  朝夕に煎じる薬湯や新鮮な水で、村人の体調は格段に良くなっているように見えた。
  冬の訪れとともに、この地を流れる気もひんやりと凍り付き、不意に頬を撫でられるとキン、と痛みが走る。咲は思わずその部分に指をあててみたが、もちろん血が出てくることもなくただ凍えて強ばっているだけであった。
  道ばたの秋草も立ち枯れて、寒々しさを際だたせている。しかしそれでも、新しく整備した水路を流れる水音がどこまでも続いているのを耳にすれば、やがてやってくるはずの芽吹きの季節を思い浮かべることができる。
  ――ああ、そうだ。この地に降り立ったのも、そのような時節であった。
  春と夏と秋と、そして冬と。目の前を通り過ぎていった季節を、その風景を、ひとつひとつ思い浮かべる。辛いことは皆忘れてしまった、心に残るのは柔らかな幸せだけ。咲は唇を噛みしめ、刹那に胸に宿った痛みを慌ててやり過ごしていた。

「ようこそお出でくださいました! ささ、こちらへ。わざわざご足労いただき、誠にありがとうございます」
  大きな門を構えた屋敷に入っていくと、その家の女主人が嬉々として出迎えてくれる。
「さあさあ、皆はもう揃っております。奥方様のお出ましを今か今かとお待ちしておりました」
  広い板間を持つこの家は、村の女子たちの寄り合い場となっていた。今日もここで、晴れ着の裾を彩る刺し文様を教えることになっている。とはいえ、それほどたいした技術でもない。やり方さえ覚えてしまえば、誰にでもできることであった。
  なにごとにも幸いを見つけることはできる。辛く厳しいばかりであった都暮らしも、いくつかの恩恵を与えてくれた。あの頃、顔見知りの侍女たちから聞いた他の集落に伝わる珍しい技術がこうして今、役立つのだ。
  衣の全体にびっしりと絵を描くように刺し文様を施した晴れ着は、王族かそれに準ずる身分にある方にしか許されていない。その他大勢の庶民が楽しむのは染め上がった布地に直接染め付けする布絵か、または単調な針目が描く文様であった。
「……こうして一度針目を戻すと、花が開いたように見えるでしょう。糸色を選んで刺し進めれば、とても華やかな仕上がりになります」
  広間に集まった村の女子たちから、ほおっと溜息が漏れる。
  この刺し文様を教えてくれたのは、黄金の髪を持つ南峰からやってきた侍女であった。明るい気だてで、すみれ色の瞳をくるくると動かしていた彼女はその後どうなったのであろう。まだ都の竜王御殿で変わらずにお務めを続けているか、あるいはすでに里に引き上げたか。どちらのせよ、彼女もまた新しい年を迎えるために、この花のような文様を刺し続けているに違いない。
「あのぉ、奥方様。先日教えていただいた文様が……その、途中から急に上手くいかなくなって。見ていただけますか?」
  そう言って、刺しかけの衣を差し出してきたのは、年若い女子であった。咲よりもふたつ年下だというから、美津と同じか。それと、……行方知れずのすぐ下の妹も、今はこんな風に娘らしくなっているのかも知れない。
  柔らかな頬、明日への希望に溢れた眼差し。誰もがまだ見ぬ未来に、思いをはせている。
  ……そう、自分もかつてそうであったように。
「奥方様?」
  しばらくぼんやりともの思いに耽っていたらしい。ふたたび声を掛けられて、咲はハッと我に返る。
「あ、……ああ、ごめんなさい」
  差し出されたものを慌てて受け取り、問題の箇所を確認する。上手くいかなくなった原因はすぐにわかった。
「ほら、ここでひと針戻すのを忘れてしまったのね。そのままで続きを進めてしまったから、針目の数が合わなくなってしまったみたい」
「あ、……本当だ。そうですね」
「すっかり覚えたつもりでも、ときどきは前の部分を見返して確かめるといいと思うわ」
  広間に集ったのは女子ばかりが二十名ほど。年の頃はいろいろであるが、ほとんどの者が正月用の晴れ着を手にしている。皆の顔はとても晴れやかであった。
  長いこと、この地では冬は「死の季節」として恐れられていたという。寒気が天を厚く覆うと、それを待ちかまえていたかのように流行病が猛威を奮い始める。毎年、正月飾りを作るよりも病人の看病に追われ、眉をひそめ悲壮感に溢れているうちに、すべてが走り去っているのが常だったと。
  再び巡る芽吹きの季節には、すでに心身共に疲れ果てている。それでも村人たちは鍬を持ち、硬い大地を耕し始めていたのだ。
  ――きっと、この地だけではない。他にも人々が病み苦しんでいる土地がいくらでもあるのだろう……。
  忙しく針を動かし続ける女子たちの間を、ゆっくりと見て回る。
  半年以上が過ぎて、この者たちともずいぶんとうち解けることができた。はじめは遠巻きにまるでおぞましいものでも見るような眼差しを向けられていたのが、信じられないほどの進歩である。
  余所者として誰からも疎ましがられていた日々。つい昨日のようにも思えるし、遠い昔のようにも思える。正直、今の咲にとってはそのどちらでも良かった。
  ぐるりと一周して元の席に戻ると、咲は再び自分の針を持つ。そこには色とりどりに染め上がった糸を使い、様々な刺し文様が施されていた。いわゆる「お手本」のようなものである。同じものを何枚も作り、集まった女子たちに順に配っていた。
  それを何針か縫い進めたところで、咲は赤子の泣き声を遠く聞いた。最初は空耳かと思ったが、その後も何度も聞こえてくる。この家で新しく赤子が生まれたという話は聞いていない。不思議に思って耳を澄ませていると、それに気づいた女主人が恥ずかしそうに教えてくれた。
「隣村に嫁にやった娘が、子供を連れて里帰りをしてきているんです。騒がしくて申し訳ございません」
  そう説明を受けているうちに、奥との境にある襖が開き、赤子を抱いた若い娘が出てきた。年の頃は咲と同じくらい。血色の良い頬をして、大きな目が印象的だ。
「三月前に生まれたばかりです、ようやく首が据わって扱いやすくなったのですよ」
  まるまる太った赤子は、乳の香りがしていた。広間にいた女たちが我先にと集まってきて顔を覗き込むので、しばらくは驚いた様子だったが、やがて日溜まりのような微笑みを浮かべる。もちろん、女子たちからはわっと歓声が上がった。
  その様子を、咲は少し離れた場所から眺めていた。もちろん側に寄ってみたいが、なんとなく気後れしてしまう。ようやく顔なじみになったとはいえ、やはり自分だけが蚊帳の外のような気持ちがぬぐい去れない。赤子を抱く娘はこの村で生まれて大きくなったのだ。ここにいる誰もとなじみがある。
「……奥方様」
  そんな様子をどのように見て取ったのか、ふたたび女主人が声を掛けてくる。
「ご迷惑じゃなければ、抱いていただけませんか? この子は女子ですから、奥方様のようなお美しくて聡明な娘に成長してもらいたいと思うので……」
  その言葉には少なからず驚かされたが、異を唱える理由はない。咲は場所を空けてくれた女子たちの間に進み、赤子をへと腕を伸ばした。
  懐かしい重みが、柔らかく届く。こんな風に何度も生まれ立ての弟や妹を腕に抱いたものだ。咲の母は次々に子を産んだので、とてもひとりでは育てきれなかったのである。
  ――ああ、なんて温かいのだろう……。
  そのとき、誰かが言った。
「こうしていらっしゃると、まるで奥方様の御子のようですね」
  咲がハッと我に返ると、他の者も続ける。
「なにを言うの、奥方様にだってじきにお子様がお生まれになるわよ。だって――」
  脇にいたもうひとりに脇を小突かれ、その者は途中で話をやめる。そして皆が一様に咲の後ろを見るので、自分もつられるように振り向いていた。
「……あ……」
  庭先に立っていたのは、自分の夫であるその人であった。
「まあ、地主様。ようこそお出でくださいました、どうぞこちらからお上がりくださいまし」
  女主人が慌てて取りなしたが、彼は首を横に振る。
「いや、そろそろ昼の支度を始める頃であろう。ちょうど前を通りかかったら、こちらにいるといわれて迎えに来たまでだ」
  彼は女子相手の会話があまり得意ではない。そのことは、前々から知っていた。とくにこのように女ばかりが多く集まっている場所では、どのように振る舞ったらいいのかもわからないようだ。
「では、本日はこのくらいにいたしましょうか」
  咲は女子たちにそう声を掛けると、そそくさと帰り支度を始めた。たいした手間ではない、手持ちの針道具は小さな行李ひとつに収まってしまう。片付けが済むと、彼とは目を合わせないように立ち上がった。
  背後で皆がひそひそとなにかを言い合っているのも聞こえている。しかし、少しも頓着していない振りをした。

「……ずいぶんと賑やかだったようだな」
  屋敷を出ていくらか歩いたところで、彼はぽつりと言った。咲はすぐには言葉を返すことができない。「はい」と肯定したらいいのか、もしくはなんらかの言葉で否定したらいいのか、わからないままだったからである。
  それきり交わす言葉もなく、ふたりとも押し黙って歩いていく。村人の命を繋ぐ水路がさらさらと明日に向かって流れている。そのせせらぎに逆流するように、ふたりは緩やかな坂を登っていった。

 

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