TopNovel>薄ごろも・27


…27…

 

「昼餉のあと、なにか用事があるのか?」
  夫がそう切り出したのは、屋敷の門まで戻って来た頃であった。
「あ、いえ……」
  正月の準備も一段落したため、今日の午後はのんびり繕い物でもしようと思っていたところである。急ぎの用事でもないのだなら、このように答えても間違いはないだろう。
「そうか」
  だが、そこまでで会話は終わってしまう。咲は彼のすぐあとを歩きながら、どうしたものだろうと小首をかしげた。
  屋敷の裏手では藁打ちの音がさかんに聞こえている。正月のしめ縄飾りを作る準備が始まっているらしい。藁は加工する前に木槌で叩くと柔らかくなって細工がしやすくなり、しかも丈夫になるのだ。
  まだ咲の父が存命で田舎暮らしをしていたころは、藁打ちの音が聞こえるたびにそこへ飛んでいったものである。そして作業をする大人たちに混じって縄をなったり、わらじを編んだりしていた。
  あの頃、世話になった人たちは今、どうしているだろうか。自分はいつか、彼らにふたたび出会う機会があるのだろうか。
  ふとそのようなことを考えつつ、咲は天を見上げる。どこまでも透明に続いていく真冬の色。諦めてしまったことは数多くあるが、やはり叶えたい夢もある。

 昼餉は奥の対で、夫や弟妹たちと共に賑やかに膳を囲んだ。
  じっと座っているのも難しい年頃であるのに、この館の子供たちは驚くほど行儀が良い。給仕をする侍女たちの手を煩わせることなくきちんと正座をして前を向いている様は、数年前に亡くなった両親に厳しく思いやりをもってしつけられたことを推測させる。
  一度外に飛び出せば日が落ちるまで泥だらけになって遊んでいる男子も、上手に箸を使って煮豆を一粒ずつ丁寧につまんでいた。
  こうして皆で集まることができるのも、以前に比べて土地が落ち着いてきた証拠であろう。咲がこの地にやってきた頃には人々の心も始終ざわついていて、ゆっくりと食事を楽しむゆとりもなかったように思う。
  侍女たちが膳を持って引き上げてしまうと、夫はすっと立ち上がった。
「その衣では都合が悪そうだ、もう少し動きやすいものに取り替えろ」
「……え?」
  彼の方は野歩きにも支障がないような普段着であったから、さっさと草履を履いて縁を降りてしまう。慌てて聞き返したが、それきり返事もなかったので、咲は仕方なく言われたとおりにした。
  今日はえび茶色の袴に牡丹色の重ねを合わせている。庄屋の屋敷に招かれたので、相応の支度をしていたのだ。しかし、動きやすい服装と言っても、その用途に合わせて品物は変わってくる。あれこれと考えた末、野良仕事をするときに身につけるような草木染めの着物を選んだ。長い髪も邪魔にならないように後ろでひとつにまとめる。
  着替えの終わった咲が縁に出て行くと、夫はもうずいぶん先を歩いていた。このままあとに続いていいものだろうか。判断するだけの言葉を受け取っておらず戸惑うばかりだが、彼が手招いてくれる性格でないこともすでに把握している。
  とりあえず、あとをついていってみよう。もしもそれで都合が悪ければ、そのときはすぐに引き返せばいい。そう思い、急ぎ足を進めた。
  屋敷の表庭は、新しい年を迎えるために綺麗に整えられている。植木は刈り込まれ、落ち葉もすっきりと片付けられていた。日差しはあっても、気はピンと張り詰めていて冷たい。寒椿のつぼみがほころび始めた向こうには、離れ館がいつものように静かに佇んでいた。
  あちらでも新年の支度は進んでいるのだろうか。近頃では誘いの声も掛からなくなり、なんとなく疎遠になっている。それだけではない、あの侍従頭の波留までが以前にも増して余所余所しい態度を取るようになっていた。
  いちいち気にしていても仕方ないが、不仲なままなのも辛い。そうは言っても、こちらからどのように働きかければいいのかわからない。
  咲は唇を噛むと、ふたたび向きなおった。見れば、夫は通用門から外に出ようとしてる。だから、慌てて少し小走りになった。
  彼の進む先は民家の建ち並ぶ坂を下りた南側ではなく、その反対の山側であった。一度も振り返ることなく、どんどん歩いていってしまう。痛めた足首はとっくに完治しているが、それでも男の足について行くのは厳しいものがある。
  ただ、この先は一本道だ。姿を見失って迷う心配はないだろう。
  いくらか歩いたところで、咲は後ろを振り返る。小高い丘になったその場所からは、広々とした耕地や民家の建ち並ぶ村の風景が一望できた。
  冬枯れた大地の中で遠目にもひときわ目を引くのが、やはり薬草畑だろう。最近では行商人の間でも噂が広まっているらしく、収穫期には新しい顔の者が買い取りに訪れることもある。
  質の良い薬草を少しでも多く手に入れようとそれぞれが買値をつり上げるので、近頃ではそれを仲介するための専門の者を置くことにした。村が貧しいため遠方へと出稼ぎに行っていた若い衆も、次々と呼び戻されている。
  咲はホッと胸を撫で下ろす。そのとき、どこからか蹄の音が響き、思考を遮った。村に続くあの急な坂道を馬で駆る猛者は、その道の達人以外にない。咲の胸がチリ、と痛んだ。
  ――そろそろかも知れない。
  しかしすぐに頭を切り換え、先に進む。夫はすでに森に分け入ってしまったらしく、その姿は見えなかった。

 ようやく彼に追いついたのは、森を抜けて山に続く野に出たときだった。ここは数ヶ月前、咲が足をくじいて立ち往生していた場所である。あの頃と比べると、草木はほとんど枯れて冬の趣に変わっていた。
  それでも暖かい日向には季節外れの花がぽつぽつと咲いている。たぶん、あまりの心地よさに季節を間違えてしまったのだろう。大きな寒波がやってくる前に、無事に実を結ぶことを祈るのみだ。
「こっちだ、そろそろ着くぞ」
  夫は咲の姿を認めると、そのままくるりときびすを返す。そして、以前咲が分け入った山の方ではなく、左手の脇道を進み始めた。
  少しの間に山の間の細道もすっきりと整備されている。今は正月前で休止しているが、農閑期に入って集中して染め粉の原料となる岩を切り出していたのだ。頑丈な男たちに繰り返し踏みつけられるだけでも、適当な普請になるのだろう。
  さらさらと水音が聞こえてくる。このあたりは湿地帯で、うっかりすると水に足を取られてしまうのだが、それにしてもこれほどのまとまった水量はあるだろうか。
  山沿いにぐるりと進んだところで、咲は足を止める。――というよりは、それよりも前には進めなくなっていた。
「これは……」
  周囲を木々で囲まれたその場所は、透明な水に満たされていた。植え付けの時期の田んぼほどの水量だろうか、それほど底は深くない。
  しかし、それよりも咲が驚いたのは一面に咲き誇っている純白の花たちの姿だった。細くしなやかに伸びた茎、同じくすっと伸びた長い葉、その上にはちょうど蝶が羽を広げたような美しい花が咲いている。百、二百……いや、それだけではとても足りないだろう。いったい、どれだけの株があるのだろう。
  しかもとても芳しい匂いがする。甘く、それでいて透き通っていて、ずっとその中に埋もれていたいと思える不思議な香りだった。
  咲にとって初めて見る花だった。珍しい品種は、西南の大臣家にも都の竜王御殿にもたくさんあったが、この花には出会ったことがない。
「これは菖蒲の一種で、春霞という花だ。咲き終わったあとの球根から香料が採れると聞いている」
「そう……なのですか」
  水の綺麗な湿地帯にしか生息しない種類なのだろうか。それにしても優雅な立ち姿である。
「私もこの花を見たのは、十年ぶりになる。何年も花を付けないから、とっくに絶滅してしまったのかと思っていた。この道を新しく整備したことで湧き水が堰き止められ、地中に眠っていた株が息を吹き返したのだろう。ただ、本来ならば春を迎えてから花を付けるものだからな。いつまで花が元気でいるかはわからないが」
  見ると花びらの縁に無数の小さな水玉が浮き上がっている。それが日差しに照らし出され、キラキラと反射していた。それにより、花畑の全体が光を集めたようになっている。
  しばらく、ふたりは水辺に静かに佇んでいた。気の流れに揺れる花たちが一刻ごとに姿を変え、いくら眺めていても飽きることはない。しかも、その芳しい匂いまでがあたりに優しく漂っているのだ。
  そのうちに気の流れが変わる。見ると、西の方が朱く染まり始めていた。
「そろそろ戻るか、あまり遅くなるとまた美津が心配するからな」
  彼はさらりとそう言うと、さっさと来た道を引き返し始める。咲もそれにならおうとして、しかしすぐに足を止めた。
「あっ、あの――」
「なんだ?」
  夫が足を止めて振り向く。
「この花、少し持ち帰ることはできませんか?」
  その声に、咲を見つめる瞳がすっと細くなった。そしてそのまま、背を向けてしまう。
「この花は刈り取ればすぐに枯れてしまう。人里で育てようとしても上手くいかない。だから、直接こうして眺めに来るしかないんだ」
  どうしてそんなこともわからないのかと言いたげな、ぞんざいな口調。咲はそのまま押し黙るしかなかった。それでふたたび歩き始めたのだが、後ろが気になって仕方ない。
  ――ここにしか咲かない花、ここでしか根付けない花。
  あの御方も、いつかこの場所を訪れることがあるのだろう。今はまだ無理かも知れない、でもきっと、必ず。ひとりでは難しくても、誰かの導きがあれば叶う夢がある。
  その想いにたどり着いたとき、咲は知らず口元に笑みを浮かべていた。
  自分は少し弱くなりすぎたようだ、しかしまだ今ならば引き返すことができる。
  髪を束ねていた紐を解く。さらさらと広がった髪の間に、花の残り香が移ることを信じながら。

 

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