…29…
腕の中で、妻は哀れなほどに震えていた。
苦しいのだろうか。そう思って抱きしめる腕を少し緩めると、さらに怯えたようにすがりついてくる。
これから起こることに対する恐怖からくるものではないらしい。むしろ、行き場のない心細さが、彼女を駆り立てているようだ。それが証拠に、細腕に込められた力は驚くほど強かった。
「怖がらなくていい、……怖がらなくていいから」
そう言いつつも、気づけば自分の身体までが大きく震えている。あまりにも余裕がなく、情けない限りだった。妻はそれを知ってか知らずか、ただ身体を強く押しつけてくる。
いったい、なにが彼女をここまで焚きつけているのか。深い理由があるのだろうか。
疑問に思わなかったと言えば嘘になる。なんの躊躇いもなく当然のように身体を重ねるには、時間が経ちすぎていた。
しかし、こんなに必死にすがってきているのに、どうして振り払うことなどできるだろう。否、そうではない。もしも機会があれば、自らこうしたいとずっと思っていたのだ。
正直、男女のことにはあまり慣れていない。ひととおりのことは教えられていたが、とても自慢できるようなものではなかった。
いいのか、本当にいいのかと再度訊ねたくなる。だが、その言葉を実際に口にすれば、さらに躊躇いが大きくなるだろう。身も凍るような冬の夜、互いの体温で温め合うことは、間違ってはいない。
「……あ……」
骨の浮き出た首筋に唇を寄せる。妻の口元からは、かすれた甘い声が漏れた。それに、反応してしまうと、ハッとして口をつぐんでしまう。彼女がぎゅっと唇を噛みしめるのが、気配でわかった。
甲斐はそれには気づかぬ振りをして、妻の寝間着の腰紐を探った。結び目はすぐに見つかったが、紐の端がどこにあるのかがわからない。焦っては駄目だと思うとさらに、指先が震えてしまう。
しっとりと柔らかい身体がさらに強く密着してきたような気がする。それだけで気が遠くなりそうだ。そして、気づく。このときをどんなに待ち望んでいたかということを。
自分の気持ちに踏ん切りがついたとき、頼りない腰紐に手が届いた。それをそっと引くと、あっけなく結び目が解ける。腕の中の妻が、小さく吐息を漏らした。
ゆったりとたなびく霧の中を、ふたりで船に揺られている心地がする。このまま止まっていたければいつまでもひとつところに留まっていられそうだし、一気に流れに乗りたければそれも一興。すべては自分の舵取りに掛かっているのだ。
ここまで長引かせてしまったことで、余計な重荷が増えてしまった気がする。もう戻ることなどできないのに、まだ迷っていた。自分はなんて、小心者なのだろう。
「……の」
密やかに、かすかに、耳に届く声がある。
その頃には、少しずつ暗がりに目が慣れ、艶やかな朱色の髪が流れる様や、白すぎる肌がぼんやりと確認できるようになっていた。必死にすがりついてくる様子で、妻の強い意志を感じる。あまりにも長い間、ひとりで心細い思いをさせてきたのだ。ここは、どうにかして迷いを断ち切らねばならないと思う。
今、この瞬間から、すべてを新しく始めるのだ。
あまりに自分に都合の良い考え方のような気もする。妻がなにを望んでいるのかすらわからないのに、このまま走り出していいものなのか。だがしかし、これ以上の躊躇いはいらない。
妻の衣が次第にしどけなく崩れていくのを気配で感じながら、甲斐はふたたび唇を重ねていた。そっと舌を差し入れると、おぼつかない動きで応えてくれる。彼女の口内は甘く蜜のような味がした。深く深く吸い尽くしたい、この人のすべてを手に入れたいと切に思う。
誰かをひたすら求めたり、欲するあまりに食らいついたりすることは、今までの人生で考えられなかったことだ。必要なものはいつでも目の前に並べられていたし、与えられるものだけで満足する習慣が身についている。身の丈を越えたなにかが欲しいと思ったことなどない。
だが、今は違う。
どうしてもこの想いを遂げたいと願っている。これほどの強い気持ちに突き動かされるのは、生まれて初めてのことだ。
「……咲……」
甲斐は、妻の身体を自分のしとねに仰向けに縫い止めた。細い腕、はだけた胸元。暗がりに慣れた目にはそのすべてがはっきりと確認できる。
欲しい。他のなにを捨てても、これだけは欲しい。
震える指先で、袷を大きく開く。すると、待ちかまえていたかのようにふっくらとした膨らみが左右にほろんと溢れ出てきた。
細く頼りない身体であるのに、女子らしさだけはきちんと保たれている。衣に硬く隠されていた間、そのことにも気づけずにいた。そんな自分が、あまりに愚かしい。
躊躇いもなく、その膨らみを手で包む。柔らかく弾力のあるそれは、甲斐の手のひらの中で大きく震えていた。
そっと揉みしだくうちに、花色の先端がツンと存在感を示す。それは女子の欲情を意味するものだと、甲斐は教えられていた。
妻の中にもそんな感情が隠されていたのだということに、今更ながら驚かされる。いつでも凛として、感情を乱れさせることなどない女子だと思っていた。だが、その内側には人としての当たり前の欲望が根付いていたのである。
そのことに少しも気づけず、大変な遠回りをしてしまった。
彼女が必死に声を堪えているのがわかる。それがあまりにもどかしくて、待ちかまえている先端を口に含んだ。
「……っ……!」
細い身体がぴくりとしなる。その動きに助けられながら、強く吸い上げた。
「あっ、……あっ……」
か細い、蚊の鳴くような声が耳元で踊る。鼻に掛かったその響きは、どこか甘えたようにも感じ取れ、甲斐の身体をさらに熱くする。
こうして、互いに高め合っていくのだ。どちらが一方的にどうするというのではなく。妻の身体をしとねにそっと横たえる。心細そうに震える指先を自分の指で絡め、真冬の夜更けに互いの熱を分け合った。
柔肌にはシミひとつなく、乱暴に扱えば指のあとがついてしまいそうな気がする。それを躊躇して力を弱め、次に瞬間にどうしてそのようなことをするのかと自分で自分を戒める。
妻が抗うはずもない。彼女もまた、強く欲しているのだから。
見えない糸に導かれるかのように、熱い呼吸を吐き出しながら、求め合う。胸を合わせ、口を吸う。
額も頬も耳たぶも、滑らかな場所がすべて自分のものなのだ。
互いの身体が少しでも遠のくと、妻が心細そうに腕を伸ばしていく。あまりに寄り添いすぎると、どうやって動いたらいいのかわからなくなるが、妻がそれを求めるのなら、従うしかない。
自分の高鳴りが、極限を超えようとしている。まだ駄目だ、もう少し耐えなければ。そう思いながら、腰巻きの紐を解く。妻の口から、声にならない悲鳴が漏れた。
どんな表情をしているのか確認しようとその顔を見ると、瞳をぎゅっと閉じて、半開きにした口元を震わせている。わざわざ視界を遮れば、なお恐怖が募るだけなのに。こちらを見るだけの勇気が持てないらしい。
――どうして、ここまで怯えるのだろう。久しぶりすぎて、忘れてしまっているのか。
この恥じらいが演技だとは思いたくない。しかし、あまりにも頼りなさ過ぎると、どうしても疑ってしまう。妻に対して心が開けなかった最初の理由が、胸に黒い影を落としそうになる。
考えてはいけない、忘れていればいい。これが自分たちの始まりであるならば、そのほかの感情はすべてどこかにうち捨ててしまおう。
秘められるべきその場所は固く閉ざされ、何人の侵入をも阻止しようとしていた。しかし甲斐は、必死の勇気でそこを押し開こうとする。妻の下肢にはほとんど力はなく、こちらの動きに抵抗なく動く。太ももを抱えて大きく開けば、隠されていた泉が露わになった。
そっと割れ目に沿って指をあててみる。ぴくっと腰が跳ね、少し逃げようとした。それは自分の身を守ろうとする本能的なものなのだろう。
続いて指を強く押し当て、差し込んでみる。先ほどよりも強い抵抗が、妻の身体から感じ取れた。それでも否定の言葉はない。これが身体を開くための行為であることは、わかっているのであろう。
あまり肌を気に晒していれば、凍えてくるだろう。そうは思うが、なかなか先に進めない。自分の身体が熱くたぎっているのがわかる。待ちきれない、もう限界だと言いながら。
狭くてなかなか中まで入り込めない気もしたが、この部分はそもそも男を受け入れるようにできているのだ。自分に自分でそう勇気づけ、ぐっと指を埋め込んだ。
「……いっ……」
無理に押し開いた感覚は自分でもはっきりわかったが、妻の抵抗は相当なものがあった。内壁が必死で指を押し戻そうとする。そのくせ、きゅっと強く締め付けられ、なかなか引き抜くことができないのだ。
両肩に抱え込んだ妻の足が冷たくなっている。もうこれ以上は無理だろう、そう判断して自分も寝間着をすべて脱いだ。
「……殿……」
気配を感じたのか、妻が誘うように呼ぶ。
そのとき、甲斐は身体の底から沸き立つような喜びを感じていた。
「咲、」
ひとつになりたい、ひとりではたどり着けない場所にふたりで泳ぎ着きたい。
甲斐は妻の入り口に自分自身を押し当てる。そして、ぐっと腰を進めた。
「……え?」
かすれた声が、妻の耳にまで届かなかったことを祈りたい。固く閉じた瞼、眉間にシワが深く刻まれているのは、相当に苦しいのだろう。あまりのことに、うめき声も上がらないらしい。
しかし、ここまで来てしまったのなら仕方ない。そのまま一気に奥まで貫く。妻の身体は、何度か大きくわななき、額から胸元から汗の雫がこぼれた。
甲斐は動きを止めると熱い息を吐く。その間にも強すぎる締め付けによる目眩に似た感覚が額に広がり、そのまま気が遠くなりそうだった。
「動くぞ」
わざわざそう断ってから、腰を一度引いてまた押し込む。食らいつく内壁に多少は難儀したものの、繰り返すたびに次第に滑らかに繰り返せるようになってきた。
「……と、殿……」
か細い響きが、時折耳に届く。甲斐は自分の感覚に意識を集中させ、本能の赴くままに腰を使い続けた。
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